平らな深み、緩やかな時間

27.神奈川県立近代美術館『松田正平』展などの寸評

午後、休みが取れたので、地元の神奈川県立近代美術館をはしごしてまわりました。
(http://133.162.252.48/public/HallTop.do?hl=k)

まずは鎌倉の本館で開催されている『松田正平』展です。
松田正平(1913 – 2004)は絵肌に特徴のある独特の画風の画家で、今回の展覧会も、ある美術雑誌でかなり高い評価の批評を目にしました。私もポスターやちらしで展覧会の概要を見ていましたし、これまでにも彼の作品を見ているはずなのですが、際立った印象はありません。ということで、半信半疑の状態で見に行くことになりました。
初期のアカデミックな頃から、中期の厚塗りの時期までは、なかなか見応えがありました。しかし、残念ながらもっとも作品数の多かった後半の作品には、関心が持てませんでした。たしかに絵肌や透明感のある色彩には、独特の繊細な味わいがありました。ただ、その味わいが絵全体にどうかかわっているのか、私にはよくわかりませんでした。どうして、そう感じてしまったのか・・・、おそらく描かれた形象と絵肌との関係に、それほどの必然性を見出せなかったからだと思います。
私は松田の作品が嫌いではないし、興味深い作品も少なからずありました。しかし松田に限らず、画家が年輪を重ねていくときに、何をどう描くのか、どうしてその絵を描こうとしたのか、などというラディカルな問いはさておき、絵肌などの絵の風合いにエネルギーを注いてしまう傾向が、少なからずあるような気がします。例えば松田の場合、同じ海岸付近を描いた風景画でも、中期の作品にはがむしゃらに描いたり削ったりした跡が見られ、そのことが絵の充実感に結びついていると思うのですが、晩年の作品ではその構造的な思考錯誤が失われてしまっていて、せっかくの絵肌への探究も、やや趣味的な感じがしてしまうのです。
こういう理屈っぽいことを言う人間は、風流を解さないやぼな奴だと思われるかもしれませんね。まあ、その通りなので、割り引いて読んでいただけるとありがたいです。

それから鎌倉別館の『野中ユリ』展です。
野中ユリ(1938 - )は、コラージュ作品で有名な作家ですが、本の装丁家としても、よく知られています。ジョゼフ・コーネル (Joseph Cornell、1903 – 1972)を彷彿とさせるようなセンスの良い作家、というイメージですが、今回の展覧会の印象もそれを裏切らないものでした。
ただ、意外だったのが初期の銅版画作品が予想以上に良かったことと、デカルコマニー作品の繊細さが並大抵ではなかったことでした。銅版画については、もしもこの人が銅版画家としてキャリアを積んでいたなら、どんな作品ができていたのだろう、と考えてしまいました。もしかしたら、銅版画の作品もある程度あるのでしょうか。それから、デカルコマニー作品については、その単純な技法からどうしてこんなに美しい作品ができたか、と驚いてしまいました。装丁の仕事もしている人ですから、プロとしての徹底した意識の高さがあるのでしょう。
展覧会の作品の多数を占めるコラージュ作品については、基本的には印刷物を利用したものなので、作品写真として見てきたものと、あまりギャップはありません。高い技術を持っていて、作品の質を落とさない作家だと思いました。

最後に葉山館の『戦争/美術 1940-1950』という企画展を見ました。
この展覧会は、1940年代の美術を連続して見るということ、つまり戦前と戦後に分断しないで展示することに企画の意図があったようです。戦争に協力する立場の画家たちと、そうでない画家たちを同年代で並列し、作品以外に美術書などの資料も展示するなど、企画の工夫が随所に見られます。かつては戦争画を展示することの是非について論争があったことを考えると、ずいぶんとオープンになったものだと思います。例えば、藤田嗣治(1886 – 1968)の戦争画を知らない若い人たちにとっては、当時の様子を知るよい機会なのかもしれません。
ただ、展覧会そのものがちょっと地味かな、という気がします。見たことのある作品も多く、日本美術の展覧会を頻繁に見る人のなかには、今回の展示ためにわざわざ足を運ばない人もいるのではないでしょうか。せっかくの企画なので、もう少しプラスアルファの魅力があれば・・・、などと勝手なことを書きました。夏休中の小学生、中学生、といった年配の子供たちも見に来ていたので、いろいろなことを感じ取ってほしいものだと思います。
それから、企画のテーマとは別に、靉光(1907 - 1946)と麻生三郎(1913 - 2000)の作品が何点か見られ、それがなかなかよかったと思います。靉光はどんな技法で描いても、骨太な感じと繊細な感じとが同居していて、不思議な魅力があります。とにかくうまいというか、絵の好きな画家だったのだろうと思います。一方の麻生三郎は、まだ写実性を残している時期の作品ばかりですが、どこかにひりひりするような実感がこもっていて、それが何なのか、といつも立ち止まって見てしまいます。暗い画面から人物の肌色が光を秘めたように浮き出てくるところが、何とも言えません。その光が、後年、ほとんどなくなってしまうわけですが、その過程に必然性を感じるものの、本当にそれでよかったのでしょうか・・・、とつい考えてしまいます。

以上、地元の県立美術館を半日かけてはじごできるというのも、恵まれているのかもしれません。財政状況の厳しい折ですが、美術館にはがんばっていただきたいなあ、と思います。

 



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