2013年春 5月24日 夫様との最期のお別れ・・・
それから夫様の回復を望んだものの人工呼吸を抜管後の危篤状況にICUにかけつけた子供達とともに個室へ夫様とともに移動しました。
簡易ベットはなく看護師さんが子供達に気遣い、ソフャーや机を出してくださいました。
意識が回復しない夫様は酸素マスクをしながら、普通の人の4倍くらいの呼吸をしていました。
その呼吸が傍から見るととても苦しそうに見えるのですが、実際はちがうそうなので、そのことを救命の医師から伝えられた時はほっとした気持ちでした。
夫様の意識が回復することを願いながら、1日中そばについているのですがなかなか願いは叶わずでした。
夫様の大好きなサザンやディスコなどなどよく若き頃聞いていたCDをかけていました。
同じ世代から若い看護師さんたちはとても喜んでおりました。
個室に移動してから3日目にその日に限り救命の医師や看護師からは肺もとてもよい状態であることを伝えられていました。
しかし、夫様の意識がなかなか回復しないで諦めかけていましたら、突然娘は「マ~リン!パ~リンが目をぱっちり開けたよ!私のことがわかるみたい!」と叫び、うとうとしていた私は夫様と娘をぼんやり眺めていました。
娘は痰が絡んで苦しそうな夫様に「看護師さんに痰とってもらう?」と尋ねると夫様はうなずいていました。
私はかすかな希望を持ち救命の医師にも意識がほんのひととき回復した夫様のことをお伝えすると「もしかしたら良くなるかもしれませんね。その時には今度また今回と同じような状況になりましたら、延命するのか人工呼吸をつけるのか旦那様とお話することができるといいですね。」と答えてくださいました。
少し安心したかように娘と我が家に帰り、明日に備えて携帯をかたてに眠りにつきました。
眠りについたころに夜中に携帯の着信音がなり、次に我が家の電話がなり「マ~リン!電話!」と大声で叫んでいる娘の声がしました。
急いで電話をとると病院から「旦那様が夜中から血圧が低い状態が続いています。」と伝えられました。
えっ!良くなるはずの夫様ではなかったのかと・・・
インターハイを控えていた息子をたたき起こして、3人で病院へ向かいました。
病室にはいるなり夫様は一生懸命酸素マスクとともに呼吸をしておりました。
家族みなそろうと不思議に夫様の数値も良くなり、血圧はなんとか朝方正常にもどりひと安心したときに、子供達は疲れきっていました。
娘はなんとか大学のゼミはお休みできたのですが、息子はインターハイに学期末のテストとダブルにかさなり集中できずにいました。
このままでは子供達も倒れ込んでしまうと考え、夫様はなんとか落ち着いたのでタクシーで家に帰ってもらい、息子は学校へ娘は家で待機してもらうことにしました。
子供達の気遣いもなく夫様とふたりっきりになった私はなんとか意識だけでも回復してもらおう!と夫様に話しかけ続けました。
暖かな手を握ったり摘んだり、足もさすったりといたずらをしたりして笑ったりしたりしたけれども反応なく、テレビを見せたりと夫様の反応を私にしてくれることを心待ちにしていました。
CDから流れる曲を聞いては夫様との新婚時代を思い出しては想いにふけっておりました。
いっすいもしていない私は夫様の手を握りながら眠ってしまったり、椅子を並べて爆睡していたり、その合間手厚い介護をしに、看護師さんたちが来ては席をはずし売店に行き朝食昼食などを買い求めていました。
なんとなく夫様からは離れられず私がいなくなるとそのまま天国へ逝ってしまう予感もしておりました。
そんな私を見かねていた医師や看護師が「このままでは奥さんが倒れてしまうから、一度お風呂に入って横になってからきたほうが・・・今夜また呼び出されるかもしれないから・・・今ちょうど落ち着いているから・・・」と好意で看護師さんが私を気遣ってくださいました。
その看護師さんは夫様にむかって「○○さ~ん!奥さん一度家に帰って着替えてくるから~お風呂に入って美人さんになってくるから、待っててあげてね!」と呼びかけていました。
私もこのままいようかとも考えたのですが、今夜も呼び出されるかもしれないので、準備しとかねば!と考え、夫様が落ち着いてる時に我が家へ向かいました。
我が家に着くと娘が疲れきった顔でしたが、しっかりと家事をこなしてくれていました。
私は倒れるようにベットに横たわりました。
寝巻きのままだったのですが着替える力もなくそのままの状態で倒れ込みました。
横になりながら娘と話していると私の携帯の電話の音が鳴りとるとさきほどの看護師さんでした。
「旦那さんが脈拍が20をきったので・・・」と言われ、これは!今まで50近くだったので、急いで準備し病院へ向かおうとしましたら、ふたたび携帯電話が鳴り、「奥さんごめんなさい・・・旦那さんの呼吸が零に・・・本当は言ってはいけないんだけれども急いで運転すると事故にあうと・・・ゆっくり来てください・・・運転気をつけて来てください・・・」
私は娘とうろたえながら車に飛び乗って病院へ向かいました。
病室へ走り続けた私はまるでドラマかのように呼吸の機械は0の数値とともに折れ線グラフの山ががなくなりまっすぐの直線になっていました。
夫様の目元は安らかにつぶり、酸素マスクがそのまま酸素が流れていました。
夫様に触れると冷たくてその一瞬私は大声で泣き始めました。
「パ~リン!もう一度目を開けて!」と目に触れると開くこともありませんでした。
夫様をゆさぶると機械の折れ線が山となり、「り~ちゃん!ほら!パ~リンまだ生きているよ!」と泣け叫ぶ私がいました。
娘は冷静に首を振りながら真っ赤な泣き虫顔して答えました。
私が冷静さを失い、泣き叫び続けている間娘は大学に連絡して夫様の夢でもあった脊髄小脳変性症の研究のための献体をすすめていました。
息子の高校にも連絡しておりました。
私の取り乱す号泣き叫ぶ声がうるさくて病室から出て電話をしている娘でした。
私は泣き崩れて看護師さんも訪れて泣きたいのを我慢して私に謝っておりました。
病院実習を終えていた娘には亡くなっても泣いてはいけないということは聞いていたので、「泣いたらいけないんでしょう・・・本当にありがとうございます・・・」と泣きながら答えるのが精一杯の私でした。
その看護師さんの後ろ姿はひとり泣いて顔をふいている仕草がわすられません。
夫様から管をみなとってもらい、少し冷静になり娘ともこれなら息子も夫様を冷静に見ることはできるよね!なんて言っていたものの、息子が病室にはいってくるやいなや夫様の顔を見るなり、顔を真っ赤にしてシクシクと泣き始めたのです。
私は30分以上の号泣きから覚めたあとだったので、息子にも言葉をかけれずただただ夫様を撫でておりました。
それから安らかに眠る夫様を娘と息子と看護師さんたちと綺麗にタオルでふいてあげて着替えさせて頂き、献体への準備が葬儀屋さんと慌ただしくはじまりました。
それから夫様の回復を望んだものの人工呼吸を抜管後の危篤状況にICUにかけつけた子供達とともに個室へ夫様とともに移動しました。
簡易ベットはなく看護師さんが子供達に気遣い、ソフャーや机を出してくださいました。
意識が回復しない夫様は酸素マスクをしながら、普通の人の4倍くらいの呼吸をしていました。
その呼吸が傍から見るととても苦しそうに見えるのですが、実際はちがうそうなので、そのことを救命の医師から伝えられた時はほっとした気持ちでした。
夫様の意識が回復することを願いながら、1日中そばについているのですがなかなか願いは叶わずでした。
夫様の大好きなサザンやディスコなどなどよく若き頃聞いていたCDをかけていました。
同じ世代から若い看護師さんたちはとても喜んでおりました。
個室に移動してから3日目にその日に限り救命の医師や看護師からは肺もとてもよい状態であることを伝えられていました。
しかし、夫様の意識がなかなか回復しないで諦めかけていましたら、突然娘は「マ~リン!パ~リンが目をぱっちり開けたよ!私のことがわかるみたい!」と叫び、うとうとしていた私は夫様と娘をぼんやり眺めていました。
娘は痰が絡んで苦しそうな夫様に「看護師さんに痰とってもらう?」と尋ねると夫様はうなずいていました。
私はかすかな希望を持ち救命の医師にも意識がほんのひととき回復した夫様のことをお伝えすると「もしかしたら良くなるかもしれませんね。その時には今度また今回と同じような状況になりましたら、延命するのか人工呼吸をつけるのか旦那様とお話することができるといいですね。」と答えてくださいました。
少し安心したかように娘と我が家に帰り、明日に備えて携帯をかたてに眠りにつきました。
眠りについたころに夜中に携帯の着信音がなり、次に我が家の電話がなり「マ~リン!電話!」と大声で叫んでいる娘の声がしました。
急いで電話をとると病院から「旦那様が夜中から血圧が低い状態が続いています。」と伝えられました。
えっ!良くなるはずの夫様ではなかったのかと・・・
インターハイを控えていた息子をたたき起こして、3人で病院へ向かいました。
病室にはいるなり夫様は一生懸命酸素マスクとともに呼吸をしておりました。
家族みなそろうと不思議に夫様の数値も良くなり、血圧はなんとか朝方正常にもどりひと安心したときに、子供達は疲れきっていました。
娘はなんとか大学のゼミはお休みできたのですが、息子はインターハイに学期末のテストとダブルにかさなり集中できずにいました。
このままでは子供達も倒れ込んでしまうと考え、夫様はなんとか落ち着いたのでタクシーで家に帰ってもらい、息子は学校へ娘は家で待機してもらうことにしました。
子供達の気遣いもなく夫様とふたりっきりになった私はなんとか意識だけでも回復してもらおう!と夫様に話しかけ続けました。
暖かな手を握ったり摘んだり、足もさすったりといたずらをしたりして笑ったりしたりしたけれども反応なく、テレビを見せたりと夫様の反応を私にしてくれることを心待ちにしていました。
CDから流れる曲を聞いては夫様との新婚時代を思い出しては想いにふけっておりました。
いっすいもしていない私は夫様の手を握りながら眠ってしまったり、椅子を並べて爆睡していたり、その合間手厚い介護をしに、看護師さんたちが来ては席をはずし売店に行き朝食昼食などを買い求めていました。
なんとなく夫様からは離れられず私がいなくなるとそのまま天国へ逝ってしまう予感もしておりました。
そんな私を見かねていた医師や看護師が「このままでは奥さんが倒れてしまうから、一度お風呂に入って横になってからきたほうが・・・今夜また呼び出されるかもしれないから・・・今ちょうど落ち着いているから・・・」と好意で看護師さんが私を気遣ってくださいました。
その看護師さんは夫様にむかって「○○さ~ん!奥さん一度家に帰って着替えてくるから~お風呂に入って美人さんになってくるから、待っててあげてね!」と呼びかけていました。
私もこのままいようかとも考えたのですが、今夜も呼び出されるかもしれないので、準備しとかねば!と考え、夫様が落ち着いてる時に我が家へ向かいました。
我が家に着くと娘が疲れきった顔でしたが、しっかりと家事をこなしてくれていました。
私は倒れるようにベットに横たわりました。
寝巻きのままだったのですが着替える力もなくそのままの状態で倒れ込みました。
横になりながら娘と話していると私の携帯の電話の音が鳴りとるとさきほどの看護師さんでした。
「旦那さんが脈拍が20をきったので・・・」と言われ、これは!今まで50近くだったので、急いで準備し病院へ向かおうとしましたら、ふたたび携帯電話が鳴り、「奥さんごめんなさい・・・旦那さんの呼吸が零に・・・本当は言ってはいけないんだけれども急いで運転すると事故にあうと・・・ゆっくり来てください・・・運転気をつけて来てください・・・」
私は娘とうろたえながら車に飛び乗って病院へ向かいました。
病室へ走り続けた私はまるでドラマかのように呼吸の機械は0の数値とともに折れ線グラフの山ががなくなりまっすぐの直線になっていました。
夫様の目元は安らかにつぶり、酸素マスクがそのまま酸素が流れていました。
夫様に触れると冷たくてその一瞬私は大声で泣き始めました。
「パ~リン!もう一度目を開けて!」と目に触れると開くこともありませんでした。
夫様をゆさぶると機械の折れ線が山となり、「り~ちゃん!ほら!パ~リンまだ生きているよ!」と泣け叫ぶ私がいました。
娘は冷静に首を振りながら真っ赤な泣き虫顔して答えました。
私が冷静さを失い、泣き叫び続けている間娘は大学に連絡して夫様の夢でもあった脊髄小脳変性症の研究のための献体をすすめていました。
息子の高校にも連絡しておりました。
私の取り乱す号泣き叫ぶ声がうるさくて病室から出て電話をしている娘でした。
私は泣き崩れて看護師さんも訪れて泣きたいのを我慢して私に謝っておりました。
病院実習を終えていた娘には亡くなっても泣いてはいけないということは聞いていたので、「泣いたらいけないんでしょう・・・本当にありがとうございます・・・」と泣きながら答えるのが精一杯の私でした。
その看護師さんの後ろ姿はひとり泣いて顔をふいている仕草がわすられません。
夫様から管をみなとってもらい、少し冷静になり娘ともこれなら息子も夫様を冷静に見ることはできるよね!なんて言っていたものの、息子が病室にはいってくるやいなや夫様の顔を見るなり、顔を真っ赤にしてシクシクと泣き始めたのです。
私は30分以上の号泣きから覚めたあとだったので、息子にも言葉をかけれずただただ夫様を撫でておりました。
それから安らかに眠る夫様を娘と息子と看護師さんたちと綺麗にタオルでふいてあげて着替えさせて頂き、献体への準備が葬儀屋さんと慌ただしくはじまりました。