市川一家4人殺害事件
関 光彦(1973年1月30日 -2017年12月19日 )
1992年3月5日、関光彦、 千葉県市川市幸2丁目、市川一家4人殺人事件
「史上最悪の少年犯罪」死刑囚の告白
「傷害にしろ、強姦にしろ、他人の血を見るということは興奮するものです。とくに、しだいに相手が弱ってきて自分に従うようになり、どうにでも好きなように動かせるとなった時に見るそれは、僕の中では勝利の象徴として溜飲を下げるのに大いに役立ちました」
「うちの親はバカでいい加減で、僕が小学4年のとき、借金が原因で夜逃げして、小汚いアパートに身を潜めて、ドブネズミみたいに生きてきました。学校では貧乏だからとイジメられて、すべてがつまらなくて、どんどんワルくなって、そのワルい自分を隠していたんです」
「いきなり後ろから髪の毛をわしづかみにしてひきずり倒し、顔から血がしたたり落ちるまでアスファルトに何度も頭を叩きつけるという(中略)限りなく八つ当たりに近い、非道いものでした。それでも手は止まらなくて、さらに鼻の骨が折れたのを確認しながらも、鼻血まみれの顔を夢中で殴りつけるという徹底ぶりで、ひと頻(しき)り衝動が収まるまで力まかせに暴行を続けたのです」
「一度強姦や強烈な傷害事件を成功させ、クリアしたことで、変な方向に自信を持ってしまい、もう一度やってみよう、出来るはずだ、出来るだろう、となっていったのです。少なくとも犯行の最中だけは、いつもの自分と違う無敵になれますから」
《年寄り一人くらいなら、まずどんなことがあったって、力で負けることがないはずといった過信と、ひどく短絡的思考から、その眠っていたオバアさんの足を蹴り上げ、無理やり起こしたのです》
「そのオバアさんは僕に従うことはせず、ここにあるだけならくれてやる、といって、自分の財布から数枚の札を放り投げるようにして出しただけ。しまいにはスキをつかれて電話に手をのばし、通報しようとすらされてしまったのです」
「床に配線してあった電気コードを力ずくで引っこ抜き、手元にたぐりよせ、それをオバアさんの首に巻きつけて、このヤロウふざけやがって、老いぼれのくせに、と思い切り引っ張りあげました」
「頭から顔、首、手に服と、吐きかけられたツバを何度も何度も洗い流しました。(中略)そのくさい汚物を吐きかけられたことはショックで、行為そのものも許しがたいことだったのです」
「人間の体なんて、思ったよりスウッと力が入っていくものだな、と考えたりしたものです。もっと骨とか筋肉とか(中略)手に力が必要なのだろうと思っていたら、全然そんなことはなくて、あれならうなぎをさくときの方がよっぽど力がいるんじゃないかと」
「死刑なんてものは自分とはおよそ縁遠いもので、一度殺人を犯しておきながら、刑期を終えてから、あるいは仮釈放中に懲りずにまた同じ過ちを犯すような、どうしようもない、見込みのない連中の受ける刑罰だと。五〇、六〇過ぎて人を殺すような奴らと一緒にされてたまるか、とそういうのもありました」
「20歳までの未成年ならどんな事件を起こしても(中略)全員が全員、少年鑑別所へ行って、そこから少年院てとこへ入れられるものだという程度の知識しか持ちあわせていなかったのです」
「とっととくたばりたいんですよ。許されるならこの場で切腹でもして、自分の手で責任を取って、潔く死んでしまいたい。死刑が決まった人間を無駄に長生きさせる必要はないと思います」
《これから先何年も、死んでいく為だけにどうやって生きていけばいいのかもわかりません。外界から一切遮断されたコンクリートむきだしの監獄の中で、一年中誰とも会話もせず、希望を抱くことも許されず、何年も何十年も狂わずにやっていく自信も持てないのです。死ぬことが怖くない、と言えば嘘になりますが、それ以上に、先のない毎日におびえながら生きていかねばならないことの方が怖いです》
《ただオリの中で飼われただけの八年間。動物園にいる動物達より世の中の役に立ってもいないのです。そういうことを考えずにはいられなくなってきて、本当に惨めで情けなく、自分が生きている価値もない人間だということがよく分かりました》
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