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パティ・ボイドとジョージ・ハリスンとエリック・クラプトン

2023年09月25日 | 異性
(Patricia Anne Boyd、1944年3月17日 - ) 





1964年、19歳のときにジョージ・ハリスンと出会う。きっかけは彼女が『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』にビートルズファンの女学生役で出演していたことだった。しかしボイドは一年に渡って交際していたエリック・スワイン(Eric Swayne) と婚約寸前であったため、彼への愛情から最初のデートの誘いは断った。一方で彼女は、ハリスンは今まで出会った中で最も美しい男性だとも語った。最初にハリスンが彼女に言ったことの一つは「結婚しないかい?」だった。ボイドが笑ったため、ハリスンは「じゃあ、結婚してくれないなら、今夜夕食でもどう?」と言ったという。数日後、ボイドが映画の撮影に呼び戻された時、ハリソンは彼女を再び誘い、そこで彼女はスワインとの関係を終わりにすることを決めた。二人の初めてのデートはコヴェント・ガーデンにあるギャリック・クラブ(会員制の紳士向けクラブ) にて、ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインを交えたものだった。



1965年12月、ロンドンをドライブしていた時、ハリスンはボイドにプロポーズをしたが、ビートルズのツアー予定が無いことを確認するためにまずエプスタインと話さなければならないとも言った。1966年2月21日、サリーのエプソムにて、ポール・マッカートニー(付添人)とエプスタインの出席のもと、ボイドはハリスンと結婚。パティはジョージとの生活をキンファウンス(Kinfauns)にて始める。二人は後にエプスタインと共に休暇を取り、フランス南のエズ近くにあるキャプ・エステル(Hotel Cap Estel)に滞在した 。






ハリスンはイングランド北部の保守的な労働階級出身であり、妻は家にいるべきだという考えであった。そのためボイドはモデルの仕事を減らしていた。このことが離婚の原因であった。 レノンとミック・ジャガーもまた、ボイドに惹かれていたと発言しており、ジャガーは1980年代当時の恋人であったベベ・ビューエル(Bebe Buell)に、彼がボイドを数年に渡って誘惑したがダメだったことを告白している。
1973年、ボイドは後にローリング・ストーンズのメンバーとなるロン・ウッドと浮気をし、そこでハリスンとは破局した。 ボイドによると、ハリスンは病気という名目で彼女との休暇の約束を取り消し、ウッドの妻であるクリシーを誘ってサルバドール・ダリに会いにスペインに行っていたという。しかしハリスンはクリシーと関係を持ったことは後に否定している。
ボイドの弁解は、ハリスンがクリシー・ウッドとスペインに行っている間、彼女は妹のポーラと共にバハマへ旅行しており、そのときにロン・ウッドが同行したいと言ってきたというものだった。
ボイドとウッドはロンドンに帰るとすぐ記者たちに嗅ぎ付けられ、1973年11月25日に二人のことが報道される。ボイドはハリスンの宗教への加熱と性格の変貌が、取り返しがつかないほど彼女を遠ざけたと述べている。その後1974年の6月に離婚。ボイドはロサンゼルスにいた妹のジェニーのもとに身を寄せた。



1960年代の終盤、クラプトンとハリスンは親しい友人となり、作曲やレコーディングを共に行うようになった。クラプトンがボイドに恋慕の情を抱き始めたのはこの頃とされている。クラプトンはまたボイドの17歳の妹のポーラにも惹かれ、彼女自身も彼に引かれていた。しかしポーラは「いとしのレイラ」を聞いてクラプトンの元を去った。クラプトンがポーラを姉の代わりとしか見ていないことが、その曲から明らかであったからである。1970年代の前半に彼女がクラプトンの誘いを拒絶したことで、彼はヘロイン中毒に陥り、アリス・オームズバイ・ゴアと三年間放浪したとボイドは語っている。一方で、クラプトンのデレク・アンド・ザ・ドミノス時代の唯一のスタジオアルバムである「いとしのレイラ」は、彼のボイドに対する愛を表明するために書かれたものであった。アルバムは同名曲「いとしのレイラ」を収録しており、この曲は二つのヴァージョンが共にヒットした。

ボイドと過ごしていた1977年6月、スイスのヴェッツィコーンのアイシャル・シアターにてライブを行うクラプトン
二人は1979年に結婚。外面的には完璧なカップルであったが、結婚生活は諍いに満ちていた。ボイドは飲酒および薬物の使用を認めているのにもかかわらず、クラプトンとは違い彼女はアルコール依存症や薬物依存症になることはなかった。ボイドはクラプトンがアルコール依存症の治療に取り組まなくなったことで彼の元から去ったと述べている。

その後彼女は、写真家のウィル・クリスティーと付き合うようになる。1984年にクラプトンはイボンヌ・ケリーと一年に渡って関係を持ち、1985年の1月に彼女との間に娘のルースが産まれた。クラプトンとケリーは娘の誕生について一切公表しておらず、1991年に行われたクラプトンの息子のコナーの葬式まで彼の子供と明かされなかった。ボイドは「最も傷ついたのは、エリックが最初から子供のことを知っていたこと。彼はまだ私を愛していると復縁を迫る一方で、イボンヌに養育費を六年にも渡って支払っていたの」
ボイドはクラプトンのアルコール依存症と結婚前から始まっていた幾度もの浮気を数年間耐えた上で、彼と離婚したとしている。
結局、クラプトンのイタリア人モデルのロリ・デル・サントとの浮気が決め手となり、クラプトンとボイドは1989年に離婚した。ロリ・デル・サントは1986年にコナーを出産していた。またボイド自身は体外受精を試みたにもかかわらず、妊娠することができなかった。ボイドとクラプトンは離婚原因を「不貞行為(infidelity and unreasonable behavior)」としている。

二人の関係が散々なものだったのにもかかわらず、二人はその後数年に渡り友人であり続けた。















 
 
 
 
 
 
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