女性ことばについて(「女ことばってなんなのかしら?」)
先日本屋を覗いていたら、「女ことばってなんなのかしら?」と題した本があった。(平野卿子著、河出新書)
タイトルが当方の関心事でもあったので、早速買ってみたが、やさしい丁寧な語調で書かれており、読みやすかったので一気に読み終えてしまった。
この本の中で、なるほどと思ったところは数多くあり、全てを列挙することは出来ないので、要点及び面白かった箇所のみを抜粋して記しておく。(著者は翻訳家だけに資料となる本も数多く読んでおり、また外国語、文化にも精通しているようなので、本の内容は面白かった。)
〇日本に女ことばが存在する理由 (日地谷キルシュネライト氏の感想)
「性差」というカテゴリーは、日本においては重要な、いやむしろ決定的とも言える基準であり、日本語を形成している他の重要な特徴と比較しても、より絶対的な要素であると言えるかもしれない。
当たり前のように男性と女性を区別する発想は、日本の文化の中に深く根を下ろしている。それだけに、男女を区別しようとする発想を克服することは、日本社会にとってはひときわ困難なのではないかと考えられずにはいられない。
〇女ことば(この本の中で筆者はあえてこの表現を用いている)の特徴
・特有の終助詞を使う (「のよ」「わ」「かしら」「わよ」など)
・訛った母音を使わない (「うるせえ」「知らねえ」など)
・卑語や罵倒語を使わない (「尻」(ケツ)「畜生」など)
・接頭辞「お」をつける (「お砂糖」「お花」など)
・感動詞は「まあ」「あら」など
・敬語をよく使う
(現在女言葉として認識されている「だわ」「のよ」などの起源は、明治時代の女学生の話し言葉で、当時は下品で乱れた言葉だとされていたが、その後「日本女性は丁寧で控えめで、上品だという「女らしさ」と結び付けられ、それにはやわらかい言い方が適している」ということで、このような話し方が女性言葉として広まるようになった。)
〇女ことばの制約
・悪態がつけない
・命令が出来ない
(つまり、女性言葉は、控えめ、遠慮したものになっているので、女性の言動を制約のあるものにしているということ。)
〇西洋におけることばの性差 (女らしい言い回し)
西洋には日本のような形での女ことばは存在しません。しかし女性らしい話し方を強いられるのは日本だけの現象ではないのもまた事実なのです。
ドイツの心理学者ウーテ・エーアハルトは、その著書の中で女性の話し方の例をあげ、これらを典型的な「女らしい言い回し」だと指摘しています。
・「あなたもそう思わない?」
断定しない。付け足しのような言い方をしたり、発言の最後を質問で締めくくったりする。そうすることで人間関係を安定させようとするからだ。重要なことは誰も傷つけないこと。自分の意見を主張するより、まわりを優先する。
・「ひょっとして今日時間ある?」
「ひょっとして」はなくても意味は変わらないのに、多くの女性は用心深い口の利き方をする。相手の同意が得られない場合にすぐに撤回できるようにとの配慮からだ。
・「もし誰も反対でなかったら・・・」
もってまわった言い方をする。女性がこんなに遠慮深いのは、幼いころから、へりくだったものの言い方をするように教育されており、生意気な態度をとると、女の子の場合は批判されてしまうからだ。
・「今晩どこへ行く?」「なにをしましょうか?」
要求する代わりに質問する。
これは相手に従わせることを諦めた女性特有の話し方であり、いたるところで耳にする。
・「ほんとうは・・・だけど」
これは裏返しの表現である。「本当は約束があるんだけど・・・でも、いいのよ、断っても。」
要するに、「わたしはあなたの言う通りにする」と告げているのだ。
・「飲みに行く?それとも映画の方がいい?」
内心映画に行きたいと思っていても、こういう言い方をする女性は多い。そして本当は何が言いたいのか察してくれるよう、相手に求めているのだ。
*女性を縛っているのは、「よ」「わ」「ね」などの語尾や、「お醤油」といった言葉遣いではなく、「女らしい言い回し」(力関係が反映される話し方)なのです。
*生粋の女ことば話者であるわたしは、これからも女ことばを使い続けます。そのことに少しも抵抗感はありません。「そうだ」ではなく「そうね」と言おうと、「いいか?」ではなく「いいかしら?」と言おうと、それはたいした問題ではないからです。
重要なのは、「女らしい言い回し」をやめてきちんと自己主張をすることなのです。
〇西洋における女性名詞、男性名詞、中性名詞
(参考になるがここでは省略)
〇キリスト教社会の基本単位は、男と女のカップルです(これは聖書の影響によるもの)。でも、カップルで行動する社会って、考えようによっては結構不自由なものではないでしょうか。
そこへいくと、日本は本当に自由です。昔から「亭主達者で留守がいい」というように、日本は女と男が別々に行動する国なのです。日曜日は夫はゴルフ、妻は女友達とランチや映画、なんてことはざら。夫は家で「お留守番」という場合もあり。いや、それどころか妻が夫を残して女友達と旅行に行くことも珍しくありません。
西洋諸国が「カップル社会」なら、日本はさしずめ「男女棲み分け社会」といえるでしょう。けれども根底にある考えは同じです。どちらにも「女は愚かで弱い」という大前提があり、それが西洋では「だから、俺の傍を離れるな」となり、日本では「だから、ひっこんでいろ」となっただけのこと。
〇日本語の女と男に関することばは、釣り合いの取れていないことが非常に多い。非対称といえば聞こえがいいですが、実態はほとんどが性差別なのです。
「女」に比べて「男」はプラスイメージを帯びることが実に多い。
たとえば、「男の中の男」とはいっても「女の中の女」とはいわない。ほかにも「男一匹」「男が惚れる」「男が立つ」「男が廃る」「男になる」「男を上げる」などなど。ここに共通しているのは「男=立派な人間」のイメージです。
そうそう、箱根駅伝の「男だろ!」もありましたね。「俺を男にしてくれ」も同じ線上にあります。「私を女にしてください」?そんなことは普通言わないし、もし言ったとしたら、違う意味にとられてしまう危険があります。
いっぽう、「女」はどうでしょう。「女々しい」や「女の腐ったよう」「女子ども」「女にしておくには惜しい」など、ろくなものがありません。「女だてらに」というのも「勇敢だ」と評価するより「女のくせに生意気な」のニュアンスを含むことの方が多いですね。
〇「かわいい」は最強
日本の女を縛る点で「かわいい」はまさに「魔法のことば」です。日本男子ほどかわいい(幼い)女が好きな種族はいません。それはまた同時にかよわく受け身的な存在を愛することでもあります。
清少納言は「なにもなにも小さき者はみなうつくし」といっていますが、この「うつくし」は現代語の「かわいい」と同じ意味です。そして室町時代以降は「うつくしい」は現代語と同じ「美」を表すようになり、かわってそれまで「哀れで見ていられない」「かわいそう」という意味だった「かはゆし」が変化して「かわいい」になったといいます。
日本人はどこまでも「小さく、可憐で弱々しい」ものが好きなようです。
そもそも日本では、こと女に関する限り、「強い」ということばはけなすときに使われます。強い女は愛されません。気が強いのも、意志が強いのも、全てダメ。強くてもいいことになっているのは、「芯」だけ。控えめでたおやかではあるけど芯の強い女を男たちは誉めそやします。
西欧では逆に成熟している「大人の女」が好まれます。従って、女の子などは高校生ともなると、大人として見て欲しいということで胸の谷間をみせようとしたりしますが、これは西欧では女と男が早くから性的な存在となっているからです。
〇ばあさんとじいさん
日本では「頑固じいさん」はあっても「頑固ばあさん」とはあまり言いません。自己を主張しようとする女性は「頑固ばあさん」ではなく「意地悪ばあさん」になります。これにはわけがあります。頑固はすなわち信念の行きつく先だからーー男は男らしく信念を曲げずに生きろ、まわりを気にするな、正攻法で行けとなります。
かたや女は、いつだってまわりを気にしながら生きていかざるを得ません。ですから、自己主張をしようとするときは、正攻法ではなく、目立たないように裏から手を回そうとすることが多くなります。で?行きつく先はーー意地悪。
(筆者はこのように述べているが、橘玲氏がその著書「女と男」(文春新書)で言うように、意地悪というのは(「直接的な攻撃=暴力」に対して)「間接的な攻撃」と理解される。女性の場合、「直接的な攻撃」はあまりせず、「間接的な攻撃」となるのは、外からは分かりずらく、意識的あるいは無意識にごまかすことが可能だからだろう。つまり、この点に於いては筆者の結論は間違ってはいないと言える。)
以上、この本の要点及び当方が面白いと思ったところを記したが、ともかくこの本で述べていることについては、その説明も分かりやすく理解しやすかったが、当方があれっと思ったところが二か所ほどあった。(どちらも本の終いの方での記述だったので、筆者も疲れてきたのだろうか。)
ひとつは、「女の敵は女?」「女は嘘がうまい」「女は嫉妬深い」という箇所で、筆者はいずれも男たちの企みから生まれた言葉だと述べているが、その説明がどうもしっくりこない。
言うまでもなく、これは女性全てがそうだと言うということではなく、「一般的に」「概して」「どちらかといえば」ということで、論拠はと言えば科学的なものではなく、経験則から来たものであろう。
勿論男にもこのようなことはあるし、また多くの場合男の都合で発せられる言葉だと言うことは否定しないが。
もう一つは、「女らしさ」と「男らしさ」についてで、当方はこのこと(及びこの表現)を肯定的にとらえているが、筆者は否定的に見ているということ。
筆者は、あるジェンダー史家の説を参照し、そもそも「女らしさ」や「男らしさ」は存在するのでしょうか?私たちがそう思わされてきただけではないのでしょうか?と疑問を呈している。
脳の性差についても、「脳の性差はあるが平均値で何とか示せる程度」「脳は体ほど明確に男か女かのどちらかではなく、両者が入り混じるモザイク」という見解について、これ(性差のオーバーラップ)をどちらかというと性差を認めないという方向で解釈してしまっている。
筆者は「話を聞かない男、地図が読めない女」という本を面白く読んだ記憶はあるとしているのだから、同時に男女のホルモンの働きなどについての考察などがあれば、もっと違った結論になったと思うのだが。
(参考)
男女の言葉づかいの違いについては、当方、別のブログでも前に考察したことがある。