「The Lost Weekend: A Love Story」
(邦題:ジョン・レノン 失われた週末)
1969年3月にオノ・ヨーコと結婚後、1973年秋に別居し、ヨーコの強い希望で2人の個人秘書でありプロダクション・アシスタントを務めていた中国系アメリカ人のMay Pangと「失われた週末」を過ごす。
本作は、JohnがMayと過ごした1973年秋から1975年初頭にかけての18ヶ月間を、May本人の証言によって描いたドキュメンタリー。
Johnはこの間Mayの助けを借りて、最初の妻 Cynthia Lennonとの間に生まれた長男 Julian Lennonと再会を果たし、「失われた週末」という呼び名とは裏腹に、アルバム「Mind Games」や全米シングルチャート第1位を獲得した「Whatever Gets You Thru The Night」を含む「Walls and Bridges」などの名盤を創作。
David BowieやHarry Nilsson、Mick Jagger、Ringo Starrらとのコラボレーションや、Paul McCartneyとの久々の再会など、The Beatles解散以降のソロキャリアの中で最も多作かつ商業的にも成功した時期を過ごした。
The Lost Weekend: A Love Story
RELEASE DATE:5月10日(金)
メイ・パン
メイ・フン・イー・パン(May Fung Yee Pang、1950年10月24日 - )
1973年、レノンとヨーコは倦怠期に陥り、パンとレノンは18ヶ月以上の間愛人関係にあった。この時期は後にレノンの「失われた週末」と呼ばれる。パンは彼らの関係について2冊の本を上梓した。伝記『Loving John』(Warner、1983年)と写真集『Instamatic Karma』(セント・マーティンズ・プレス、2008年)である。
ジョン・レノン
ニューヨークのスパニッシュ・ハーレムで暮らす中国系アメリカ人の家庭で育ったメイ。当時は“マイノリティの中のマイノリティ”だったという。
「一緒にいる人は誰もおらず、アウトサイダーとみなされ、私はいつも一人でした。住んでいる場所の人たちとなんとか友達になろうとしましたが、それはちょっと大変でした。街に出て、ダウンタウンのチャイナタウンに行かない限り、他の中国人の家族はいなかったくらいです。“一人”というのは、とても寂しいものでした。プエルトリコ人や黒人、イタリア人もたくさんいましたが、彼らは私の思いを理解していませんでした。私にとっては非常に難しい環境だったんです」
彼女の父親は息子が欲しかったそうだ。そのため、両親は新たに男児を養子に迎えた。そのことで「自分が見捨てられたような気になった」こともあったそうだ。 高校を卒業し、大学を中退したメイ。子どもの頃から歌手ティト・プエンテ、ジョー・キューバ、ジェームズ・ブランドなどの曲を聴いて育った。
ごく自然な形でロックにもハマり、そのなかでも“リバプールの4人組”に惹かれていった彼女は、アラン・クレインがマネジメントするアブコ・レコードの受付として勤務することになった(同社は、アップル・レコードと、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターが代表だった)。
音楽に精通していたメイは、すぐにジョンとヨーコの個人秘書となり、彼らのもとで3年間勤めていた。当時の彼女は、夫婦のさまざまな出来事を把握していたため、ジョンには恋愛感情や興味を持っていなかったそう。
だが、ジョンとの関係がうまく行っていなかったヨーコから「ジョンとの交際」を促された。これが、のちに大きな波紋を呼ぶことになる。
「私はヨーコに『ジョンに関しては興味がない』と伝えると、彼女は『それはわかっているわ』と言ってきたんです。彼女は、私より17歳年上。男性には愛人や側室がいるような時代で育ったかもしれないけれど、私はアメリカ育ちで、そんなことへの理解はできていませんでした。もちろん、私は彼女にそう伝えたけれど、彼女は『(ジョンとの交際は)いいと思う』と言って部屋を出ていきました。私は、一体何が起きたのかわかりませんでした。突然、涙が出てきて、パニックになって、何が起きたか理解できずに、誰に相談したら良いのかもわからなかった」
ヨーコからメイとの交際を促されたジョンも戸惑っていたそう。しかし、最終的に、ジョンはメイを追いかけることになった。
この関係性は、短期間の浮気や不倫とは異なり、18カ月以上の間続くことになった。これが「失われた週末」と呼ばれる期間だ。ヨーコは、ジョンが自分の元に帰ってくると信じていたのだろうか。
「それに関しては、とても複雑です。彼女は人々にこう言っていたそうです。『この交際が2週間も続くとは思わなかった』と。私は『これは性的なことで、すぐに終わり、彼(ジョン)はそれを間もなく忘れてしまうだろう』と彼女が考えていたと思います。ジョン自身にも、他にやりたいこと(=ザ・ビートルズ以外の活動)があったはず。これらが複雑な状況を生み出していて、人々に理解されないことでもありました。だから、ジョンが“家に戻らない方がハッピーである”とヨーコが知った時、彼女も少し動揺していたと思います。実際には映画で描かれている以上のことが起きていて、私とジョンは幸せで、新たに家を買うつもりでした。それにポールとリンダに会いに行く予定もありました」
結局、ジョンとヨーコが離婚することはなかった。だが、1974年、ヨーコは、ジョンに離婚を切り出したことがあったそうだ。
ザ・ビートルズ時代のジョンは、常軌を逸した形で好奇の目にさらされていた。私生活を充実させることはできなかったのではないだろうか。時には息苦しい時もあったはずだ。ともに過ごした18カ月、メイはジョンのどのような魅力に気づいたのだろう。
「私とジョンのベースには、お互いが音楽を深く理解していたというものがありました。そこを通じて繋がっていたんだと思います。多くの人は知らないけれど、私はジョンに会う前からすでに音楽には関わっていたんです」
メイは、ソング・プラガーとして働いていた。ソング・プラガーとは、20世紀初頭に百貨店や楽譜店、音楽出版事業者などに雇われ、新譜の楽譜販売を促進するために、実演してみせていた歌手やピアニストなどのことを指している。
「だから、私は音楽を把握していたし、私たちにはそのことを通じて話すことがたくさんあったんです。『このレコードが好きだから、この人に会いたい』と言うと、ジョンは『へぇ、このレコードが好きなんだ』と。私がこれほど音楽に詳しいことに驚いていましたね。『我々アメリカが先に音楽を手に入れて、あなた方(=英国)は中古で手に入れてるのよ』。こんな風に言ってやったこともありました」
メイは、ジョンと共にバスに乗り、彼にあえて歩かせたりしたそう。一時期はメイの狭かったアパートで一緒に暮らしていたこともあった。 そんな彼女は、ジョンの最初の妻シンシア、そして息子ジュリアンと親しい関係にある。彼らとはどのような会話を交わしてきたのだろうか。
「シンシアとの関係はとても珍しいものだと思います。彼女はとても素敵で、実直な女性でもありました。実際に体験をした人でなければ、同じ状況について話すことはできません。彼女は、レノンとの“同じような体験”について笑いながら話してくれたんです。『あぁ、わかる、わかる。他の人が理解できないことが、私にはとてもよくわかるわ』とね。彼女とは特別な絆で結ばれていましたし、お互いに気にかけてもいました。しばらく音沙汰がないと、彼女から『今、どこにいるの?』と連絡があったくらいです。最後に会ったのは、亡くなる1年前。英国に会いに行ったんです。その頃は、彼女のご主人が亡くなったばかり。『大丈夫ですか?』と問いかけると『あなたが来ると信じていた』と言われました。その状況は、何年も前から聞いていました。私は一度も飛行機に乗って彼女に会いに行ったことはありませんでした。ニューヨークで会うことはあっても、ロンドンで会うことはなかった。だから、彼女に会えてよかった。彼女は、ジュリアンに何かあった時、私が傍で面倒を見るということを察していたと思います。それほど信頼を寄せてくれていました。ジュリアンはだいぶ年をとりましたし、私の助けは必要ないでしょう。でも、いつも彼の傍にいるつもりです。彼もそのことを知っていると思います。なぜなら、ジュリアンが作ったアルバム『ジュード』のジャケットの絵は、私が撮った(子どもの頃の)ジュリアンの写真なんです。彼はその写真を使ってくれました」
ザ・ビートルズ解散後、ポールとジョンはロサンゼルスでジャムセッションを行ったこともあった。もしジョンが今でも生きていたら、一緒に音楽を作っていたのだろうか。
「私がジョンと築いた家庭は、シンシアやヨーコのものとは異なっていたと思っています。あくまで私の家で起きたことですが……1975年1月、ポールとリンダが我々に会うためにやってきました。彼らは『これからニューオーリンズに行き、新たなアルバムを作る』と言ってきたんです。そのアルバムは『Venus and Mars』。ジョンは『それは素晴らしい』と言っていました。この話は、ザ・ビートルズを正式に解散させる契約書にサインをした後のもの。ポールとリンダが帰った後、ジョンは私に『君に聞きたいことがあるんだ。もし僕が、ポールとまた一緒に作曲を始めたら、どう思う?』と言ってきました。私は『エクソシスト』のように首を傾げて『それは素晴らしいことだわ』と伝えましたが、彼は『なぜだい?』と聞き返してきました。だから私は『あなたとポールがソロで書いているソングは素晴らしいけれど、2人が一緒に作ると、それに勝るものはないし、マジカルだから』と伝えました。彼は『それは、そうだね』と言っていました。それが私とジョンが別れる前に交わした、最後の会話のひとつでした。その時の彼は『チケットを手に入れて、ニューオーリンズに一緒に行こう』と言っていました」
では、ヨーコと和解するとしたら、それはどのような形になるのだろうか。
「ジョンが亡くなった時、彼女に連絡をとろうとしました。でも、彼女からは何の返事もきませんでした。それから、アイスランドのホテルで再会した時、彼女に手紙を書いたんです。『メイです。あなたがどんなことをしていても、成功することを願っています』とね。何も返事はなかったけど、翌朝、レストランにはマスコミを含む大勢の人々がいました。私の友人は、ヨーコから『何を食べているの?』と聞かれたと言ってきました。そこで私は、ヨーコに近づいて、彼女の名前を呼んだんです。ヘアピンの音が聞こえるほど、部屋が静まり返りました。私は『ただ、お元気ですかと言いたかったんです。あなたの幸運を祈っています』と告げました。彼女は『ありがとう!』と答えてくれました」
その後、ヨーコは手を振ってくれたそうだ。しかし、その行動がメイ本人に向けたものなのか、彼女への対応をマスコミに見せようとしたものなのか……メイは、その真相は「わからない」と語っていた。
ニューヨーク州モントークのアンディ・ウォーホルの屋敷にミック・ジャガーを訪ねた時、レノンとパンはモントーク・ポイント灯台の近くで売りに出されているスコットランド風のコテージを見かけた。
1975年2月、レノンは不動産ブローカーに買い取りを依頼した。
同月、レノンとパンは、ウイングスがアルバム『ヴィーナス・アンド・マース』をレコーディングしているニューオーリンズに
ポールとリンダ・マッカートニーを訪問する計画を立てていたが、
オノがレノンの喫煙習慣に対する新しい治療法があると言った後、訪問予定の前日にレノンはオノに従った。
会合の後、レノンは家に帰ることもパンに電話することもできなかった。
パンが翌日電話をかけた時、オノはレノンは催眠療法の施術後で疲れ果てているので面会はできないと言った。
2日後、レノンは共通の歯科予約で姿を見せた。
パンがレノンは洗脳されたに違いないと思う程、彼はぼうっとして混乱していた。
レノンはパンにオノと和解したので、2人の関係は終りだと語った。
その後の数年間、パンは内密にレノンと数回会ったが、彼らの関係が再燃する事は無かった
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