いやいやいや最近読んだ本の中ではこいつは傑出的にオモロかったのでした
ネットカフェ難民 ドキュメント「最底辺生活」
川崎昌平著 幻冬舎新書刊
僕はネットカフェとか漫画喫茶とゆーのには行ったことないんで、ネットカフェとゆーとこは『姉(49歳)が1年に何回か東京に不倫をしにやって来る時のデート場所』とゆーぐらいの認識しかなかったのです。
「ネットカフェ」とゆー言葉と「難民」とゆー言葉の組み合わせの妙には前々から何やらソソルもんがありましたが、テレビやら何やらがトレンド扱いしてきたもんでなんだかなぁ~ときなくささがあって、ちょつとアウェイかな~と。
しかししかし、昨日たまたま本屋でこの本を手にとってパラパラ~とめくってみると「この本はきっとかなり面白い」とゆー天命に近い確信を持って即レジに持って行きました。そして案の定、通勤帰りの電車での眠気も朝通勤の眠気もブッ飛ぶぐらいの面白さなのでした。
タイトルからすると社会派ドキュメントとゆー匂いがしますが、全くそーゆー客観性の積み上げによる面白みの欠いた文体ではなく、私小説系の豊饒な文化の香りがツンツンします。
テイスト的には、安部公房先生の傑作「箱男」ですね
これは箱男についての記録である。
ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。
頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺まで届くダンボールの箱の中だ。
つまり、今のところ、箱男はこのぼく自身だということでもある。
箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけているというわけだ。
背伸びをしたがる思春期の青少年の頃のワタクシにはたまらんもんがありました。
この着想と概念と想念。
おっさんになった今はめんどくさそーなんで読み返すのにも憚れますが
青春って閉塞状況が好きやったりするやないですか、別にそれほどでもないのにそーゆー状況にわざわざ身をおいて、押し入れで遊ぶ感覚とゆーか子宮回帰願望とゆーか
そんな「箱男」
見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある
ま、ま、「箱男」は青春だったので、ま、エエとして、この「ネットカフェ難民」は箱男のよーな空想科学小説とかフィクションではなくドキュメントってゆーのがミソです。
ドキュメントでこの文体はかなりヨイです。若さに任せた青春のザーメン臭もなく体育会系のうざい熱さもなく文科系のわざとらしい屈折感や負け犬感もなく、社会派系の啓蒙感もなく、飄々と最底辺(とも思わないが)を背泳ぎで泳ぎながら時々休みながらみたいな~
先日まで読んでいてかなりつまんない展開でガッカリさせられまくりの三木谷なんとかの「成功のなんとか」ゆー啓蒙本の対極ってことで
ま、三木谷さんも川崎さんもどちらも思いっきり前向きなんですが、その向いてるベクトルの違いですね。当然僕は三木谷さんのベクトルより川崎さんのベクトルの方がオモロイと感じる人間でして、「楽天派」より「箱男派」を選んでしまうタイプです。
でも川崎昌平さんは東京芸術大大学院卒とゆー華々しくもエリートな学歴をお持ちの若者なので、今後のことはあまり信用できません。それは、単にワタシが東京芸術大学の入試にスベッタとゆーヒガミ根性からの私的感情で客観性の無い意見ですからシカトしてください
格差はすっかり社会に定着した言葉となった。だが、誤解されている。本当の格差とは、文化にこそ現れている。お金がある人とない人とがいるから「格差」なのではな。より多くの文化に触れられる人間と、そでない人間の差が、本当の「格差」なのである。前者は多様な価値と解釈を学ぶことができる。後者には選択肢は少なく、強いて言えばマスメディアが用意してくれたものを咀嚼することができる程度。だが自分の意志で出会っていない文化の効用は薄く、意義はもっと深い。
~中略~
僕という人間が「広範な文化の中からおもしろいものを探し求める気力を失い、与えられたものをただ漠然と享受するだけになり、結果、唯一のそれをおもしろいと思うしかない」タイプの人間に堕してしまったという事実。いやはや、これが「格差」である。 (本文より)
と、しょっぱなから飛ばしまくりであります
僕は年金をあてにするだけで厚生年金が止められないサラリーマン気質なもんで、難民になる勇気は到底ございません。
妥協をしない前向きな川崎さんはやっぱりエライと思いました。
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