平らな深み、緩やかな時間

217.芸術と言葉の力、『橘田尚之 展』gallery21yo-jについて

世界が大きな悲劇に見舞われると、自分自身がどんなに無力であるのか、思い知らされます。そして芸術が、あるいは芸術を語る言葉が、どれほどの力があるのか、疑問に思ってしまいます。
作家の村上春樹は、自身の村上RADIOというラジオ番組で「戦争をやめさせるための音楽」というテーマを掲げて、次のように語っています。

正直言って、残念ながら音楽にはそういう力(戦争をやめさせる力)はないと思います。でも聴く人に「戦争をやめさせなくちゃならない」という気持ちを起こさせる力はあります。今日は八曲か九曲の音楽をかけるつもりですが、それだけを聴き終えたとき、おそらくあなたは前よりも強く「戦争をやめさせなくちゃいけない」という気持ちになっているはずです。おそらく・・・・。
(村上RADIO 「戦争をやめさせるための音楽」より)

そう、芸術に、そして音楽に直接、戦争を休止させる力はありません。しかし、戦争は天災と違って人間が引き起こす災いですから、それを止めるのも人間です。音楽には、聴く人に「戦争をやめさせなくちゃ」という気持ちにさせる力があると村上春樹は言っているのです。残念ながら昨日のニュースでは、ロシア国民の80パーセント以上がプーチンを支持しているという話ですから、当面のところ、ロシアの多くの人たちにその気持ちはないようですけど・・・。
どうしてこのような為政者の暴挙を人々が止めることができなくなってしまうのか、そのことを考える上で、村上春樹は番組の最後にキング牧師( Martin Luther King, Jr.、1929 - 1968)の興味深い言葉を引用しています。

ヒットラーがドイツでおこなった行為は、すべて合法的だった。そのことを決して忘れてはならない。
(村上RADIO 「戦争をやめさせるための音楽」より)

為政者は、歴史的な悪事を働くときに、まず法律を変えてしまいます。あるいは、法律の隙間をうまくかいくぐってしまいます。そうして合法的に人々を絶望へと導くのです。村上春樹はこの番組の最後を、「指導者にただ黙っておとなしくついていくと、大変なことになりますよ」という言葉で締めくくっています。日常生活の中で法のもとに生きていくことは当然ですが、しかしそれだけでは十分ではありません。とくに為政者が法律を変えようとする時には、それが本当に社会全体のためになるのかどうか、絶えず私たち自身がチェックをすることが必要なのです。
例えば学校で教える教科書一冊を作るにあたっても、為政者の政治的な意図が働いていて、それが多様な意見や現場の教員の実感を圧迫する結果になってしまうことがあります。そのことを、もっと多くの方に知ってもらいたいと思います。
https://mainichi.jp/articles/20220403/ddm/005/070/113000c

村上春樹と同様に、作家として今回の戦争について積極的に語っているのが高橋源一郎です。彼も自分のラジオ番組で、たびたびこのことについて言及していますが、4月1日の朝日新聞で、そんな彼のまとまった言葉を読むことができました。高橋源一郎は、このblogでも取り上げたノーベル賞作家、スベトラーナ・アレクシエービッチ(『戦争は女の顔をしていない』の著者)について書いています。彼女が地元のラジオで次のように語っていた、と書いているのです。

「起こったことは私たち全員の責任だ」と彼女はいう。戦争を起こしたのが国家権力だとしても、その国民も無垢ではありえないのだ。
(「高橋源一郎の 歩きながら、考える」朝日新聞4月1日)

アレクシエービッチは父親がベラルーシ人、母親がウクライナ人で、彼女はロシア語で文章を書くそうです。「ソ連解体後はベラルーシを拠点に活動していたが、作品は独裁政権に弾圧されてきた」というのですから、今はベラルーシの人、ということらしいです。

彼女の祖国ベラルーシは、今回のウクライナ侵略では加害の側のロシアを支援している。もしウクライナに派兵すれば、ベラルーシ国民は隣国のウクライナの人びとに銃を向けることになるのである。期せずして加害の国の側に立つことになった作家のことばに、わたしは惹かれる。なぜなら、わたしたちの国も、かつての戦争において加害の側だったからだ。
(「高橋源一郎の 歩きながら、考える」朝日新聞4月1日)

さすがに、高橋源一郎はハッとするようなことを書きます。今回の侵略についてロシアの人たち、あるいはベラルーシの人たちは何を考えているのだろう、と日本の誰もが考えると思うのです。そして、プーチンの支持率が80パーセント以上だと聞いて、がっかりしてしまうのです。
しかし、高橋源一郎が言うように、実は私たち自身が加害の側の国の人間だったのです。そのことを、私たちは過去のことだと考えようとしていますが、それは加害の側の勝手です。被害を受けた人たちは、決して私たちの国がやったことを忘れていないのでしょう。そこに加害者と被害者との思いのずれがあります。どうしたら、そのずれが解消できるのでしょうか、考え出すと絶望的な気持ちになります。
この記事の最後に、高橋源一郎は第二次世界大戦末期に太宰治(1909 - 1948)が『惜別』という小説の中で中国人の魯 迅(ろ じん、1881 - 1936)を取り上げたことに注目しています。中国を敵として憎め、と告げられた時代にあって、太宰は魯迅をモデルとした小説中の人物を、高い理想を持つ人物として位置づけ、彼の側に立つことを宣言したのです。高橋源一郎はラジオ番組でも、戦時中の太宰の作品について触れています。正直に言って、私は太宰がそんなに立派な作家だとは思っていませんでした。いつかちゃんと読まなくてはなりませんね、宿題が増えるばかりです。
それから、高橋源一郎の記事を読んだあとで先ほどの教科書検定の新聞記事を読むと、さらに次のことが気になりました。
ロシアでは今回の侵略戦争を「特別軍事作戦」と言っているようです。これは先ほどの新聞記事の「連行」を「動員」や「徴用」に修正することと、どこか似ていませんか?世界中の人たちが、ロシア人はどう考えているのか、といぶかしく思っているように、私たちも被害の側の国の人たちから怪しまれていないでしょうか?その答えは聞くまでもないと思いますが・・・。


さて、前置きが長くなりましたが、今回は4月24日までgallery21yo-jで開催されている『橘田尚之 展』について書いておきたいと思います。
http://gallery21yo-j.com/
その前に、もう少しだけ横道にそれることをお許しください。
文学に通じた友人から、栩木伸明(とちぎ のぶあき)という研究者の『世界文学の名作を「最短」で読む』という本について教えてもらいました。その本の中でアメリカの詩人、エミリー・ディキンソン(Emily Elizabeth Dickinson、1830 - 1886)の次の詩が紹介されていました。

The Poets light but Lamps —
Themselves — go out —
The Wicks they stimulateー
If vital Light

Inhere as do the Suns —
Each Age a Lens
Disseminating their
Circumference —

詩人たちはランプに点火を灯すだけで―
本人たちは― 姿を消して―
芯はかれらの手で掻き立ててありー
もし仮に命ある光明が

太陽と同様に備わるならばー
各々の時代はレンズとなって
光が描く輪の数々を
あたり一面に撒き散らす―
(『世界文学の名作を「最短」で読む』栩木伸明)

この詩に対する解説の文章の表題が「詩人は死んでも 詩は生き続ける」というものです。この表題だけで、十分に詩の解釈になっていると思います。エミリー・ディキンソンは生前は無名であったのですが、死後に膨大な詩稿が発見され、「モダニズムの時代以降、斬新なスタイルと内容が反響を呼び、アメリカ現代詩の先駆者と見なされるようになった」ということです。自分の詩が、自分の死後も生き続けることを確信していたのでしょうか。
ちなみに私は、エミリー・ディキンソンという詩人の名前を、サイモン&ガーファンクルの『The Dangling Conversation』という曲の歌詞の中に出てくることで、中学生の時にはじめて知りました。インテリのカップルの意思疎通の齟齬がテーマの曲で、「君は君の(好きな)エミリー・ディキンソンを読む」という一節が出てくるのです。それだけ、ディキンソンはアメリカの知識層に親しまれている存在なのでしょうか。
https://music.youtube.com/watch?v=IdEQLgHiJZU&feature=share
話を戻すと、私はこの『The Poets light but Lamps —』が詩の生命力を表現しているだけでなく、芸術作品の生命力をもうたっているような気がします。そして同時に、言葉の持っている力についても言及しているような気がするのです。
そのように考えだすと、例えば橘田さんのような優れた作家の作品は、ちゃんと後世の人が見ることができるように、然るべき場所に残しておかなくてはならないと思います。そして同時代に橘田さんの作品を目撃した私たちは、その感動についてきっちりと言葉にしておく必要があると思います。
しかし、私の言葉がはたしてエミリーが言うように、「光が描く輪の数々を あたり一面に撒き散らす」ほどの力を持っているのだろうか、と考えると、心もとない気分になります。私は私にできることを精一杯やるだけですが、マスコミや評論家のみなさんも、同時代の優れた芸術作品を記録に残す義務があると思います。どうかもう少し、がんばってください。

さて、私はこれまでにもこのblogで橘田さんの作品について、何度か文章を書いてきました。そのときどきで橘田さんとお話ししたことや、美術館での大規模な展示の素晴らしさなどについて書いてきました。
しかし橘田さんの作品のどこが素晴らしいのか、そしてそのどういうところが斬新であり、現代美術の中でもユニークな価値を持っているのか、という基本的なところについては、あまり書いてこなかったような気がします。それらは、既に話の前提にしてきたからです。そこで今回は、はじめて橘田さんの作品を見る方にもご理解いただけるように文章を綴ってみたいと思います。まずは橘田さんの作品について、これまでの作品を見て大雑把にイメージをつかんでください。
http://gallery21yo-j.com/artists/kitta_naoyuki/
このページの画像を見ただけでも、橘田さんの作品のユニークさが伝わってくると思います。とくに橘田さんの立体作品に注目してみてください。これは彫刻でしょうか、それともインスタレーション(英;installation art、 展示空間の仮設的な立体作品)でしょうか、あるいは巨大なオブジェ (仏:Objet、物質的な作品)でしょうか。
橘田さんの作品は、それらのどれでもあり、どれでもありません。橘田さんの作品は、創造的なフォルムがあるという点で、単なるインスタレーションやオブジェとは違っています。しかしそのフォルムは中空で、彫刻のようなマッス(塊)がないのです。
それから、橘田さんの作品には表面に模様のようなものが描かれています。これは素材の金属(アルミニウム)の表面を酸化させたものです。この処理によって、橘田さんの作品は、金属板の表面が連続したものであることが強調されます。内実の詰まった彫像や塑像とは構造的に違っているのです。
金属の立体作品で表面の存在感を強調したものといえば、真っ先にアメリカの現代彫刻家、デイビッド・スミス(1906 - 1965)の作品が思い出されます。
https://www.metmuseum.org/ja/art/collection/search/480986
スミスの抽象彫刻は、幾何学的な、シンプルな形体の金属の表面に「ディスク研磨機で研かれた」「書のような模様が、光を捉えています」という作品です。このスミスの作品の果たした役割は大きかったと思います。それはただ単に抽象的な幾何形態の彫刻というだけではなく、金属の物質感や表面処理の多様性など、その後の抽象彫刻の可能性を大きく切り拓いたのです。
しかし、いかにスミスの作品がそれまでの彫刻の概念を一新したとはいえ、それは幾何形態の塊が組み合わさったものでした。また、それらの金属の塊が彫刻らしからぬ軽やかさで組み上げられていたとしても、それは溶接技術によって堅固に接続されたものでした。そもそもスミスの彫刻は、重力とは無縁の造形物であったのです。
橘田さんの作品のユニークさは、先ほども書いたようにマッス(塊)から発想していないところにあります。それは平面の連続体を組み合わせたもので、橘田さんの創造行為はおそらくペラペラの紙のマケット(英;MAQUETTE、模型)を制作するところからはじまっていることでしょう。
さらに橘田さんの作品は、一つ一つの平面がネジによってとめられた仮設の形体が組み合わされたものです。そのことによって素材の金属の性質や重力によって、構造的な制約を受けます。溶接によって固定された作品と違って、橘田さんの作品は金属の折れ方、曲がり方、接続の仕方、そして何よりも接地して立ち上がることについて、溶接による彫刻とは異なる工夫が必要なのです。
そんなことを考えながら橘田さんの作品を見ると、少ない接地面で大きな作品が軽やかに立ち上がっていることに驚きます。もしも私が橘田さんの作品と同じ素材と制作方法で、とにかく同じくらいスケールの大きな作品を作れ、と言われたら、作品が倒れないようにするだけでも精一杯でしょう。
しかし、そんな構造上の制約が橘田さんの作品にネガティブに働いているのか、と言われれば、そんなことはありません。橘田さんの作品は金属や重力が発する自然の法則をアドヴァイスのように受け止めて、それに耳を傾けることで心地よい緊張感とバランスを生んでいるのだと思います。
ここまでが、橘田さんの作品に関する基本情報です。こういう作品構造の中で、例えば今回の作品を通じて、橘田さんはどのような表現を試みているのでしょうか。
今回の作品で目につくことの一つに、作品の上部が大きく広がっていることがあげられます。それも決して重たい広がりではなく、あくまで軽やかに、そして周囲の空間を取り込むような動感をもって広がっているのです。この時期に展示されていることから、桜の木が花を咲かせて周囲へ広がっていくような、という比喩で表現しても良いのかもしれません。ただし、その広がりを支えているのは桜の木のような太い幹ではありません。細い、二本の楕円形のアーチが作品に広がりを与えているのです。
そして、もう一つ目につくことが、作品の重心が地面から浮き上がって、その重心らしきものが私たちの腰のあたりで強い力動感を持ってうねっていることです。それはまるで、これから走り出そうとして身構える馬のような感じがします。細い脚で支えられた馬の胴体が、身体をよじって力を蓄えているような感じがするのです。
このように、作品の重心が地面から上昇していることが、彫刻作品にとってとても大切なことだと私は考えます。動物であれ、植物であれ、人間であれ、生きとし生けるものはすべて、地面から立ち上がって生きています。その最もシンプルな形は大きな木の形です。大きな木は、中心となる太い幹を天へと伸ばしながら、円錐形のような末広がりの形を形成します。それは彫刻的に見ても、基本的な形となるでしょう。しかし動物の形はもっと複雑です。人であれば腰の辺りに重心があるでしょうし、地面に近い場所を這う昆虫であっても、細い足で重たい胴体を支えています。より軽やかに見えるものほど、重力に対してより自由に見えるのだと言えるでしょう。
橘田さんの作品は、先ほども書いたように重力の制約を受ける構造でありながら、作品の見映えとしては重力から自由であるように見えます。それもただ単にふわふわと浮いているのではなくて、作品の下部において力強く地面から立ち上がっていて、その力感が大きな楕円形のうねりとなって空へと広がっていくのです。
そして橘田さんの作品には、それ以外にもいろいろな工夫があります。
例えば、作品の下部構造を支える大きな草の葉のような、しなった櫛状の形があります。これは少し前の橘田さんの作品に見られた形ですが、しなった金属板が元に戻ろうとする力を蓄えているように見えるのです。
あるいは軽やかさを演出する空洞が、金属板のあちらこちらに穿たれています。その空洞の穴が、さまざまな方向からの風通しを良くしています。そのつながりが上昇気流を、そのまま作品の上部へと送り届けているように見えます。
そして橘田さんの作品ではお馴染みの、紡錘形の大きな形があります。その中には空気が蓄えられていて、実際の重量よりもずっと軽く見えるのです。さらに今回の作品の上部には、紡錘形を半分に切ったラッパのような、あるいは花びらのように開かれた形が見えます。それは周囲の風を集めているようにも、あるいは逆に風を放っているようにも見えます。いずれにしろ、花びらのような形は見るからに軽やかです。

ここまで見てきたように、橘田さんの立体作品は、それまでの既成の芸術の様式にあてはまらず、加えてその作品の構造は重力からも自由であるように見えます。なぜ、橘田さんはそのようなことを試みているのでしょうか。それは芸術とは基本的に既成概念から自由なものであり、なおかつ美術においてはそれを目に見える形で表現できるからでしょう。
だから橘田さんの平面作品も、既成の絵画様式にあてはまりません。古典的な遠近法の絵画とはまるで違いますし、だからと言って印象派から抽象絵画へ、さらに抽象表現主義からミニマルな絵画へという現代絵画の流れとも、違っています。この時代との距離の取り方、時流におもねることのない橘田さんの姿勢を、私たちはどう考えたら良いのでしょうか。
このことについて考えるにあたり、興味深い資料を紹介します。それはギャラリーのホームページに橘田さんが書いた、エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832 - 1883)の『皇帝マクシミリアンの処刑』についての文章です。この『皇帝マクシミリアンの処刑』という絵は、よく見ると不思議な作品です。橘田さんの推理によると、この絵の中で実際に処刑されているのは、画面に描かれていない人物(ナポレオンⅢ)ではないか、というのです。興味のある方は、ぜひ本文を読んでみてください。その話の妥当性について私には判断できませんが、そう思わせるぐらい兵士たちの描写が奇妙だということは、私にも理解できます。
考えてみるとマネという画家は、代表作と言われる『草上の昼食』も『オランピア』も、かなり奇妙な作品です。そしてマネという画家の存在自体も、印象派と同時代の人であり、そのリーダー格とも言われた人なのに、マネ自身は印象派とは言い難い不思議な位置をしめています。もしかしたら、橘田さんは、そんなマネの存在に、自分自身の現代美術の中での位置を無意識のうちに重ねているのかもしれません。
マネが格闘したのは、当時の最新の絵画理論にのっとった絵画の改革ではなくて、もっと長い射程を持った絵画表現そのものでした。マネは、印象派の色彩論理ではありえない黒い色面を頻繁に使いましたし、点描法を採用せずに輪郭のはっきりとした描き方を終生変えませんでした。それでもマネの絵は、古典的な絵画とは違った軽妙さと、描写の率直さを感じさせます。そして印象派の絵画ではありえない『皇帝マクシミリアンの処刑』のような奇妙な革新的な表現を試みたのです。
それでは、橘田さんと現在の美術の状況との関係はどうでしょうか?
ここで橘田さんが参加した、山梨県立美術館の「やまなしの戦後美術」という展覧会のカタログをひもといてみましょう。高野早代子さんという学芸員の方が、橘田さんに関するとても丁寧な論文を書いています。

1960年代終わりから70年代前半の橘田が学生生活を送った時代は、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート、もの派などが日本の現代美術に大きな影響力を持っていた。絵を描くことが好きで、いつでもドローイングをしていたという橘田だが、「スピードがある表現に憧れたのか、絵を描いているのが遅い」と感じたという。このことについて橘田は、「絵は遅いということ。絵を見るとは、物語や意味を読み取れることが含まれる。そのような見方をさせる絵画、つまり一瞬で捉えきれない絵画を遅いと感じた」と説明する。そして、橘田は、視覚的に一瞬で捉えられる作品をつくりたいと思うようになっていた。その実践として、コンセプチュアル・アートに影響を受けた版画作品を制作しながら、模索を繰り返していた。そうするうちに橘田は「素材をあるがままに提示するような、作る次元を通らない表現というか、やはりそういうものは自分には無理だと感じ始めた」。当時の現代美術の時流に乗れないと気付いたことは、その後の橘田の作品の形式を大きく変えることになった。
(『橘田尚之理解のための試論』高野早代子)

橘田さんは作家として活動し始めた早い時期に、自分の立ち位置を肌で感じたようです。そして、私が現代美術を見はじめた頃には、橘田さんはすでにユニークな立体作品を発表していました。ミニマルな表現や、「もの派」的な素材の使い方の作品を見慣れた私の目には、それはとても新鮮な表現に見えました。そして同時に、橘田さんの表現が孤立したものに見えたことも確かです。世界的に見ても、このような作家はいないのではないでしょうか。それは印象派にも、古典派にも、ロマン派にも属さないマネと似ているのかもしれません。
今回、橘田さんが意外なことにマネの絵について言及したことは、マネの作品から橘田さんが直接、影響を受けたというような卑近なことではなく、もっと奥深いシンパシーが働いたのかもしれません。橘田さんが、マネの芸術の奇妙さについて取り上げたことが、とても象徴的です。例えば橘田さんの作品の中空構造と、マネの絵の不在のナポレオンⅢが、作品の外部に内実があるという点で、遠いところで似ているのかもしれません。

さて、いろいろと書きましたが、できたら画廊に足を運んで、実際に橘田さんの作品をご覧になってください。橘田さんの作品は、その表面だけを見ても角度によって見え方が変わります。平面作品では、その色合いさえも変化して見えるのです。立体作品において実物を見ることが重要であることは、いうまでもありません。
そして何よりも、同時代に生きる優れた作家の作品を、その現場に立って見ることができるということ以上に、贅沢なことがあるでしょうか?私のような者からすると、それこそがこの時代に生きる意味だと思います。
そして、戦場で亡くなる方が大勢いる不幸な時代に、このような芸術作品と触れ合うことができる幸福を考えると、それがとても大切な時間だと思えるのです。

 
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