友達に怒られてわかった。
私は今まで『相手の気持ちに立って考える』というのを『もしも自分だったら』と
考えるのと履き違えていたんだなと思いました。
もしも自分だったらこういうことをされると嫌だから、相手も恐らく嫌だろうとか
もしも自分が相手の立場だったらこういうことをされると傷つくだろうからやめておこう、とか
自分から見てこの人はこういう人だからこうしないほうがいいだろう、とか
それが原因で臆病になっていたところがあったと思う。
でも結局それって相手のことを考えてるんじゃなくて、自分の物差しで自分のことを
考えてるだけにすぎなくて、世界中に自分のコピーを作ってただけなんだと思い知った。
私の今までの他人に対する思考の流れは、この人は○○したいだろうから私もその人が
楽しいと楽しいし、極力そうできるようにしてあげたいとか
私がそこにいないほうがその場が安定するだろうから私はいなくなってしまおうだとか
~させてあげたい、と人の事を考えるあまり肝心の自分がいなかった気がする。
でも、その友達の考え方は全く正反対のもので…
と言うよりも そもそも考えないんだって。毎日見る相手の雰囲気から
今日はこうなんだなって感じ取っていくらしい。
言われてみれば あぁなるほどな。と思えるんだけど、言われることがなかったから、
人見知りが激しい私にその考え方は全く想像もつかなかったわけで目から鱗。
かなりびっくりした。
大事なのは『自分には何が出来るか、どうしたいか、どうなりたいか』で
自分がどんな人間か、考える必要はないのだとその人は言う。
相手のことを考えて顔色を伺ってばかりじゃダメなんだと思った。
私の場合、どうなりたいのかというところは分かっているつもりでもいても
どうしたいのかというところが、結局どうしてあげたいのかと自分のことなのに
他人のことに摩り替わってたから、考えるところに溝が出来て思考の坩堝に
陥ってたんだと思う。
でも、よくよく考えてみたら~してあげたいと言うのは私は人が好きだから色々して
あげたいわけで、それってつまり私のしたいことなんだから何も無下に私自身を
その場から遠ざけたり外す必要はないんだよね。
したいのにいなくなるとか矛盾以外の何者でもないよね。
見返りがあろうがなかろうが嫌われようがつまるところ私がしたくてしてることなんだから
知ったこっちゃないね。(前向きな意味で
あーでも、無論、自分のことだから何でもその人の受け売りで考える気はないです。
その友達はすごく良い人で、悩んでたら親身になって聞いてくれるし、誰にでもやさしいし、
ありえないくらい前向き思考だし、にぶちんさんだし、一緒にいるとすごく楽しいし、
自分が楽しくて周りも楽しむにはどうしたらいいかって常に考えてくれてるし
と、基本、私にとってのなりたい形で私の目指す理想なんです。
でも、自分に置き換えて合わないところもあるし、そこはよろしくないなと思えるところも結構ある。
周りのこと考えてくれてるけど割と自分勝手だし、振り回すし、かと思いきや肝心な
事は何一つ言わず傍観者だし。
でも、いいところ悪いところ全部あわせて好きだし、大切な友達なのでそれはそれで
いいのです。
色々失って、結構不安な状況だけど、見習うところは見習いつつ、私なりの解決策を
考えたりしながらなりたい自分を模索していこうと思う。
そもそも私って考える人だし、自分のことを考えれば失敗を反省する上で生かせるし
軸となる好きな自分の像を持っておいて悪いことはまずないから見直す事は必要だし。
色々考えて自分を創るんだ。うん。
周りのことを考えるというのは正直かなり難しい。1人でものを考えてきた私は
どこ行っても壁ばかりで、直そうとするたびにゴツンゴツンと壁にぶつかり
焦ってばかりで結局いつも気持ちとは裏腹に空回り。
でも自論の坩堝から出られたんだ。もうあそこにはいたくないし戻る気もない。
今なら明確な目標がなくても前に進める…気がする
自分の中で嫌ってた”人として一皮向ける”だとか”成長するだとか”
与えられた回答、与えられた道が今なら好きになれそうな気がする。
だからもうちょっと周りを信じて頑張ってみようと思いました。
私は今まで『相手の気持ちに立って考える』というのを『もしも自分だったら』と
考えるのと履き違えていたんだなと思いました。
もしも自分だったらこういうことをされると嫌だから、相手も恐らく嫌だろうとか
もしも自分が相手の立場だったらこういうことをされると傷つくだろうからやめておこう、とか
自分から見てこの人はこういう人だからこうしないほうがいいだろう、とか
それが原因で臆病になっていたところがあったと思う。
でも結局それって相手のことを考えてるんじゃなくて、自分の物差しで自分のことを
考えてるだけにすぎなくて、世界中に自分のコピーを作ってただけなんだと思い知った。
私の今までの他人に対する思考の流れは、この人は○○したいだろうから私もその人が
楽しいと楽しいし、極力そうできるようにしてあげたいとか
私がそこにいないほうがその場が安定するだろうから私はいなくなってしまおうだとか
~させてあげたい、と人の事を考えるあまり肝心の自分がいなかった気がする。
でも、その友達の考え方は全く正反対のもので…
と言うよりも そもそも考えないんだって。毎日見る相手の雰囲気から
今日はこうなんだなって感じ取っていくらしい。
言われてみれば あぁなるほどな。と思えるんだけど、言われることがなかったから、
人見知りが激しい私にその考え方は全く想像もつかなかったわけで目から鱗。
かなりびっくりした。
大事なのは『自分には何が出来るか、どうしたいか、どうなりたいか』で
自分がどんな人間か、考える必要はないのだとその人は言う。
相手のことを考えて顔色を伺ってばかりじゃダメなんだと思った。
私の場合、どうなりたいのかというところは分かっているつもりでもいても
どうしたいのかというところが、結局どうしてあげたいのかと自分のことなのに
他人のことに摩り替わってたから、考えるところに溝が出来て思考の坩堝に
陥ってたんだと思う。
でも、よくよく考えてみたら~してあげたいと言うのは私は人が好きだから色々して
あげたいわけで、それってつまり私のしたいことなんだから何も無下に私自身を
その場から遠ざけたり外す必要はないんだよね。
したいのにいなくなるとか矛盾以外の何者でもないよね。
見返りがあろうがなかろうが嫌われようがつまるところ私がしたくてしてることなんだから
知ったこっちゃないね。(前向きな意味で
あーでも、無論、自分のことだから何でもその人の受け売りで考える気はないです。
その友達はすごく良い人で、悩んでたら親身になって聞いてくれるし、誰にでもやさしいし、
ありえないくらい前向き思考だし、にぶちんさんだし、一緒にいるとすごく楽しいし、
自分が楽しくて周りも楽しむにはどうしたらいいかって常に考えてくれてるし
と、基本、私にとってのなりたい形で私の目指す理想なんです。
でも、自分に置き換えて合わないところもあるし、そこはよろしくないなと思えるところも結構ある。
周りのこと考えてくれてるけど割と自分勝手だし、振り回すし、かと思いきや肝心な
事は何一つ言わず傍観者だし。
でも、いいところ悪いところ全部あわせて好きだし、大切な友達なのでそれはそれで
いいのです。
色々失って、結構不安な状況だけど、見習うところは見習いつつ、私なりの解決策を
考えたりしながらなりたい自分を模索していこうと思う。
そもそも私って考える人だし、自分のことを考えれば失敗を反省する上で生かせるし
軸となる好きな自分の像を持っておいて悪いことはまずないから見直す事は必要だし。
色々考えて自分を創るんだ。うん。
周りのことを考えるというのは正直かなり難しい。1人でものを考えてきた私は
どこ行っても壁ばかりで、直そうとするたびにゴツンゴツンと壁にぶつかり
焦ってばかりで結局いつも気持ちとは裏腹に空回り。
でも自論の坩堝から出られたんだ。もうあそこにはいたくないし戻る気もない。
今なら明確な目標がなくても前に進める…気がする
自分の中で嫌ってた”人として一皮向ける”だとか”成長するだとか”
与えられた回答、与えられた道が今なら好きになれそうな気がする。
だからもうちょっと周りを信じて頑張ってみようと思いました。