わんわんらっぱー

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10月29日(月)のつぶやき その1

2018-10-30 03:22:49 | つぶやき

ベトナム戦争 -テト攻勢-

2018-10-29 20:42:11 | 戦争
 ベトナム戦争やテト攻勢に関する膨大な映像がYoutubeにアップロードされている。
映像は情報量としては多いのだが、軍事行動の背景や政治的な動きは限定的にしか伝えられていない。ベトナム側の資料と、映画にもなった「ペンタゴン・ペーパーズ」によって、ベトナム戦争に関してベトナム政府及び米政府がそれぞれどのように情報を把握して思考していたのか判読できるようにはなっている。

 ベトナム解放戦線部隊が1968年1月31日午前3時を期して首都サイゴンをふくむ全国の主要都市、軍事基地に一斉に攻撃を仕掛けた。サイゴンではアメリカ大使館のほか、大統領宮殿、タンソンニャット空港の空軍基地、サイゴン川に面した海軍基地、放送局など7ヵ所が攻撃された。
 このテト攻勢は、米軍の本格介入で劣勢に追い込まれた解放戦線側が、巻き返しを図って展開した乾坤一擲の作戦だった。解放戦線はテト(旧正月)の休戦の隙をついて、首都サイゴンをはじめ「南」全土の主要都市と基地に一斉攻撃を仕掛けた。サイゴンの米大使館も一時、占領されかけた。
 孫子の兵法に学んだボー・グエン・ザップ将軍はそれまでゲリラ戦を展開してきた。全面的な軍事行動には反対だったとされ、テト攻勢決定の会議は欠席している。

テト攻勢再考 木村哲三郎
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181029191652.pdf?id=ART0009384204
↑ベトナム共産党の党文献全集に収められた、政治局決議、中央委員会総会決議、南部中央局決議、第5戦区委員会決議や
指示などの党内部文献を米側史料と比較検討して書かれた論文

◯1968年のテト攻勢はレ・ズアン(Le Duan)第1書記が主導して行われた。
◯その頃、ボー・グエン・ザップ(Vo Nguyen Giap)国防相兼総司令官はすでに実質的に失脚していた。

 テト攻勢―正確には第一波―が完全に終わるまでにはほぼ1か月かかったが、その間に態勢を立て直した米軍や南ベトナム政府軍の反撃で、米軍の発表によると、推定6万7,000人とされた南ベトナム解放戦線の戦闘兵力は3分の2が壊滅した。
 戦術的には敗北を喫したが、アメリカのみならず世界的な反戦運動世論が沸き起こり、戦略的には成功したと言われており、ザップ将軍もその点は認めていている。

 余談だが、「世界的な反戦世論の高まり」に日本も影響を受けている。第二次安保闘争、東大安田講堂事件などは民族自決を掲げて米軍と戦うベトナム人民への共感を下地としている。
 日本の創作世界も影響を受けており、手塚治虫も1968年を境に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』などの社会派のマンガを志向するようになる。1970年代のマンガの爛熟期を支える起点とも言える。
 宮崎駿の「風の谷のナウシカ」の主人公ナウシカは自身が飼って行動を共にしているキツネリス(宮崎の想像種)を「テト」と呼んでいる。これを偶然と考えるか否かは、宮崎の思想的変遷を考えれば容易に答えがでよう。

 テト攻勢で南ベトナム解放戦線組織が大打撃を受け、北ベトナム正規軍が戦争の主役となり、重砲や戦車、対空戦力の増強が必要となっていた。
北ベトナムは防空体制の強化のために、ソ連が提供するレーダー、地対空ミサイル、高射砲そして地上戦を有利に進めるための重砲を必要とした。
中国はAK突撃銃などの小火器と機関銃、迫撃砲・対戦車ロケット砲・野砲しか提供できなかった。
中国は長期持久戦を望んだ。ソ連は長期化を望まなかった。

 解放戦線内部の親ソ・親中派の抗争は親ソ派側が優勢となり69年9月、ホーチミンが死去すると親ソ派の筆頭であるレ・ズアンが主導権を握った。

 中国もソ連の脅威への対抗策を探していた。こうした米中両国の思惑が合致して、1972年2月、ニクソン米大統領の中国訪問が実現し、米中和解が成立した。
 1972年5月北爆が再開される。北ベトナムの全港湾を機雷で封鎖して、共産圏からの軍需物資補給を断とうとした。
 翌1973年1月、難航していたパリ和平交渉が妥結して協定が成立。同年3月、68年頃には54万人を超えていた米軍の全面撤退が完了した。

 ベトナム戦争における戦死者は米軍側が約5万8千人、南ベトナム側が20万人以上、北ベトナム側は約110万人。南北の民間人犠牲者は3百万人以上とみられる。

 ベトナム戦争は1975年に北ベトナム解放戦線がサイゴンを陥落させて終結するが、戦争の悲劇は続いた。
1978年12月25日、反ポル・ポト勢力に手引きされてベトナム軍はカンボジア侵攻にし、クメール・ルージュを政権の座から追い出した。
ポル・ポト率いるクメール・ルージュはわずか3年の間に300万人の自国民を殺害した。
翌年1979年2月17日、ポル・ポト政権を支援していた中国政府が懲罰として三個軍団、約13万の兵力でベトナム国境の全線にわたって攻撃を開始した。中越戦争である。
ベトナム政府軍が中国軍を押し戻して戦争は終わる。
当然、戦乱に明け暮れたベトナムは1980年代においても人民は貧困を脱せなかった。
1986年ドイモイと呼称する改革開放政策が打ち出され、社会主義体制のもとで市場経済システムの導入に踏み切った。

ベトナム戦争 7 テト攻勢

ベトナム戦争 9 ラオスとカンボジア (一部映像の乱れあり)

10月28日(日)のつぶやき

2018-10-29 03:26:36 | つぶやき

<魂は滅す 現世を禁欲で>エピクロスの一生と残光

2018-10-28 19:56:05 | 哲学
 エピクロスはアテナイの植民地であったサモス島に、紀元前341年に生まれた。
彼が生まれ育ったサモス島は、淡路島ほどの大きさの地中海東部に浮かぶ島で、小アジア本土の岬とは目と鼻の先にある。エピクロスの父ネオクレスはもとはアテナイ地方の農村出身で、およそ30年前の入植者の一人である。ネオクレス(父親)とカイレストラテ(母親)の間に四人の子供がいた。(1)

 父親であるネオクレスは、もともとはアテナイの市民であり、アテナイの市民権も持ってたが、ギリシア人がサモス島に入植してきた際に、アテナイからサモスへと移住した。

 当時アテナイ人の青年には2年間の兵役義務があり、紀元前323年エピクロスも18歳の時、アテナイへ上京した。この時アカデメイアで(プラトン派)クセノクラテスの、またリュケイオンで(アリストテレス派)テオプラストスの講義を聞いたと言われる。
 同年、東方遠征をしていたアレクサンドロス大王が遠征先で病死する。ポリス国家を中心とする古代ギリシアの秩序が大王の世界遠征により解体され、さらに大王が弱冠33歳で早世した事によって帝国の秩序も崩壊した。大王は内政には迂遠であり、後継者指名を行わなかったため内戦となる。

 2年のアテナイ滞在後、エピクロスは家族のもとに戻るが、サモス島のアテナイ人入植者は、アレクサンドロス大王の後継者ペルディッカスによって弾圧され、対岸の小アジアのコロポンに避難していた。コロポンの家族と合流した後、都市テオスにてデモクリトス派の哲学者ナウシパネスの門下でデモクリトスの原子論を学んだと思われる。(2)
 原子論はレウキッポスによって提唱され、デモクリトスによって大成された。デモクリトス→キオスのメトロドロス(間接的に継承)→アブデラのアナクサルコス→エリスのピュロン→テオスのナウシパネスと連なる。

 紀元前311年、エピクロスはレスボス島で自身の学校を開くが迫害を受け、翌年にはミュティレネや小アジア北方のラムプサコスに移り、後のエピクロス派を支える弟子たちを迎えた。

 紀元前307年か紀元前306年には、エピクロスは弟子たちとともにアテナイへ移った。人里離れたアテナイの郊外に庭園付きの小さな家を購入し、そこで弟子たちと共同生活を始めた。いわゆる「エピクロスの園」である。この時、エピクロスは35歳になっていた。
 このエピクロスの学園は万人に開かれ、ディオゲネス・ラエルティオスは哲学者列伝の中で、この学園の聴講生としてマンマリオン、ヘディア、エロディオン、ニキディオン、ボイディオンらの遊女の名前を記録している。女奴隷もいて、パイドリオンがその管理をした。彼女はエピクロスの嘱託を受けて、奴隷解放に努力した。(3)
 当時は男尊女卑の傾向が強固であり、奴隷制度下であった。このことからエピクロス主義者(エピキュリアン)は快楽主義者などと誹謗を受けたと指摘されている。実際の教義内容は禁欲に近い。

 エピクロスはこの後、友人を訪ねる数度の旅行以外は、アテナイのこの学園で過ごした。紀元前270年、エピクロスは72歳でこの世を去った。

◯死後の否定



「死はわれわれといかなる関わりをもたないと考えることに慣れよ。なぜなら、善も悪もすべて感覚なくしてはありえず、しかるに死は感覚の途絶にほかならいのだから。それゆえ、死がわれわれにとっては無であると正しく認識することは、生の<死すべき定め>を楽しみに変える。その認識が主に無限の時を付け加えることをやめ、不死への憧れを取り除いてくれるからだ。生なきことに何も恐れるものはない」(『メノイケウス宛書簡』124-125)

◯自己意識の絶対性
 ルクティウスについて記述が殆ど存在せず、BC54年にキロケが弟に宛てた書簡が残っており「ルクレティウスの詩は、おまえの言うとおり天来の閃きに溢れているが、同時にまたきわめて技巧的な作品だ」というのが同時代における唯一の記録である。
 エピクロスの主著『自然について』が失われた理由の一つに、ルクレティウスが才能溢れる詩人としてエピクロス哲学の概要を精彩ある筆致で魅力的に著した書『事物の本性について』によって、覆い隠されてしまった可能性が指摘されている。
 ディオゲネス・ラエルティオスによると、エピクロスの著書の量では同時代のすべての人を越えており、巻物の数は300にも達していたとされる。

ルクレテイゥス『事物の本性について』251-262
さてそれでは、もしすべての運動はいつもつながり、
古い運動から新しい運動が、一定の順序で生じ、
もしまた元素がその進路からそれることによって、
宿命の掟をやぶる新しい運動をはじめることなく、
原因が原因に限りなくつづくとすれば、
地上の生物の持つ自由な意思はどこからあらわれ、
いかにしてこの自由な意思は宿命の手からもぎとられたというのか?
人はその意思によってこそ、よろこびの導くところに進み、
さらにまた時を定めず、所もはっきり定めないで
心のおもむくままに運動を逸らすものではないか。
なぜなら疑いもなく、各人自身の意思が、これらのことに
きっかけを与え、それから手足に運動がひろがるのだから。

 人の「意思」というものが発動される際には、その因果関係の究極的な起点の位置にアトムの「逸れ」という原因を持たない運動が介入しているがゆえに、われわれは無限因の「自由意志」を持ちえる、と規定した。

 エピクロスは原子の逸れに端を発する非決定性の哲学を志向し、“偏倚”(クリナメン)概念の重要性・豊饒さを基礎にして、独自哲学の系譜を打ち立てたのである。




また、以下のような言葉を残している。
「若いからといって哲学するのを遅らせてはならない、年老いたからといって哲学に倦むことがあってはならない。なぜなら、魂の健康をめざすのに誰も時期尚早とか、機を逸したということはないからだ。まだ哲学する時ではないとか、その時期はすでに去ったと言う人は、幸福に向かう時節がまだ来ていないとか、もはやその時ではないと言う人と変わらない。それゆえ、老いも若いきも哲学しなければならない。老いては、かつて起こったよきことどもに感謝することにより清新な生気を取り戻し、若くしては、未来への恐れを克服することにより老成するために」(『メノイケウス宛書簡』冒頭)

参考
(1)哲学の歴史 中央公論新社
(2)Wikipedia
(3)エピクロスとストア 堀田彰

02 - Epicurus on Happiness - Philosophy: A Guide to Happiness

エピクロスの園があった場所は、今ではタクシーの墓場になっているらしい。
7分頃から

10月27日(土)のつぶやき

2018-10-28 03:29:40 | つぶやき