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2006年5月からの記録
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玉の井バラバラ殺人事件

2023年09月19日 | ヒトゴロシ

1932年(昭和7年)3月7日に
東京府南葛飾郡寺島町(現在の東京都墨田区)で発覚 
殺害された被害者の遺体を切り刻む猟奇殺人の名称として
「バラバラ殺人」が定着した。 

犯人H(当時39歳)は、妹(当時30歳)と東京帝国大学印刷所職工の弟(当時23歳)とともに被害者の男性T(当時27歳)を自宅本郷湯島新花町で殺害し、遺体をバラバラにし遺棄したものであった。

供述から被害者の両手足は弟の勤務先の東京帝国大学の印刷所の空室の床下から、胴体中央部は王子の陸軍火薬庫裏のどぶ川から発見された。

事件前年の4月下旬頃、Hは浅草公園で子連れホームレスのTと知り合った。秋田県の地主の息子だという話を信じて、Hは家族ぐるみでTに近づき、娘ともども自宅に同居させるとともに汐留駅の仲仕という仕事も世話してやった。

また更に関係を深めるべく、妹とTとを結びつけようとしたが、この時は妹は前の内夫との子供の出産を控えており、これに応じなかった。しかし5月末に分娩したあと貧血が続き、輸血が必要になった際にTが進んで供血したことや、兄や母が執拗に勧めたこともあって内縁関係になっていた。

しかし実際にはTは一文なしで、貧しい犯人宅に居座ってしまった。追い出そうとすると「(犯人は春画を描いて生計を立てていたため)警察に訴える」と一家の弱みに付け込んで脅迫を行い、働かず酒を飲んでは兄妹に暴力を振るうようになったため、一家は次第にTに殺意を抱くようになっていった。

Hと弟はTの殺害を決意し、スパナとバットを準備して機会を伺っていた。

ちょうどこの時期、妹の赤ん坊が死亡したことから、弟も印刷所を休み、葬式などを行っていた。これが一段落した2月11日、妹が赤ん坊の位牌に合掌していたところ、Tが「あてつけがましい」といって殴りかかった。止めに入ったHと弟がスパナでTを殴って殺害。なおこの時、同居していたHらの母と、Tの娘は銭湯に行っており、不在であった。

遺体を2日間にわたって兄弟2人でバラバラに切断した後、24日の午後7時頃、まずHが腹の部分を風呂敷に包んで持ち出し、王子で遺棄した。

首と胸と腰の3つについては、3月6日午後8時頃、行李につめて妹の手荷物を装い、タクシーで玉の井に運んで遺棄。手足については3月8日朝6時ごろ、前夜から宿直していた弟のところに持ち込んだものであった  。

遺棄した時間帯が夕刻であったにもかかわらず、堂々と遺体を持ち運びして遺棄するといった大胆な行動の目撃者は皆無だった。関東大震災後の道路整備により、犯人宅からタクシーに乗ればスムーズに玉の井まで来られたことや、凶作で地方から多くの女性が柳行李ひとつ持って仕事を求める姿が日常茶飯事であったからである。大きな荷物を持ってタクシーに乗っても、運転手にも周囲の者にも怪しまれなかった。

バラバラにした動機は猟奇的指向ではなく単に遺体の運搬をしやすくするためであったといえる。

当初Hは弟妹をかばうべく、自分の単独犯行であると主張した。そしてTの遺体をバラバラにした心理を「この足で母を蹴った、この手で妹を殴り、弟を殴った。こうしてやるぞ、こうしてやるぞと歯軋りしながらやった」と供述した。

1934年8月6日、東京地方裁判所はHに殺人罪と死体損壊・遺棄罪で懲役15年、弟に殺人罪で懲役8年、妹は死体損壊および遺棄幇助罪で懲役6ヶ月を言渡した。

兄弟は控訴し、1935年12月17日にHは懲役12年、弟は同6年の判決を受けて、服役した。

現在、犯行に使用されたノコギリとスパナは、警視庁本部庁舎内警察参考室に展示されており、警視庁本庁見学(祝日・年末年始を除く月〜金曜日午前・午後各2回実施。6か月前から前日までの予約制)の際、見ることができる。

 

 
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