『ONODA 30 ans seul en guerre』
監督 アルチュール・アラリ
原作 ベルナール・サンドロン
原作 ベルナール・サンドロン
仲野太賀
松浦祐也
千葉哲也
諏訪敦彦
イッセー尾形
松浦祐也
千葉哲也
諏訪敦彦
イッセー尾形
壮年津田寛治の仕上がり具合が半端ない
1974年当時テレビで観てた小野田さんとほぼブレがない
ヤング小野田役の人は初見かと思ったが「しゃかりき」の子でした
ギラギラ熱演
台詞は津田さんが下手で遠藤さんが上手いが
当然 津田寛治がリアリティありです
ついでにイッセー尾形と仲野太賀のオールマイティーぶりは相変わらず凄い
これ日本映画ではないとゆーんがやっぱりなー
話題にもならへんかったしなー
それが日本やねんやろーねー
戦争映画とゆーより哲学映画ね
娯楽映画では決してないね
小野田さんのことをもっと知りたくなる
陸軍中野学校二俣分校入校。主に遊撃戦の教育を受け(他にも諜報・諜略・防諜・偽装・潜行・破壊などの特殊任務を叩き込まれた)、退校命令を受領。その後、見習士官(陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官。
同年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。当地では第14方面軍隷下の第8師団参謀部付(配属)となっており、その師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と日本軍の戦陣訓を全否定する訓示を受けている。
派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。なお派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ、短刀を渡された(この短刀は日本帰国後、実家に帰った際に母親に返している)。
同月31日、フィリピンのルバング島に着任。マニラのあるルソン島に上陸しようとする米軍を阻止するため、小野田たちはマニラから南西約150kmにあるルバング島の飛行場の破壊などの命令を受けて島に渡った。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には「引き上げ命令」が出ていたため戦意が低いことと、小野田には指揮権がないため相手にされず、1945年2月28日のアメリカ軍約1個大隊上陸後、日本陸軍の各隊は、アメリカ海軍艦艇の艦砲射撃の大火力に撃破され、小野田はルバング島の山間部に逃げ込んだ。
小野田は、友軍来援時の情報提供を行うため、部下とともに遊撃戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都であるマニラに位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。圧倒的な軍事力を誇る米軍にフィリピン全域を制圧され、小野田、赤津勇一、島田庄一、小塚金七の4人は終戦後もルバング島に取り残された。
1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため、終戦後も一等兵赤津勇一(49年9月逃亡、50年6月投降)、伍長島田庄一(54年5月7日没)、上等兵小塚金七(72年10月19日没)らと共にルバング島に取り残された。4人は作戦を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。日本では1945年9月に戦死公報が出されたが、1950年に赤津が投降し、保護された地元警察でこれまでの島での生活を証言したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。
フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。
使用した武器は99式短小銃、38式歩兵銃、軍刀などであり、そのほかに放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。29年間継続した作戦行為によって、フィリピン兵士、警察官、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷したとされる。ただし、アメリカ軍司令官や兵士の殺傷に関して、アメリカ側にはそのような出来事は記録されておらず、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半であった。このことは後に日本とフィリピン政府との間で補償問題へと発展した。
また小野田は住民から奪取した短波トランジスタラジオにこちらも住民の小屋から奪った銅ワイヤーを使った自作アンテナを取り付け、BBC、ABC、北京放送、ラジオピョンヤン、ラジオジャパンなどの放送を聴取することで[8]独自に世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えていた。
小野田は、日本の短波放送のみならず、現在の情勢を理解できないがゆえにルバング島で小野田等は戦闘を継続しているのだろうと考えた日本からの残留兵捜索隊が現地に残していった日本の新聞や雑誌からも、情勢について把握していた。皇太子明仁親王(当時)成婚、1964年の東京オリンピック、東海道新幹線開業などの記事によって、日本が繁栄していることを理解していた。しかし、士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていたという。
また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけても、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始されたのだと考え、またフィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけても、いよいよアメリカは日本に追い詰められたのだと信じたのだという。
このように彼にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、小野田は20年間も戦い続ける結果となった。末期には、短波ラジオで日本短波放送の中央競馬実況中継を聞き、戦友小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。
だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚金七死亡後の孤独により疲労を深めていった。1974年に、一連の捜索活動に触発された23歳の謎の自称冒険家・鈴木紀夫が単独でルバング島を訪れ、2月20日にジャングルで孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功する。日の丸を掲げてテントを張っていた鈴木は小野田に急襲され、銃を突きつけられた。鈴木が「僕は単なる日本人旅行者です。あなたは小野田少尉殿でありますか?。長い間ご苦労さまでした。戦争は終わっています。僕と一緒に日本へ帰っていただけませんか?」と伝えた。落ち着きを取り戻し銃を置いた小野田は鈴木と話して夜を明かし、小野田は上官の命令解除があれば任務を離れることを了承した。この際、鈴木は小野田の写真を撮影した。
その後3月4日に、鈴木とともに小野田の元上官谷口義美(元陸軍少佐)がルバング島に渡り、3月9日に小野田は2人の前に姿を現し、谷口による任務解除命令を受けて投降した。この際、谷口が任務解除の命令(「尚武集団作戦命令」と「参謀部別班命令」)を小野田に伝達した。小野田は戦争が続いていると思っていたため、最初その命令も偽装や偽情報ではないかと疑い、しばらくしてやっと任務が解除されたことに納得したと後に回想した。
同年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。当地では第14方面軍隷下の第8師団参謀部付(配属)となっており、その師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と日本軍の戦陣訓を全否定する訓示を受けている。
派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。なお派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ、短刀を渡された(この短刀は日本帰国後、実家に帰った際に母親に返している)。
同月31日、フィリピンのルバング島に着任。マニラのあるルソン島に上陸しようとする米軍を阻止するため、小野田たちはマニラから南西約150kmにあるルバング島の飛行場の破壊などの命令を受けて島に渡った。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には「引き上げ命令」が出ていたため戦意が低いことと、小野田には指揮権がないため相手にされず、1945年2月28日のアメリカ軍約1個大隊上陸後、日本陸軍の各隊は、アメリカ海軍艦艇の艦砲射撃の大火力に撃破され、小野田はルバング島の山間部に逃げ込んだ。
小野田は、友軍来援時の情報提供を行うため、部下とともに遊撃戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都であるマニラに位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。圧倒的な軍事力を誇る米軍にフィリピン全域を制圧され、小野田、赤津勇一、島田庄一、小塚金七の4人は終戦後もルバング島に取り残された。
1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため、終戦後も一等兵赤津勇一(49年9月逃亡、50年6月投降)、伍長島田庄一(54年5月7日没)、上等兵小塚金七(72年10月19日没)らと共にルバング島に取り残された。4人は作戦を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。日本では1945年9月に戦死公報が出されたが、1950年に赤津が投降し、保護された地元警察でこれまでの島での生活を証言したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。
フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。
使用した武器は99式短小銃、38式歩兵銃、軍刀などであり、そのほかに放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。29年間継続した作戦行為によって、フィリピン兵士、警察官、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷したとされる。ただし、アメリカ軍司令官や兵士の殺傷に関して、アメリカ側にはそのような出来事は記録されておらず、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半であった。このことは後に日本とフィリピン政府との間で補償問題へと発展した。
また小野田は住民から奪取した短波トランジスタラジオにこちらも住民の小屋から奪った銅ワイヤーを使った自作アンテナを取り付け、BBC、ABC、北京放送、ラジオピョンヤン、ラジオジャパンなどの放送を聴取することで[8]独自に世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えていた。
小野田は、日本の短波放送のみならず、現在の情勢を理解できないがゆえにルバング島で小野田等は戦闘を継続しているのだろうと考えた日本からの残留兵捜索隊が現地に残していった日本の新聞や雑誌からも、情勢について把握していた。皇太子明仁親王(当時)成婚、1964年の東京オリンピック、東海道新幹線開業などの記事によって、日本が繁栄していることを理解していた。しかし、士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていたという。
また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけても、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始されたのだと考え、またフィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけても、いよいよアメリカは日本に追い詰められたのだと信じたのだという。
このように彼にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、小野田は20年間も戦い続ける結果となった。末期には、短波ラジオで日本短波放送の中央競馬実況中継を聞き、戦友小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。
だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚金七死亡後の孤独により疲労を深めていった。1974年に、一連の捜索活動に触発された23歳の謎の自称冒険家・鈴木紀夫が単独でルバング島を訪れ、2月20日にジャングルで孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功する。日の丸を掲げてテントを張っていた鈴木は小野田に急襲され、銃を突きつけられた。鈴木が「僕は単なる日本人旅行者です。あなたは小野田少尉殿でありますか?。長い間ご苦労さまでした。戦争は終わっています。僕と一緒に日本へ帰っていただけませんか?」と伝えた。落ち着きを取り戻し銃を置いた小野田は鈴木と話して夜を明かし、小野田は上官の命令解除があれば任務を離れることを了承した。この際、鈴木は小野田の写真を撮影した。
その後3月4日に、鈴木とともに小野田の元上官谷口義美(元陸軍少佐)がルバング島に渡り、3月9日に小野田は2人の前に姿を現し、谷口による任務解除命令を受けて投降した。この際、谷口が任務解除の命令(「尚武集団作戦命令」と「参謀部別班命令」)を小野田に伝達した。小野田は戦争が続いていると思っていたため、最初その命令も偽装や偽情報ではないかと疑い、しばらくしてやっと任務が解除されたことに納得したと後に回想した。
制作会社 bathysphere productions
配給 エレファントハウス
公開 2021年
上映時間 174分
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