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社会からも見放された文科省

2024-03-22 09:39:28 | エッセイ

 近年、産業界から「最近の大学はおかしい」という声が出てきている。文科省は産業界・経済界の声を聴き、大学改革を図ったはずだったが、ここ35年のわが国の凋落を見て、産業界から違った声が挙がるようになってきた。それは大学に原因があったというより、高度成長期の哲学がそのまま産業界に受け継がれてきた結果、35年経ってみたら世界情勢ががらっと変わり、当時の哲学が有効性を失ってしまったということで、天に唾するような話だとは思うが、現在の大学はそれに対応できないことは事実であろう。

 この間、文科省が新しい大学を作るためにとった施策には、・大学院の拡充、・教養部の解体、・講座制の廃止、・教員の任期制の導入、・外部資金獲得による応用志向研究、・大学の経営形態の変更と評価の導入、などがあった。

大学院の拡充 ー 院生を増やし、教員も増やしたが、定員が埋まらない。そもそも院生の質は上がったのだろうか? 産業界での受け入れ数は依然少ない。多くの場合、学位取得後の処遇が悪く、博士課程に進む意欲を削いでいる。入り易くなった大学院に入ったは良いが、お金をかけた割には碌なスキルも磨けず、人生を棒に振るケースも生まれている。何か間違っている。

教養部の解体 ー 学部での専門教育を進めるためとして教養部を解体し、教養教育の比重を減らした。教養部と学部の間にあった垣根が解消された点は評価するとしても、大衆化の進んだ多くの大学では学生の学力低下に悩んでいるのではないか? 今や、専門より教養が求められているのが実態だろう。これは教員の評価にも響き、教員は教育者である前に研究者でなければ評価されなくなった。教育が必要とされているのに、文科省は逆のことを強要している! 

講座制の廃止 ー これは今急になされたことではないが、この間の改革の中で決定的になった。講座制とは教授の下に助教授、通常2名の助手でチームを編成し、教授の指揮の下、決められたテーマに従って研究、教育を行う体制のことで、講義を行うのは教授、助教授で、助手は演習と院生に学位を取らせるための指導を行うというような分業体制だった。助手は院生と共に研究活動を行い、論文作成の手ほどきをしながら、自分でも実績を積む。教授、助教授は様々な学内の役職を担わなければならず、研究時間が限られるから、それに集中できる助手時代は貴重な時間だった。こうした半面、教授に権限が集中する結果、閉鎖的になり、研究課題を自由に選択できないとか、教授から干渉を受ける、教授への反論や批判がしにくい、教授がいなくなった場合、講座がなくなり、全員他へ移らざるを得ない場合がある、などといった弊害もあったから、徐々に講座制はなくなり、教員が職階に関係なく一様平等になってきた。その結果、予算や権限が皆に付与され、同時に負担も降りかかり、教員はオールラウンダーでなければ務まらなくなった。若い人たちにも予算と権限が来たから、自由度が増えたように見えるが、かつての教授の講義や雑用が実績を積まねばならない時期に回ってくるようになったことと併せて考えると、本当に良かったのか、と思う。これが最良という体制はないのだが。

教員の任期制の導入 ー インターン期間を置き、本当に務まるか様子を見る、ということだが、危惧したとおり、閉鎖的な雇用環境の日本では大学がだめなら**があるさ、というわけにはいかず、本務になれずに任期をくり返す、という教員が増え、今や40%と言う。悪い待遇の中に置かれたままでは将来が見通せず、生活設計も、結婚しての家庭生活も望み得ない。わが友が称して「犬猫以下だ」と。世間の非正規雇用者と変るところはない。安上り教員だが、これで研究・教育の実績が上がるのだろうか? 学生・院生が立派に育つのだろうか? 経費をかけずに多くの見返りを求めることは可能なのだろうか? アメリカのシステムを導入したらしいが、余りに環境が違うことには目が向かなかったらしい。 金欠日本はわかるが、何か間違った気がする。

外部資金獲得による応用志向研究 ー 大学法人化により交付金が削減され、大学は自分で稼がなければならなくなった。これもアメリカのシステムだろう。外部資金の多くは目先の課題解決を目的とすることが多く、勢い、研究は応用志向となる。しかし、企業側の話を聞くと「大学には大学でしかできないような基礎研究を行って欲しい、それが大学の使命」という。それを企業側が言うかと思うが、大きなイノベーションが求められる日本の産業界では、今や、それにつながる基礎研究が大事なのだと言う。しかし、企業の論理として成果が出るかどうか分からない基礎研究に資金投入は難しい。となれば大学しかない。そんなわけで、人材育成と併せて研究の方向性の転換を産業界は求めていて、現在の外部資金導入の方向とは矛盾している。産業界の求めに応じるのが大学の役目ではないとしても、わが国の社会基盤の整備のために大学が貢献するのは当然のことであろう。ここでも文科省のご指導は何か間違っている気がする。

大学の経営形態の変更と評価の導入 ー 法人化と同時に理事長、学長が強い指揮権限を持つ経営形態へと転換がなされ、それを巡っての混乱があちこちで起り、文科省の意図とは反する現象が頻出している。ここでも何かを間違えていたのだ。併せて導入された大学と教員の評価がそれに拍車をかけている。これもアメリカの方式を見境なく導入した結果であろう。評価は新しい仕事である。そのため教員の負担、それも苦手な仕事が増えるばかりである。それで教員の採点を行い、処遇に差をつけると言うから、評価に真摯に望むはずがなく、意欲を削ぐばかりである。それもアメリカなら良いとしても、ヨーロッパでは考えられない。そうでなくても大学は競争社会だからである。今や大学教員は極度の緊張を強いられていて、スーパーマンでなければ務まらない。これではもはやノーベル賞学者の輩出などは望み得ないだろう。湯川さんの論文は大阪帝国大学が発足して間なしで、まだ学生がいない時の仕事である。戦争直後の大阪市立大学の南部洋一郎研究室では中野・西島・ゲルマンの法則という素粒子の統計に関する重要な研究が生まれ、これが南部さんらのクォーク論に発展するのだが、この研究も開学直後で、教員はいるが学生はいないという時になされた。要するに暇で、自由でなければ研究には専念できないのだ。あれもやれ、これもだ、評価だ、と来るのでは研究どころか学生指導にも支障が出るだろうと心配する。

  今や、心ある教員ならおそらく大学院進学を勧めないだろう。特に博士課程はそうである。将来の展望のない世界に教え子を送り込もうとはしないはずだからだ。そんな、自分のいるところを否定しなければならない大学とはいかなる存在か! 大学の先生方もこんな望みのない大学を捨てるべき時代になったのだと思う。悲しいが。

 すでに多くの識者が語っていることだが、産業界の関係者の話を聞いたので一言と思った次第。

(2024.3.22. KK)



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