5/13に報道発表された
碓氷峠の陣城跡に行ってきました。
(確認の為に22日午後再訪しました)
その存在は、以前から指摘されていたようですが
約1年半前に、その存在が明らかになりその後の調査などにより今回の報道発表となったということです。
詳しい内容は、東京新聞や毎日新聞のWeb記事でご確認ください。
上田から1時間ほど、碓氷峠がある峠町に到着。
長野・群馬県境に鎮座する熊野皇大神社(長野)。
早速向かいました。
歩き始めると最初の分岐点に。
多数の祠や石碑がありました。
案内表示に従って右の
旧中山道を下って行きます。
ちなみに左は和宮道と言われる道です。
旧中山道を進むとまた分岐点が。
左が旧中山道。
右はのちに開削された道だと思われます。これについては後ほど。
旧中山道を進むと
長坂道という案内板があります。
旧中山道は人ひとりが通れるぐらいの道幅です。
更に進むとすれ違いのも大変なぐらいになります。
右の道
軽自動車から小中型普通車なら通行できるほどの道幅があります。
この右の道を70歩ほど進むと階段があります。
これがその階段です。
この階段を上がると陣城跡域になります。
ここからは、陣城跡を撮影した画像が続きます。
尚、古いお墓が点在していて、個人所有の墓地もあります。
近寄らない様に十分に気を付けて行動したつもりでいます。
どれがどこかの説明は省きます。
堀切のようです。
桝形虎口跡のようです。
横堀跡のようです。
こちらが報道記事に掲載された画像の場所です。
画像では、その凹凸感がよくわからないのです。撮影技術不足もありますが(^ω^;)
現地で見るとその姿が良く分かります。
記念撮影
枯草木の下がどうなっているかわからないし
コロコロした鹿のフン?があちこちにあったので、撮影する時だけ降ろしました。
ちなみに熊の足跡や爪痕は見る限りでは無かったです。
歩き回っている時は片手で抱っこしたまま、もう片手でカメラを持って撮影。
結構疲れました(^ω^;)
ただ、元々緩やかな広い斜面?緩やかな尾根を平削した事によってできた斜面?に築かれたので歩きやすいです。
歩き回り、見た感じや撮影した画像を元に縄張り図を作ってみました。
縄張り図下部に書いてある通りです。趣味の一環で描いたものです。
碓氷峠の陣城の縄張り図
見落とした部分も多々あると思います。
重ね重ね言いますが、あくまでも趣味の一環で描いたものです。
ちょっと解説を添えてみました。
縄張り図を描いてみて
尚、報道記事や現地の案内板には『中山道』『旧中山道』となっていますが
1590年(天正18年)当時はまだ
東山道若しくは
山道で『中山道』はという呼称は江戸時代になってから付けられたと認識していますのでこれよりは『東山道』と記載します。
①は主郭に相当するような郭かなと思いました。
②は主郭に連なる段差下がりの二郭かな。
③は堀切で隔てられた三郭かな。
④は物見郭かな。北東方向から上ってくる道を良く見渡せる場所?木々が生い茂っているのでそれは確認できませんが。
⑤は西郭?その西側に横堀・土塁があるのがわかります。
⑥は段郭?と言っていいのでしょうか?桝形虎口を含め西側に北から南に向けてコの字型の登り土塁があります。
郭内は3段+桝形虎口。段郭の東西は堀切があります。
⑦は陣城の最高地点です。全体を良く見渡せたことでしょう。
⑧は桝形虎口かな。東山道から一段目の郭(帯郭?)を経たところにあります。ちなみに東山道から三郭に至る帯郭には平虎口があります。
⑨東山道ですが、現在の状況を描いたので図では旧中山道としました。尚、その北側に描いた二重線は土塁上になっている部分を表現しています。
⑩ですが、先記したように軽自動車から小中型普通車が通れるような道なのですが、一見、箱掘りの跡かなとも思いますが私は、のちに開削された道だと思います。もしかしたら途中の部分は堀切になっていたかもしれません。
⑪は記した通りの場所です。判りづらいですが下の画像です。
東に向かって撮りました。左が道で右側が緩やかな斜面。
この辺りでは道と右側の斜面との段差が無くなります。
道の左側は数歩先に法面が確認でき一段高くなっています。その先は崖(谷)です。
反転して西に向かって撮りました。かなりの広さがあります。その先は崖(谷)です。
⑩⑪から、陣城跡地には、お墓が点在しています。
江戸期の年号が彫られた墓石が多数点在。
中には横倒しになり半分埋まっている苔むした墓石もありました。
そして今も使われているお墓もあります。御影石のお墓があり『平成』の文字が彫られていました。
また⑪の広い緩斜面にも墓地が数か所あります。こちらのお墓にも『平成』の文字が彫られていました。
これらの事を考えると、車の出入りが必要だということです。
その昔は歩いて墓地へ向かったが、車社会となると車が通れるように整備したのだと思います。
また、この道は先に掲載した画像の通り
800M先行き止りなのです。
1590年当時に他の古道があったとは思えませんし、この部分を堀切にする必要があったのか?とも思います。
そしてもう一つ、⑪の緩斜面は
雑兵の宿営地だったのでは?と思いました。
ご存知の通り、
豊臣軍北国勢は
前田・上杉・真田の連合軍でその数は35,000人であったと言われています。
その中で、
真田が先鋒であったと。
そこは勝手知ったる上州の地。まぁ、上杉勢もそうですが。
真田の軍勢は3,000人。
35,000の内の大多数の雑兵等を収容する場所が必ず必要だったと思います。
それが、⑪の地であったり、後詰として熊野皇大神社が鎮座する地やその周辺(現在、茶屋がある場所)に前田・上杉勢らが駐屯していたのではと。
碓氷峠を下ってわずかの場所である陣城跡地は最適な場所であったと思います。
山間部に居る場合、敵より上にいる事が戦の常套手段だと思います。
北条軍は北国勢進軍の防衛の為に現在、旧坂本宿(徳川家光の時代に計画的に作られた宿場)と呼ばれる場所の北西にある刎石山の南東の麓の小さな丘陵に碓氷城を築きました。碓氷峠から7kmほどのところです。
北国勢は3月中頃にそれを突破し、3月下旬頃、碓氷城から東に9kmほど先の松井田城を落としています。
しかしこの時も、
碓氷峠の陣城を拠点にしていて、僅か1か月ほど間、本格的に使用されたのだと思います。
と、まぁこんなことを考えているとワクワクしてきますね(^O^)
あくまでも、妄想です妄想。
「
真田昌幸が築城に関わった」なんて思うだけで(・∀・)ニヤニヤ。
今回は、現地でそれを感じたい想いたいということで行ってきました。
とても楽しかったです(*^^*)
お昼は、元祖力餅しげの屋さんで冷山菜力餅入りそばを頂きました(*^^*)
テラス席はペットOK。嬉しいですね\(^o^)/
テラス席は、テーブル席とカウンター席があります。
カウンター席で、すばらしい眺望で大満足なお昼になりました。