平らな深み、緩やかな時間

220.ハンナ・アーレントと小野善康について

ロシアの蛮行が新型コロナウイルス感染のニュースを凌駕して、はや2ヶ月が経ちました。
一般市民として、なるべく冷静に事態を受け止めたいと思っていますが、やはり職業がら、ロシアでのプロパガンダ教育のことが気になります。次の記事が目に止まりました。
『平和教えたら「裏切り者」として解雇…生徒が教師の発言を録音し「密告」 まるで冷戦時代の旧ソ連』
https://www.tokyo-np.co.jp/article/172903
良識のある教育者がロシアにもいるのだ、という喜びも束の間、その教育者たちが犯罪者に仕立て上げられてしまう現実が恐ろしいです。その記事の末尾に次のような文章があります。

ロシア政府はウクライナに侵攻した戦車などに書かれた「Z」や「V」のマークを、軍事行動を支持し、たたえる象徴とし、「ウクライナ政府は悪」とする教育指導要領を定めている。19日には、子どもたちの愛国心を育むため、9月の新学年から各校で国旗掲揚を行う方針も決めた。
(『東京新聞』4月21日の記事)

この記事と一緒に掲載されている「Z」マークを持った子どもたちの写真を見ると、このプロパガンダ教育の影響が子どもたちの一生を左右することになるのだ、という思いに絶望的な気持ちになります。「Z」マークはすでにかぎ十字マークと同様の役割を帯びているのだと実感せざるを得ません。
そして、私たちはアジアの近隣の国がミサイルを打ち上げるたびにそのプロパガンダ映像を見させられ、それがあまりに頻繁であるために滑稽にすら見えてしまうのですが、21世紀の西欧社会においても、それと同様の愚かな蛮行が起こっているのだということを、あらためて認識せざるを得ません。人間の愚かさにはアジアやヨーロッパの相違などありません。私たちは「西欧文明」を買いかぶらないほうが良いのだ、ということを確認しておきましょう。

こういう絶望的な事態になった時に、嘆き悲しむ気持ちを少しでも抑えて冷静になるために、黒いユーモアに満ちたポップソングを聴くというのはいかがでしょうか。
1980年代の半ばに、ティムバック3(ティムバック・スリー)というバンドがありました。パット・マクドナルドとバーバラ・クーイマン(バーバラ・K)という2人組(夫婦)だったのですが、それにドラム・マシンを加えて、“3”と名乗っていたバンドです。私は彼らのファースト・アルバムしか聴いていませんが、その中でも『The Future's So Bright, I Gotta Wear Shades』は痛快な曲です。「未来がとても明るいので、私はサングラスを着けなければならないほどです」という歌詞なのですが、これはもちろん、皮肉です。
歌詞をご覧になる場合はこちらです。
https://mojim.com/jpy126575x5x1.htm
曲をお聴きになる場合はこちらです。
https://youtu.be/65YIlwxBuvM
1980年代は、こういう曲が聴かれる程度の余裕がまだ社会にあったのだと思います。いま、こういう曲を発表するのは、さすがに厳しいのではないでしょうか。そう考えると、すべてのことに追い詰められている現状を思い知ることになりますね。だからこそ、感情的な言葉には流されず、冷静な気持ちでいなければいけない、と思うのです。

前回のblogでハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906 - 1975)というドイツ出身の哲学者、思想家について触れましたが、今回ももうすこしだけ彼女について書き留めておきたいと思います。というものの、私は彼女の著作を読んでいないのですが、矢野久美子さんという研究者が書いた中公新書から出版されている評伝をたよりとします。今後、私も少しずつアーレントの本を本を読んでいこうと思っていますが、その予習としてお付き合いください。

さて、矢野久美子さんが書いた『ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 』という新書の謳い文句に、次のような文章があります。

未曽有の破局の世紀を生き抜いた彼女は、全体主義と対決し、「悪の陳腐さ」を問い、公共性を求めつづけた。ユダヤ人としての出自、ハイデガーとの出会いとヤスパースによる薫陶、ナチ台頭後の亡命生活、アイヒマン論争―。幾多のドラマに彩られた生涯と、強靱でラディカルな思考の軌跡を、繊細な筆致によって克明に描き出す。

文頭の「未曾有の破局の世紀」というのは、ユダヤ人でありながらナチスの台頭するドイツに生まれ、その後、辛くもフランスを経由してアメリカ合衆国に亡命した彼女の生きた時代のことを指しています。「全体主義と対決し」というのは、当然ナチスなどのファシズムとの対決を意味しているのでしょう。「悪の陳腐さ」を彼女が問うたことについては、前回のblogで書きましたし、また後で触れます。
アーレントは18歳でマールブルク大学に入学すると、そこでカリスマ的な若き哲学者、マルティン・ハイデッガー( Martin Heidegger, 1889 - 1976)と出会います。二人は不倫関係に陥りますが、その後アーレントはハイデルベルク大学にうつってカール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers、1883 - 1969)に師事し、さらにその後の人生を通じてヴァルター・ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)やエリック・ホッファー(Eric Hoffer, 1902 - 1983)など、さまざまな知識人との交流を持ちます。これらのエピソードをみただけでも、とんでもなく優秀で、かつ戦争の時代を生き抜いた魅力的な女性像が思い浮かびます。
そんなアーレントですが、彼女はどんな研究をしたのでしょうか。私が読もうと思っていてそのままにしてしまっている彼女の著書『人間の条件』の「プロローグ」には、次のようなことが書いてあります。

今日、人間は地球上の有機的生命をすべて破壊することができるように、私たちの能力をもってすればこのような交換も可能であろう。問題は、ただ、私たちが自分の新しい科学的・技術的知識を、この方向に用いることを望むかどうかということであるが、これは科学的手段によっては解決できない。それは第一級の政治的問題であり、したがって職業的科学者や職業的政治屋の決定に委ねることはできない。
このような可能性がまだ遠い将来に属することであるとしても、科学の大勝利がもたらすブーメラン的効果は、すでに自然科学そのものの内部に危機を生みだしている。
(『人間の条件』「プロローグ」ハンナ・アーレント著 志水速雄訳)

この本がアメリカで刊行されたのが1958年のことだそうです。その後50年以上が経ち、アーレントが危惧した世界の危機は、すでに極まっているように見えます。アーレントが指摘している「すべてを破壊する」装置が核爆弾のことであるならば、その発射ボタンは職業的政治屋であるばかりでなく、狂信的な愛国者でもある人物の手に委ねられています。あるいはそれが環境破壊のことであるならば、まさにそれは「ブーメラン的効果」によって、地球温暖化という危機をもたらしています。
それにしても、私たちはどうしてこのような危機に陥ってしまったのでしょうか。私たちは、私たちの生みだした「科学的・技術的知識」をどうして正しく行使することができなかったのでしょうか。矢野久美子さんは、アーレントの「公的なものと社会的なもの」に関する思索から、そのことについて次のように読み解いています。

アーレントによれば、公的(パブリック)なものとは複数の人びとによって共有され、見られ聞かれるリアリティであった。現実が現実として把握されるのは、「私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはり同じように聞く他人が存在するおかげ」である。主観的な情動や私的な感覚は、言葉や行為や物語といった公的なかたちに変形されなければ、共有されえない。アーレントは肉体的苦痛を最も伝達しにくいものとして論じる。
また、公的なものは、人と人とのあいだにある世界そのものを意味している。アーレントはそれを座っている人びとのあいだにあるテーブルにたとえる。それは、人びとのあいだで進行する事柄の世界であると同時に、人間が仕事によってつくりだした耐久的な物の世界でもある。「公的空間は、死すべき人間の一生を超えなくてはならない」とアーレントは書く。テーブルである世界は人びとを結びつけると同時に分離させるものである。アーレントは大衆社会が耐えがたいのは、人間の数ではなく人びとの世界が「結集させ分離させる力」を失っているからだと述べる。
そうした世界や公的領域のリアリティは、さまざまな物の見方が同時に存在することによってのみ確かなものとなる。「これが公的生活の意味である」とアーレントは言う。どれほど自分の立場が拡大されても、一つの物の見方だけではリアリティは生まれない。「物の周りに集まった人びとが、自分たちは同一のものをまったく多様に見ているということを知っている場合のみ」世界のリアリティは現れるからである。
(『ハンナ・アーレント』「第4章 1950年代の日々」矢野久美子著)

この解釈を読んで、どのようにお感じになりますか?
まさにいま世界で起きていることは、ロシアの大統領が「公的空間」を失い、「リアリティ」を見失っていることから生じているのではないでしょうか?それに、なおかつ彼は政治的プロパガンダによって、ロシア国民からも「公的空間」を奪っているのです。ということは、今回のウクライナへの暴挙をとめるには、ロシア国民が「公的空間」を取り戻すしかありません。しかし、それをどうやって・・・・。
ロシアに限らず、トランプ政権下のアメリカでも同様のことが起こっていました。現代の為政者たちは、まっさきに「公的空間」を国民から奪い、自分のプロパガンダだけを送り届けようとします。私たちが心がけなくてはならないのは、日頃から「さまざまな物の見方が同時に存在する」領域を確保し、「リアリティ」を見失わないようにすることでしょう。日本においても、十分にそのような危険性があります。私たちも注意しなくてはなりません。
その後のアーレントは、そんな自分の思想に従い、ホロコーストの中心人物であったアイヒマン(Karl Adolf Eichmann、1906―1962)の裁判を、自分の目で見届けなくてはならない、と決心したのです。その法廷での傍聴や調査の結果として、アーレントはアイヒマンをごく普通の小心者だと判断したのですが、それが「ナチズムを擁護する裏切り者」だと言われ、非難されることになったのです。このように「公的空間」での「リアリティ」は、必ずしも大衆の求める通りの結果にはなりません。そのことも、私たちは肝に銘じておかなくてはなりません。多数の人の意見であっても、それが物の見方の多様性を含んでいなければ、硬直した一人の意見と同じことになってしまうのです。
もしかしたら、この「公的空間」の存在は、自分のこととなると分かりにくくなるものなのかもしれません。自分たちの耳に痛い意見ほど、よく聞かなくてはなりません。それがアーレントが教えてくれた、重要な教訓なのだと思います。

さて、今回はアーレントのことに加えてもう一つ、私たちに関わる社会的な問題について考えてみたいと思います。次は芸術家の社会的な、あるいは経済的なあり方についても、少し考えてみたいのです。
それは4月19日の朝日新聞に載っていたインタビュー記事に関することです。その記事には『成熟社会の資本主義』というタイトルがついていました。その記事の紹介部分だけを、まず見てみましょう。

冷戦後、世界経済の唯一のシステムとなったものの、最近は格差拡大や貧困、バブルといった欠陥が目立つ資本主義。そこで岸田政権は「新しい資本主義」をテーマに掲げるが、いまだ具体像は見えない。いま何が求められているのか。主流派経済学と異なる立場から「成熟社会に見合った経済理論」を説く小野善康さんに聞いた。
(『朝日新聞』4月19日 インタビュー)

この小野善康さんという研究者が、経済学の中でどういう立場にあるのか、私にはわかりません。近著に『資本主義の方程式』(中公新書)があるというので、読んでみたのですが肝心の経済学的な方程式の部分はチンプンカンプンでした。しかし、その結論には頷けるところが多かったです。
その小野善康さんは、このインタビューの最初の部分でこう語っています。

人々がまだ貧しかった成長経済の時代、資本主義はうまく働きました。しかしモノがあふれ物質的に豊かになった今日のような成熟経済では、慢性的に需要が伸びなくなり長期不況に陥りやすくなりました。今後も世界経済の基幹制度であり続けられるかどうかは、この構造的な欠陥をいかに克服するかにかかっています。
(『朝日新聞』4月19日 インタビュー)

ここで「成長経済」と「成熟経済」という言葉に注目しましょう。これまでの「成長経済」の時代ならば、モノを作れば売ることができました。いかに安く、効率的に、早く作って大量に売れば良いのか、が問題でした。しかし「成熟経済」になって、人々は本当にそのモノが欲しいのかどうか、考えるようになりました。お金を使ってモノを買ってしまえば、それはモノでしかありません。しかし、モノを買わずにお金のまま持っていれば、好きな時に好きなモノと交換できます。このお金の性質を「流動性」というのだそうです。そして、モノを買わずにお金として貯蓄することを選ぶことを「流動性選好」というのです。
さらに、何か買う目的がなくて、お金の保有そのものが目的になってしまうことを「資産選好」というのだそうです。人々が「流動性選好」としてお金を貯めているのなら、いつかそのお金はモノと交換されて市場に吐き出されます。しかしお金を貯めること自体が目的になってしまうと、お金は市場に吐き出されず、結果的にお金持ちの人がさらにお金持を貯め込むことになり、貧富の格差が広がってしまいます。
例えばコロナ禍で一時金を渡されても、「資産選好」の欲望から、あるいは将来への不安から、多くの人がお金を使わずに貯蓄に回すことになってしまいます。だから景気が良くならないのだそうです。
このコロナ禍の対応で、小野善康さんの本でなるほどな、と思ったところがあります。それはGo To キャンペーンに関する分析です。

結局、GoToキャンペーンとは、被害を受けずに貯金が増えて、自粛勧告があってもなお遊びに行こうという人に、さらにお金を渡すという不公平な政策であるだけでなく、経済刺激効果も薄い上に、かえって感染を拡大させるものである。カネなど一銭も配らなくても、外出制限や営業時間の解除を行えば、これまで皆が我慢して行かなかっただけであるから、観光地やレストランはすぐに満杯になる。つまり、もっとも重要な景気刺激策は、有効なコロナウイルス感染症対策を行った上での外出制限の緩和であり、そのときカネを配る必要はない。カネを配るなら、観光客にではなく、直接、外食産業や観光産業の従事者に渡すべきである。
(『資本主義の方程式』「5. 経済ショックと危機対応」小野善康)

たぶん、外出の自粛とGo To キャンペーンと、両方を求められてアクセルとブレーキのどちらを踏みたいのか!と政府の政策に疑問や怒りを覚えた人はたくさんいたと思います。この小野善康さんの分析は、とても当たり前の話で政府の税金の無駄遣いにますます腹が立ってきます。
しかし、この小野善康さんの記事に目を向けたのは、実はこのようなコロナ禍の話だけではなくて、現在の資本主義社会の格差をどう解消していくのか、という話題の中で芸術に関することがチラッと書かれていたからなのです。
現在の「成熟経済」という状況の中で、政府はいったいどのような対応をしたら良いのか、という質問に対する答えの部分です。

道路や鉄道などの公共事業で需要をつくることが効果的だった時代もあります。でも人口減少時代の今は巨大インフラが本当に必要かという問題があります。別の使い道を考えないといけない。例えば音楽や美術、スポーツ、観光インフラなど民間企業では採算に乗りにくい分野で政府が思い切ってお金を使う。そうすれば国民が自主的に消費を拡大したのと同じ景気刺激効果が生まれます。
まだまだ供給が足りない保育や医療、介護などの分野、きれいな空気を提供したりといった、企業努力では実現が難しい分野も対象です。新型コロナウイルス感染では医療の従事者や設備、保健所職員などの不足が深刻でした。日本全体で生産資源が余っているなら、平時からそういう分野にお金を使って準備すればいい。選択するのは国民です。どれほど魅力的な需要をつくれるのか、国民の知恵が問われています。
(『朝日新聞』4月19日 インタビュー)

このことにかこつけて、私が日頃、思っていることを言えば、そもそも美術作品を制作することで生計を立てることには無理があります。例えばそういうことを目指してニューヨークで活躍する作家の話などが美術雑誌やテレビなどで紹介されることがありますが、彼らは作品を売ることを自己目的化していて、私には彼らの作品を芸術作品として高く評価することができないのです。
大勢のスタッフを雇って数多くの作品を生産したり、顧客に気に入ってもらえそうな図柄や色をストックしておいて効率的に制作したり、それではまるで工場です。そんな作品で良いのなら、いずれAIに取って代わられることになるでしょう。例えばバロック時代の画家、ルーベンスの工房などは、それに近い形式で作品を制作していたのでしょうが、あの時代のように絵画の技術や様式が一定の方向性を示しているという状況は、現在ではあり得ないでしょう。
それに、いくら美術好きの人であっても作品の購入には限度がありますし、そうではなくて投資目的で美術作品が売買するというのも、いかがなものでしょうか?それが作品にとって、あるいは作家にとって幸福なことなのかどうか、疑問です。オークションの時だけ人目にさらされて、あとは倉庫で眠っている美術作品というのは、何のために存在するのでしょうか。実際にバブル後の企業の倉庫には、そういう作品が山ほど眠っていたそうです。
私はやはり、作家が良い作品を作りたくて制作するのが健全な形だと思いますし、それを評価した人が作品を購入したり、作家をバックアップしていくことが好ましいと思います。しかしそれではなかなか経済的に立ち行かないという現実があります。小野善康さんがいっているように、そもそも美術は「採算に乗りにくい」分野なのです。だから「政府が思い切ってお金を使う」ことをすれば良いのだと思います。
それがどのような形が望ましいのか、私にはわかりませんが、例えば私はアンドレイ・タルコフスキー(Andrei Arsenyevich Tarkovsky, 1932 - 1986)というソ連の映画監督のことを思い出します。タルコフスキーの若い頃の作品は、社会主義国家のバックアップがなければ制作できなかったのかもしれません。しかしやがて彼は、国の枠組みの中で制作することの軋轢に耐えきれず、ソ連を飛び出してしまいます。結果的にタルコフスキーは、初期において公的な補助を受け、成功してからは資本主義経済の中で制作を続けたことになるのです。私の生半可な知識で彼の生涯を単純化してはいけませんが、たとえ芸術家の育成にはお金をかけたとしても、その芸術家の指向性には口を出さない、というのが理想的な補助ではないでしょうか。芸術家の作品価値に対して、資本主義経済とは別に対価が支払われるシステムがあれば、工場のように作品を製造しなくても済むのではないか、とそんなことを考えてしまいます。ニューヨークでバリバリ制作している作家からすれば、そんな芸術家気質はもう古いのだと言われるのかもしれませんが、「成長経済」の中で成功することだけを目的にしていることの方が、むしろ古いのではないでしょうか。
芸術の経済的な価値はともかくとして、コロナ禍において本当に価値のある仕事に対して、十分に対価が支払われていない現状が浮き彫りになりました。これを市場経済に任せたままで改善することは不可能です。このことだけを見ても、「成熟経済」の中では新しい経済的な、あるいは社会的な手立てが必要であることは、明らかです。「新しい資本主義」と、この新聞記事の冒頭でも書かれていましたが、肝心の為政者が本気で取り組む気があるのかどうか、甚だ疑問です。やるべきことは山ほどあるのに、一体何をためらっているのでしょうか?

今回は、私にとって超苦手な社会的な問題、経済的な課題について触れてみました。まとまりがなく、また尻切れトンボの考察で申し訳ないです。しかしとくに後半の、美術と経済の問題については、もっと優秀な人たちにちゃんと考えていただきたいと思っています。このままでは、若い芸術家も、そして医療も福祉も保育も総崩れになってしまいます。
ウクライナ問題とコロナウイルス感染と、それに「成熟経済」がもたらすさまざまな問題まで、まさに『The Future's So Bright, I Gotta Wear Shades』と言いたい気分ではないですか?

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