本日、「紀州街道を歩く」の2回目を決行し、南海電車高石駅から泉佐野駅まで22kmほどを歩いた。途中、岸和田市の自然史資料館によったり、昼食はしゃぶしゃぶと張り込んだり(この店しか開いていなかった)と、時間を費やしたので計6時間ほどかかった。
紀州街道は大阪~和歌山間を結ぶ幹線道路で、8代将軍吉宗が紀州徳川家だったことからその頃に整備が図られたと言う。ところどころに往時を思わせる家並みがあり、かつての裕福な農村地帯を想起させるのに十分な街道筋である。岸和田城を左手に見て1時間ほど南下すると南海電車の貝塚駅があり、近くに新町という一角があった。そこを通る旧紀州街道を歩いていると、道路の右側の民家の軒下にあるステンレス製の銘板が目に入った。見ると、何と岩橋善兵衛の生誕地とのことであった。「貝塚と言えば岩橋だなあ」と思いながら歩いていたから、余りのタイミングの良さに驚いた。
岩橋善兵衛は1800年の寛政の頃、望遠鏡の製造を営んでいて、幕府の天文方などの関係者に供給していたわが国最初の望遠鏡メーカーであった。当時最先端の技術を誇っていたわけだが、それが「貝塚?」と思うのが普通である。当時、工芸技能者の多くは京都にいたからである。貝塚は大阪と和歌山の中間ほどにあり、京・大阪から見れば大変な田舎である。でも、歩いてわかった。この辺りは大阪湾の南の沿岸地帯で、東に控える山々までは南に行くほど海に近くなるが、それでも貝塚なら10kmはある。その広い一帯は平坦で、農業には最適の地である。ただ、水の供給に課題があったらしく、溜池がたくさんあった。このように、昔から大阪を控えて農漁業が盛んだったし、海上交通も盛んだった。となれば、いろいろな工芸技術も必要とされたに違いない。そんな仕事をしていたのが岩橋だったのではないかと思わされた。
農業主体の江戸時代は農業生産地である田舎が豊かだった。紀州街道に並ぶ立派な旧家の数々はそうした時代の反映なのだろうと思うのに十分な風格を備えていた。なるほどの岩橋家だった。
(2022.11.9. 星学館)
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