近所にありながら、何となく行きそびれていたところというのが、誰にでもあると思います。日本民藝館は、私の自宅から車で1時間ぐらいのところにあります。いつか行こうと思っていたのですが、「民藝」というのは私の興味の中心ではない、という事情もあります。でも、個展も終わったところで、ふらっと訪ねてみることにしました。
https://mingeikan.or.jp/
有名な施設なので、私などが解説するのも気が引けるのですが、「日本民藝館」という施設だけではなく、その背後にある諸々のことについて、いろいろと調べてみたり、思いを馳せてみたりすると、その人なりの楽しみ方ができるのではないか、と思います。
そこで、今回は私なりの楽しみ方を書いておきます。
実は私は仕事として「クラフトデザイン」という授業を担当しています。ですから、それなりに生徒たちには「日本民藝運動」や、イギリスの「アーツ・アンド・クラフツ運動」などについて話すことがあります。生徒たちが楽しみにしているのは、クラフトデザインの実技、つまり作品を作ることですから、理屈っぽいことを話してもあまり喜びませんが、一応、このふたつの運動ぐらいは知っておいてほしいなあ、と思っています。
私自身、デザインや工芸に人並み以上の興味を持っているわけではありませんが、これらの民藝運動は現代美術とも接点があり、気ままに調べていくと意外と関連した作品を見ていたことに気が付きます。
さて、それでは「日本民藝運動」とは何でしょうか?日本民藝館のホームページから、基本的な情報を拾っておきましょう。
日本を代表する思想家・柳宗悦(やなぎ むねよし、1889 - 1961)・・・・
宗教哲学や西洋近代美術などに深い関心を持っていた柳は、1913年に東京帝国大学哲学科を卒業する。その後、朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれた。そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年に民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動させていく。1936年、日本民藝館が開設されると初代館長に就任。以後1961年に72年の生涯を閉じるまで、ここを拠点に、数々の展覧会や各地への工芸調査や蒐集の旅、旺盛な執筆活動などを展開していった。
・・・
(『日本民藝館』ホームページより)
日本民藝運動については、たくさんの本が出ていますし、詳しい方もたくさんいらっしゃると思います。ですが、初めてこの言葉に触れる方のために、簡単にご紹介しておきます。「日本民芸運動」は、日常的に使われているものの美しさを見直す運動、といえば良いのだろうと思います。そのきっかけとなったのが、朝鮮陶磁器の美しさです。おそらく、柳宗悦の生きた当時は、民藝館にあるような品物が、まだ身の回りにあったのでしょう。そして名もない陶磁の器を見て、美しいなあ、と感心したのでしょうね。
日本民藝館に行くと、そのような古い器がたくさんあります。それも古い戸棚に、あまり余計な解説もつけずに並んでいるのです。もちろん、朝鮮などの外国のものと一緒に、日本の古い器や家具、調理器具や宗教上の道具などもたくさん展示されています。
それぞれが良い品物なのですが、例えば絵付の器の刷毛の跡などを見ると、よく言うと勢いのある筆致で、悪くいえばちょっとぞんざいに描かれたフシがあります。それが人の作ったものでありながら、どこかに自然の妙味が感じられて良い感じです。陶芸の名人が作ったものであれば、うやうやしく展示され、保存されるのでしょうが、民藝館にある品々は使い古された雰囲気があり、破損してしまえば捨てられてしまうことでしょう。それをなんとかして後世に残したい、という気持ちがこの運動のモチベーションになっているのだと思います。
そして、この日本民藝運動に触れるときの楽しみとして、その影響関係の意外な広がりがあります。もちろん、日本の陶芸家、浜田庄司(1894 - 1978)、河井寛次郎(1890 - 1966)などの作品が展示されているのは当然ですが、この運動はイギリスとも縁が深くて、イギリスの陶芸家、バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach、1887 - 1979)という人もこの民藝館の設立に関わったようです。リーチは柳とともに、白樺派の人たちとも知己があったようで、彼らはウイリアム・モーリス(William Morris、 1834 - 1896)の「アーツ・アンド・クラフツ運動」について議論したりしたそうです。そして浜田とリーチは、イギリスのセント・アイヴスという港町に移って、一緒に制作に励んだということです。
セント・アイヴスといえば、イギリスのコーンウォール州にある海辺の街で、抽象絵画の代表的な画家、ベン・ニコルソン(Benjamin Lauder Nicholson, 1894 - 1982)らが芸術家のコロニーを作った場所でもありました。それで私も、地名だけは知っていました。セント・アイヴスをテーマにした展覧会も見たことがあります。このイギリス南西部の突端の町で、土着的な素朴な表現と、現代美術のモダンな造形が混じり合ったのだと思います。ベン・ニコルソンのモダンでありながら、どこかに温かみのある作品は、このような環境から生まれてきたのだとおもいます。
それでは、話が出てきた順番に作品や画像をチェックしてみましょう。
まずは朝鮮半島の古い陶磁器を見てください。白や青磁の印象がありますが、茶褐色にも独特の味わいがあります。生活の器なので、装飾過多にならず、シンプルなところも魅力的です。
https://mingeikan.or.jp/collection_series/korea_ceramic/?lang=ja
それから朝鮮半島には民画といわれる独自の庶民の絵画がありましたね。
https://mingeikan.or.jp/collection_series/korea_painting/?lang=ja
よく見るとどこかユーモラスで、筆致も大らかなところが良いですね。こういう絵が生活の中にある、というのも楽しいです。
朝鮮以外にも、中国、台湾などの器や装飾品も、決して豪華ではありませんが、土着と洗練がうまくミックスされていて、国宝級の作品を見るのとは違った楽しみがあります。
https://mingeikan.or.jp/collection_series/china/?lang=ja
https://mingeikan.or.jp/collection_series/taiwan/?lang=ja
視点をヨーロッパに向けてみます。この民藝館のコレクションは、私たちがイメージする欧米の磁器とはちょっと違っています。中世の世界から抜け出てきたような素朴な感じがします。そして欧米との窓口となったのは、バーナード・リーチなのでしょう。彼の作品は土着の素朴さをねらったものですが、やはりちょっと違いますね。うまく描きすぎていて、洗練された感覚が作品のあちらこちらから垣間見えますが、これは日本の作家、陶芸家にも言えることです。
https://mingeikan.or.jp/collection_series/bernard_leach/?lang=ja
普通の展覧会で、洗練さを競うような作品の中に置かれれば、彼らの作品はプリミティブで力強く見えるのでしょうが、この民藝館の中で見ると、ちょっと出来過ぎのような感じがしてしまいます。近代人が作っているのだから当たり前ですし、そのことを欠点として指摘するつもりもありませんが、この民藝館全体が、そんな不思議な雰囲気を作り出している、ということなのでしょう。
さて、それではリーチを介して開かれたヨーロッパへの窓口について考えていきましょう。柳とリーチの関係を記す記事を読むと、ところどころにウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757 - 1827)の名前が出てきます。詩人であり、画家でもあったブレイクですが、その作風は空想的なイメージと、宗教性、土着性が相俟って、人間の魂の奥を覗くような感じがします。
http://www.news-digest.co.uk/news/features/19216-william-blake.html
また、例えば『春』というブレイクの詩は、次のような言葉で始まります。
フルートを吹き鳴らせ
もっともっと大きな音で
鳥たちは昼も夜も
歓喜の声を上げる
ナイチンゲールは谷間の中で
ひばりは空で夜明けを告げる
陽気にいこう
陽気に 陽気に 春の訪れを歓迎しよう
https://blake.hix05.com/Innocence/120spring.html
春の訪れを、感覚を全開にして喜ぶ様子が語られています。谷間の集落に鳥たちの声が響いているのが聞こえるようです。
それから、先ほども書いたようにリーチはセント・アイヴスというところに住み着いて、制作を続けたようです。セント・アイヴスはどんなところでしょうか。
https://www.expedia.co.jp/St-Ives.dx182650
イングランドの南西端の港町です。ロンドンよりも南にあるので、イギリスの寒々とした厳しい風景の感じとは異なりますが、それでも緯度的にはベルギーのブリュッセルあたりと同じくらいですから、温暖な海の街、というわけにはいかないでしょう。
この街の魅力として、芸術家との関連が深いことがあげられます。セント・アイヴス(コーンウォール州)で活躍したベン・ニコルソンは過去に神奈川県立近代美術館で大規模な回顧展が開かれています。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/storage/jp/museum/exhibitions/2003/event040207/event01.html#top
その展覧会の紹介文の中に、次のような文章があります。
戦争が布告されると、ニコルソンとヘップワースは、その直前に訪れたコーンウォールにとどまることを決意します。戦時中は、作品写真や著作のアルバムをまとめながら、自身の仕事を振り返ることに多くを費やしました。戦後、彼は風景画と静物画という初期のテーマへ立ち戻っていきます。なかには静物画と風景画を結合したようなものもあります。これらすべての静物画において、ニコルソンの物体描写は一層抽象性を増し、その大半は相互に関連し合う物体と物体をつなぐ、リズミカルな輪郭線によって描き出されています。
(神奈川県立近代美術館『ベン・ニコルソン展』より)
ニコルソンの芸術の到達点としては、幾何的な形で構成された抽象絵画ということになるのでしょうが、私は上記の時期の風景や静物が垣間見える過度的な絵画が好きです。ニコルソンの暖かさ、親しみやすさ、清潔さ、などの絵画の特徴がよく表れていると思うからです。
ニコルソンはその後、イギリスから離れることで抽象度を増し、作品も大きくなったようです。それはそれで立派なことだと思いますが、セント・アイヴスという土地の力が反映したような反映したような1950年ごろまでの作品も愛すべき作品群だと思います。
そして、このような土地の力とのつながりを意識するということは、柳の民芸運動とつながるのではないでしょうか。それでリーチや浜田はセント・アイヴスでの活動を始めたのかもしれません。
それでは少し悪ノリして、イギリス・ロンドンのブルームズベリーの芸術家グループの一員で、モダニズム文学の主要作家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882 - 1941)の小説『燈台へ』のモデルとなった土地が、実はセント・アイヴスらしいので、その辺りの事情を探ってみましょう。
次に、セント・アイヴズと言うのは、コーンウォールの、セント・アイヴズ湾にのぞんだ、風光明媚な海浜で、スティーヴン家ではそこに『タラント・ハウス』と呼んだ別荘を持っていて、毎夏をすごした場所であった。ヴァージニアは、子供の頃にその家でなじんだ波の音を、限りなく愛した。それは常に、彼女の思索の伴奏となり、彼女の想いをギリシャへ、ギリシャの詩へと通わせ、そうして、典雅な、詩的な作品を次々と生み出させる原動力ともなったのだ。
(『燈台へ』「解説」中村佐喜子)
『燈台へ』に出てくる土地は、具体的にはセント・アイヴスではないという設定のようですが、ヴァージニア・ウルフの意識の底にあったのはセント・アイヴスであるらしい、という話なのです。「意識の流れ」という文学的技法を駆使するヴァージニア・ウルフにとっては、自分の内面、あるいは小説の中の話者の内面をうつしだす風景こそが大切だったのではないでしょうか。
そんな小説なので、作中の具体的な風景描写を探すのは難しいのですが、目についたところを拾ってみます。
じゃあ、あの島はあんな恰好だったのか、とカムは、手先きをまた波にさらしながら、そう思った。かつて海に出て、それを眺めたことがなかった。海の上に、あんな恰好をして浮んでいるのね、真中がへこんで、二つの切り立った断崖があって、海はその中にはいり込んでゆくし、また島の両側は、どこまでもどこまでも海ばかり。全然ちっちゃいわ、まるで木の葉が突っ立ったような形。だから私たちはボートに乗ったのだわ、カムはそう考えて、沈みつつある船から逃げ出すという、一つの冒険物語を自分に納得させようとしはじめた。けれど、指の間を流れてゆく海や、それに乗って去ってゆく海藻の小枝などを見ていると、本気でそんな物語を自分にする気もなかった。
(『燈台へ』ヴァージニア・ウルフ 中村佐喜子訳)
ものすごく勇壮で、風光明媚な風景というのではありません。雄大ではないけれど、特徴的な形の島があり、それがかえって海の広がりを感じさせるような風景のようです。鎌倉あたりの海岸線と、少し似ているのかもしれません。文学作品に深入りすることは、私の任ではありませんので、この辺りにしておきますが、ヴァージニア・ウルフやジェームス・ジョイスの小説に見られる「意識の流れ」という手法が、具体的にどのようなヴィジョンを実現しているのか、興味があります。そのうちに解き明かさなくてはなりませんね。
最後にもう少し、民芸運動に直接影響しているであろう「アーツ・アンド・クラフツ運動」について書いておきましょう。
「アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)」は、イギリスの詩人、思想家、デザイナーであるウィリアム・モリス(1834 - 1896)が主導したデザイン運動です。年代的に見てみると、柳が生まれた頃にイギリスで起こった運動だということになります。有名なのは、次のデザインですが、きっとご覧になったことがあるでしょう。
https://www.william-morris.jp/works/textile-strawberry-thief.html
「いちご泥棒」という名称も可愛らしいですね。
この「アーツ・アンド・クラフツ運動」と日本の「民芸運動」との関連に注目した展覧会がありました。そのホームページの記述を見てみましょう。
手仕事の良さを見直し、自然や伝統から美を再発見し、シンプルなライフスタイルを提案する。アーツ&クラフツが生み出した精神は、現代の生活に影響を与えながら、今なお遠い理想のようにも映ります。モリスや仲間たちが作り出した家具や壁紙、当時の最先端都市ウィーンの前衛的な家具やグラフィック、「用の美」を見いだした民芸の美意識を味わいながら、生活のなかの芸術について思いをはせる機会となるでしょう。
(『生活と芸術——アーツ&クラフツ展 ウィリアム・モリスから民芸まで』京都国立近代美術館)
このような手仕事による生活雑貨の魅力は、尽きないものですね。その一方で、少し有名になった手工芸品は、すぐに高級物品になってしまいます。それなりの時間をかけて制作したものには、それ相応の価値を付与しないと、製作者の生活が成り立ちません。そういう事情があるにしても、それらの生活雑貨を高級物品として取り扱うことが、そのものにふさわしい扱いになるのでしょうか。前回の芸術作品の価値についての考察と同様に、悩ましい問題です。
やはりここは、その用途と価値との隙間を埋める経済的な配慮が必要です。
そういえば、現代を代表する思想家であるマルクス・ガブリエルが、インタビューで「ベーシック・インカム」について言及していました。人間にとって最低限の生活を営む収入を、政府が補償するという考え方です。そのことによって、格差社会の中で経済的に困窮している人たちを救うこともできますし、手工芸品の職人やファイン・アートの芸術家など、もともと収入が得にくい職業の人たちの生活を助け、制作活動に専念することを可能にするでしょう。実現にあたっては、いろいろな問題があるでしょうが、なんとか実現していただきたいものです。
さて、他に民芸運動に関連する人として、棟方志功(むなかた しこう、1903 - 1975)や芹沢けい介(1895 - 1984)などの名前が浮かんできます。この人たちに関して語り出すと、また長くなってしまいますので、今日はここまでとしておきますが、彼らも東北や沖縄などの土地に根ざした芸術に注目した人たちでしたね。それが彼らの芸術のスケールの大きさになっているような気がします。
ここまで読んでいただくと、日本民藝館に展示してあるものが、ただの骨董品ではないことが、お分かりいただけるのではないかと思います。何気ない器の一つ一つに、それを見出した人たちの思想的な広がりを感じてみましょう。その時に世界は豊かな表情を見せるはずです。現実は厳しいものですが、まだまだ世界は捨てたものではない、という気持ちになります。この数ヶ月間の悲惨なニュースに心を痛めている私たちには、時に心の栄養も必要です。
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