パピヨン&猫~アリオ&りんご&バジル&くるみのブログ~

愛犬&愛猫と一緒に愛車で日本全国?はまだまだですが、お出掛けした事・趣味のお城の事・鉄道の事など紹介しています。

上田城築城とその背景

2016-03-12 09:12:09 | 
いよいよ、明日の真田丸第10回「妙手」上田城の築城が開始されます。
その前に私見はでありますがまとめてみました。

改めて整理し直し記しました。

古図郷土史を参考にして描いてみました。


上田城築城前の様子

丸数字は環境依存する為、一部で正確に表示されないので
使用しませんでした。数字は図中の丸数字に対応しています。


1、小泉曲輪と呼ばれている場所で小泉氏の古城館があったとされる場所。
2、現在、上田高校がある場所には常田氏の御屋敷があった場所。
3、尼ヶ淵
4、千曲川
5、旧矢出沢川が流れていた広谷
6、旧矢出沢川
7、旧蛭沢川
8、上州道(どうではなくみちと呼ぶ)
9、川中島道(東山道)当時はそう呼んでいたものと思われる
10、保福寺道(東山道)当時はそう呼んでいたものと思われる
11、川中島道、当時はそう呼んでいたものと思われる

この場所に選定した理由には
○武田信玄の家臣であった真田幸隆(幸綱)が対岸の諏訪形を信玄より宛行われ、のちに幸隆に伴って昌幸も諏訪形から尼ヶ淵を眺めていたのではと思われる事
○尼ヶ淵周辺の地も宛行われており「小泉ノ城破却御祝着ノ由被仰出候」と記された文書から、小泉曲輪の地も支配していた事
○現上田高校の場所に常田氏の御屋敷があり、幸隆の弟の隆永が常田氏の養子となり、真田氏の勢力が及んでいた事
○盆地の北側であるが盆地一帯を望むことができ、小県郡平定の為には絶好の地であった事
等々が挙げられる。


天正12~13年(1584~85年)頃の上田城の様子

丸数字は環境依存する為、一部で正確に表示されないので
使用しませんでした。数字は図中の丸数字に対応しています。


1、本丸
2、二の丸
3、作事場、第一次上田合戦時には横曲輪になったか?
4、常田氏御屋敷、第一次上田合戦時には横曲輪になったか?
5、広谷を堰き止めた広堀
6、尼ヶ淵
7、蛭沢川を北に向けて分流
8、矢出沢川を外堀のような筋に変更
9、堀への導水路に付した排水路
10、二の丸と小泉曲輪間に設置した空堀
11、小泉曲輪
12、小泉曲輪の一部で捨曲輪としその間には堀を兼ねる排水路を通した
13、城下町(この時は小規模)
14、東の大手口(城下町との行き来や町人・村人衆を戦の時に傭兵として連れ込むため)
15、北の大手口(上杉勢が侵入して来るであろうと想定)
16、千曲川
17、上州道
18、北へ寄せた川中島道
19、川中島道
20、保福寺道

北の上杉勢に対する為の縄張りになっています。
北西方向は上杉勢の領地となっている北信濃との境目になっています。
上田城自身が境目の役割を持つ最前線基地である。

なので西側は堅固な構えになっています。
東側の防御力はそれほど高くはない。また規模が小さいが城下町が整備されました。
城の鬼門となる方向には海野郷より寺社を移築しました。

本丸の構えは
天正12年(1584年)頃の様子を描いたとされる絵図を、のちに松代藩士の佐久間象山が模写した上田古図を参考にしました。江戸時代後期に模写されたものなので約260年の時を経ているので信ぴょう性・正確性には?がつきます。

徳川の援助の下、必要最低限なものは作ったと言われています。

第一次上田合戦時の上田城の様子を「天守も無き小城」山鹿素行の「武家事記」にはそう記されています。

本丸の構えは
土塁(虎口部分は石垣であったか?)を巡らし、
その上に櫓(平櫓?)・塀(おそらく木塀)を築き、そして屋敷を構えた。

本丸堀に木橋を架け北虎口を経て本丸へ。

二の丸の構えは
西側の二の丸は狭い。
土塁を巡らせその上に木柵を築いた。
北の大手口も同様の作りで木橋を広堀に架けた。いざという時に壊せば侵入を防げる。

東側の二の丸は家臣の屋敷を配置し、家臣の本丸との往来用に虎口を設け
南東の虎口へ誘導するような配置になっていたのでは。
東の大手口にも土塁・木柵を築いた。

東の大手口から東に小規模の城下町を配し、そこから北に向けても町を配した。

蛭沢川(導水路・排水路)を惣構えにし、矢出沢川もそれに付随したものとなっていたのではと思います。

全体的に中世城郭の色が出ていた最初の上田城だったのだと思います。

築城は徳川の援助で始まり、上杉の援助で一応の完成に至りました。


築城の背景







以上、上田城築城とその背景でした。

上田城築城

2016-03-11 18:35:06 | 
私見です。
古地図や郷土史を参考にして描いてみました。

上田城築城前の様子。

①小泉曲輪と呼ばれている場所で小泉氏の古城館があったとされる場所。
②上田高校がある場所には常田氏の御屋敷があった場所。
③尼ヶ淵
④千曲川
⑤旧矢出沢川が流れていた広谷
⑥旧矢出沢川
⑦旧蛭沢川
⑧上州道(みち)
⑨川中島道(東山道)当時はそう呼んでいたものと思われる
⑩保福寺道(東山道)当時はそう呼んでいたものと思われる
⑪川中島道(東山道)当時はそう呼んでいたものと思われる

この場所選定した理由には
武田信玄の家臣であった真田幸隆(幸綱)が対岸の諏訪形を信玄より宛行われ、のちに幸隆に伴って昌幸も諏訪形から尼ヶ淵を眺めていたのではと思われる事。
尼ヶ淵周辺の地も宛行われており「小泉ノ城破却御祝着ノ由被仰出候」と記された文書から、小泉曲輪の地も支配していた事。
現上田高校の場所に常田氏の御屋敷があり、幸隆の弟の隆永が常田氏の養子となり、真田氏の勢力が及んでいた事。
盆地の北側であるが盆地一帯を望むことができ、小県郡平定の為には絶好の地であった事。
等々が挙げられる。


天正12年(1584年)頃の上田城の様子。

①本丸
②二の丸
③作事場、第一次上田合戦時には横曲輪になったか?
④常田氏御屋敷、第一次上田合戦時には横曲輪になったか?
⑤広谷を堰き止めた広堀
⑥尼ヶ淵
⑦蛭沢川を北に向けて分流
⑧矢出沢川を外堀のような筋を変更
⑨堀への導水路に付した排水路
⑩二の丸と小泉曲輪間に設置した空堀
⑪小泉曲輪
⑫小泉曲輪の一部で捨曲輪としその間には堀を兼ねる排水路を通した
⑬城下町(この時は小規模)
⑭東の大手口
⑮北の大手口
⑯千曲川
⑰上州道
⑱北へ寄せた川中島道
⑲川中島道
⑳保福寺道

北の上杉勢に対する為の縄張りになっています。
西側は堅固な構えになっています。
東側の防御力はそれほど高くはない。また規模が小さいが城下町が整備された。
城の鬼門となる方向には海野郷より寺社を移築した。

築城は徳川の援助で始まり、上杉の援助で一応の完成に至った。

松代城(海津城)2/12

2016-02-19 09:24:49 | 
築城当時は海津城と称していました。

永禄2年(1559年)に武田晴信(信玄)山本勘助に命じて築城開始し翌年完成しました。

武田氏による信濃侵攻後、北信濃の国衆である清野氏の館を接収して、
川中島地域(川中島の戦い)の拠点として城郭整備しました。

天正10年(1582年)3月に甲斐武田氏が滅亡すると、織田家家臣の森長可の居城となりましたが、6月の本能寺の変織田信長が横死すると、上杉領まで侵攻していた森長可は撤退し、更に安堵領地の北信濃四郡を放棄し旧領(金山)へ帰還してしまいました。

撤退した森長可の後を追ってきた上杉景勝が奪取し、北信濃四郡を支配しました。

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉の命で会津に加増移封された上杉景勝の後は、豊臣家家臣の田丸直昌が城主となりました。

慶長5年(1600年)に森忠政が入封し待城と改名、慶長8年(1603年)には松平忠輝が入封。

慶長15年(1610年)に松平忠輝は越後高田藩主に任命され、家老の花井吉成が城代となり領内整備に尽力しました。

元和2年(1616年)に松平忠輝は改易となり、松平忠昌が入封し松城と改名しました。元和5年(1619年)に酒井忠勝が入封しました。

そして、
元和8年(1622年)に真田信之(真田昌幸の長男で信繁(幸村)の兄。関ヶ原の戦い後に信幸から改名)が入封し、以降明治2年(1869年)の版籍奉還までの247年もの間真田家が城主となりました。

正徳元年(1717年)に松代城と改名。明治5年(1872年)に廃城となりました。

2004年(平成16年)に太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されました。

現在の城祉周辺は、東西に住宅街があり、北側は田畑(元は千曲川・千曲川の氾濫原)が広がり上信越道から眺めることができます。
北側から見ると耕作地の中にポツンとあるように見えます。
東南は長野電鉄旧松代駅の線路敷(駐車場になるのかな?)が広がっています。南は城下町です。


武田氏流の築城術が良く見られた武田氏築城の代表的な城の一つです。
丸馬出し三日月堀が配されていました。

本丸を囲うようにコの字型に二の丸を配する輪郭式の平城です。

本丸は総石垣で囲われています。

正面(大手)の太鼓門と本丸堀に掛かる太鼓門前橋(木橋)




裏(搦手)の北不明門付近



東側から



南の櫓門



橋詰門(高麗門式)





北の櫓門



北不明門(高麗門式)

復元された門・続塀は全て板葺の屋根です。



本丸北西の隅にある戌亥櫓台(天守台)
近世初期頃には天守(なのであろうか)相当の櫓があった場所です。
他の3か所の隅には二重の櫓があったようです。

松代城は江戸時代に火災・水害・地震に合いその都度再建され、新たな郭・堀を配しました。
また、御殿は本丸から花の丸、更には城外へと移転し建てられました。


元治元年(1864年)城外に新御殿(真田邸)としてが建てられました。



第9代藩主真田幸教の時に完成。安政2年(1855年)に開校しました。



約250の藩校の内、往時の建物がほぼ完全な形で現存している事は極めて稀なことのようです。
明治6年(1873年)以降、昭和40年代まで小学校(初等教育の場)として使われていました。

以上、松代城についてでした。

詳しい事を知りたい方は、長野市松代町にお越しください。

朝の上田城 晴れ間が広がったので 1/21

2016-01-21 17:36:29 | 
昨日に引き続き上田城を撮影しに行ってきました。


南櫓・東虎口櫓門・北櫓


北櫓


南櫓と東虎口櫓門


二の丸から


東虎口櫓門


尼ヶ淵から


こんな感じだったかなオープニングの南櫓


西櫓

青空と雪と下見板張りの壁の茶とのコントラストがイイ感じ(*^_^*)

真田ゆきだるまと雪を冠した上田城 1/20

2016-01-20 17:44:53 | 
今日は、わんにゃん達は登場しません。

18・20日は大雪となりました。
上田ではこれでも大雪です。

2014年の豪雪とまではいきませんでしたが。

そんな中、近くを通ったので立ち寄って撮影してきました。

行ってみると、東虎口櫓門前の土橋にある真田幸隆・昌幸・幸村の顔出しパネルの横に
飾り気のない雪ダルマがあったので飾ってやりました。

風で落ちた杉の枯葉とちょっと汚れた丸めた雪で六文銭を作って。

飾る前の雪ダルマ



飾った後の雪ダルマ

真田ゆきむら(ゆきむら)幸村ならぬ
真田ゆきだるま(*^_^*)

風で角が吹き飛んでいなければ明日も見れますよ、たぶん。



南櫓・東虎口櫓門・北櫓


南櫓と東虎口櫓門


南櫓


北櫓