(Mary Kay Fualaau, 1962年1月30日 - 2020年7月6日)
メアリーはワシントン州の小学校の2年生の担当となった時、サモア人を両親に持つ、ヴィリ・フアラアウ(Vili Fualaau, 1983年6月26日 - )に出会った。ヴィリはその時8歳であった。
彼女はその後再び、6年生の学級でヴィリ少年の担当となり、1996年夏に性的関係を持ち、その結果妊娠する。1997年2月に、少年とメアリーとの間でやり取りされていた手紙を夫スティーヴが発見し、スティーヴのいとこが保護サービス機関に報告したことで、問題は発覚した。
1997年2月26日にメアリーは児童レイプの罪で逮捕され、その4か月後に娘を出産した。少年は自分たちの間に起こったことは何も間違ったことではないと主張し「重要なのは、僕たちが互いを愛し合っていたという事実だけだ」と記者に語った。
また、メアリーの弁護士デイヴィッド・ガーキは1998年2月16日付けの『タイム』誌で「彼女は理想の男性を見つけた。だが、彼は13歳だった」と述べるなど、当時はメアリーに同情的な意見も見られた。
1997年8月7日、メアリーは2件の児童レイプの罪を認め、少年に二度と会わないことを約束し減刑され、懲役6か月(うち3か月は執行猶予)を宣告された。その際3年間の更生プログラムを受けることになったが、再犯の危険性は少ないと判断されたことから1998年1月1日に仮釈放された。
だが釈放から数日後、彼女は躁うつ病の薬を飲まなくなり、心理療法にも行かなくなった。
政治家である父や兄弟たちは、このスキャンダルを鎮静化しようと必死に奮闘していた。
1998年2月3日、警察は少年とカー・セックスを行っているメアリーを見つけ、少年に会わないという仮釈放の条件に反した咎で逮捕した。警察は現金6,500ドルとベビー服とパスポートを発見、海外逃亡を企てていた模様と報じられた。これにより仮出所は取り消され、7年半の懲役刑が復活して刑務所に戻された。
さらに1998年3月、彼女は再び妊娠していることが判明した。結局メアリーが押し切った形となり、それ以上の訴追はされずに、少年らの家族はメアリーを家族の一員として迎え入れることになった。10月16日に2人目の娘が生まれたが、誕生の数時間後には刑務所に戻された。
1999年5月、最初の夫であるスティーヴと離婚。2001年1月には、がんを患っていた父ジョンが死去した。メアリーは葬儀への参列を希望したが、刑務所はこれを認めなかった。
その後、2004年8月4日に仮出所し、2005年5月20日にヴィリ・フアラアウと結婚した。セレモニーは、テレビ局(担当した番組はアメリカの娯楽ニュース番組『エンターテイメント・トゥナイト』)によって取り仕切られた。
しかし、2017年にフアラアウが離婚を申請、2018年離婚が成立していた。結婚から12年、フアラアウが離婚申請に至った理由は明らかになっておらず、フアラアウの弁護士もコメントを拒否している。
2020年7月6日深夜、58歳で亡くなったことを米国の複数のメディアが報じた。彼女は末期がんに冒されており、数か月の闘病の後に、元夫のヴィリ・フアラアウや家族が見守るなかで静かに息を引き取ったという。
メアリー・ケイ・ルトーノーさんという元小学校教諭が58歳で亡くなったことを米国の複数のメディアが報じている。米国内ではある意味において、非常に有名な女性だった。ケイト・ブランシェット主演で彼女をモデルにした映画も製作されたが、その人生はどのようなものだったのだろうか。
ルトーノーは80年代に結婚し、二男二女を育てながら教員資格を取得。’96年、34歳のときに赴任先の小学校で12歳のヴィリ・フアラアウから好意を寄せられ、性的関係を持ってしまう。フアラアウとやり取りしていた手紙が夫に見つかったことがきっかけとなり児童レイプ罪で逮捕されたが、その時には既にヴィリの子どもを妊娠していた。約7年の刑を言い渡されるも、「フアラアウにもう二度と会わない」「生まれた女児の親権をフアラアウ側に渡す」ことを条件に減刑され、’98年に仮出所。
しかし、フアラアウと密会していたところを見つかり再収監。この時もフアラアウの子どもを宿しており、一時的に出所して出産後、’04年まで刑期を務めた。
’05年に出所すると、2人は結婚。21歳と43歳の新郎新婦だった。その後は家族4人で暮らし、たびたびメディアにも登場していたが、’17年にフアラアウが離婚を申請、昨年離婚が成立していた。
PEOPLEによると、ルトーノーは末期がんに冒されており、数カ月の闘病の後に静かに息を引き取ったという。
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