あーぁ 行きたいなぁ~



ども、リッキーパパです。

去年の今頃は、こんな感じだったのですが・・・

去年の今頃の釣り




台風のせいではなく、仕事が・・・・

魚クン達!

待ってろよ!
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あの頃チャンネル(2007年08月26日~2007年09月01日)

あの頃チャンネル(2007年08月26日~2007年09月01日)


5年前って、もうサヨリを釣っていたんですね。

さばいて、天ぷら・刺身にして食していたのですね。

ふーーーーーーん。

釣れなくてもいいから、週末はいつもの漁港に行ってみよう。

(と、思うリッキーパパなのでした。)
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懐かしいものを見つけました。(昭和の人限定)



忍者部隊月光です。

昭和40年頃だったと思うのですが、白黒テレビにかじりついて見ていたものです。
(カープの正田選手の応援歌が このエンディングタイトル曲だったと思うのですが・・・)


と、記憶の糸をたどりながらこの画像を見ていたら、チョコチョコと歌詞を間違えて覚えていたことに気づきました。

この年で、40年ぶりぐらいに 間違いに気づかせてくれるとは・・・・

もう二度と見ることが出来ないと思っていたのに、イイ世の中になったものだ。

嬉しくって何度も見てしまいました。

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去年のリッキー



こいつも去年の動画ですが、リッキーのボクシングです。

(いつか おもしろビデオに投稿しようと思ってます。)

すいません、これも 横向きになってください。



で、パパは今からなのだ!

お付き合いお付き合い。(昔美人の方々と・・・ってしまうとマズイなぁ~ 読者もいますから)


出かける前にアップしてるのでじかんがなくて・・・・


ホラッ 時間・・・・て、変換してないし・・・


そのくらい忙しいパパにどうか1票を!

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あーっ 明日もなんだよねー(肝臓休ませるヒマもない)
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コレ知ってる人はかなり・・・その1



なにげに(コレは最近の若い人たちがよく使うことば)思い出したのだが、


このコマーシャルソングを知っている人は かなり古いっ!

ツノダ自転車 コマーシャルソング

♪ リンリンリン(ヘィ) リンリンリン(ユー)
  つつんつツノダ つつんつツノダ
  自転車ツノダのTU(テーユー)号
  
  ママ と パパ
  あなた と わたし
  きみ と ぼく

  みんなー つんつんツノダのTU号

  ※TUはあくまでもテーユーと発音していた。


どこかの、公園で 家族が水入らずで 自転車に乗ってグルグル回っていたと思う。

昭和43年頃だったと思うのだが・・・・・







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こういう話が好きな人も、そうでない人も、

なぁ~んだ リッキーの写真がないぞ! と言う人もクリックしてください。



エッ?もう一声?




かじる気満々のリッキーくん


これでいかが?
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懐古録 おもちゃ編




 最近のゲームといえば、テレビゲームが主流です。

現実と間違いそうなくらいヴァーチャルな世界が広がっています。

お手軽にレーサーになれたり、プロスポーツ選手になれたり、勇者になれたり。

と、昔の子供たちが『あったらいいなぁ~』と思っていたことが現実にできるようになりました。



 では、そんなことが不可能だった昔の子供たち(今の大人)はどうしていたんでしょうか?


それは、無限の想像力ですべてをカバーしていたのです。自転車は何にでも変身して、

『流星号』にも『ビートル1号』にも『サイクロン号』にだって、

たったのひとこと宣言するだけで変わってしまうのです。


『よーし、いまから僕はスーパージェッターだ!』とか、

『よーし、オレはライダーだ!!』と、



ヒーローの名前を言ったとたん、見えていようがいまいが、ムリヤリ周りを納得させて、ヴァーチャルな世界を作り出すのであった。



外で遊ぶ世界でその状態だから、家の中でおとなしくするゲームでも白熱してくるのは当然で、



その頃(昭和と呼ばれる時代)の子供たちに支持されていたゲームは、



『軍旗将棋』『人生ゲーム』『野球盤』『サッカーゲーム』『ボーリングゲーム』『魚雷作戦ゲーム』『スパイゲーム(だったと思う)』『レーダー作戦ゲーム』・・・

まぁこれ以外にもあるのですが、

軍旗将棋とは、将棋のようなもので、駒の大きさはすべて同じ。

ただちがうのは駒がタンクであったり、地雷であったり、大佐だったりと・・・軍隊なのである。


それぞれ相性があり、メチャメチャ強い駒が、意外と弱い駒に負けたり

(この辺はトランプの大富豪なんかに似ている)。

でも将棋とちがうのは駒はすべて裏返しにされていて、どこに何の駒があるか?は、

わからないようにやっていた。

要するに相手の駒が強いのか?弱いのか?わからない状態で勝負をかけるのである。



駒をひっくり返したとたん、タンクと書いてあったらその駒の上に戦車が見えている感覚で遊ぶから、


『ウヘーッ地雷踏んじゃったぁ~』とか、大声で叫びながら


『グォーッやられた』など、実況中継さながらにオーバーなリアクションを取ったりしたものだ。



さしずめハリーポッターと賢者の石のチェスのシーンを思い出してもらったらいい。


あんな感じを自分たちで想像しながら遊んでいたと考えてほしい。(大げさかなぁ?)



人生ゲームは現役なので省略。


魚雷作戦ゲーム。


これは、長方形の箱の中に海があり、向こうとこっちに分かれて魚雷艇(魚雷発射できる船)の魚雷を反対側の相手の艦船にむけて発射する・・・



というもの。ただ、発射するのは魚雷ではなくパチンコ玉。


コロコロところがして相手の船の下に(見えないように)四角い標的があって、


そこにパチンコ玉(この場合は魚雷)が当たると船が溝に落ちるという単純な代物。



そう、私は友達の家で遊んで以来、ほしくてたまらなかったゲームだったのだが、とうとう我が家にやってくることはなかった。



それが、それがあったのです。(現在の話ですよここから・・・)


なんと、九州のスペースワールドに・・・・・



入り口を入って左側の土産物屋さんに、古いキャラクターのフィギアとかプラモデルとかを売っているお店の中にあるわあるわ・・・


『魚雷作戦ゲーム』
『中山律子のエポックボーリングゲーム』
『エポックサッカーゲーム』


昭和生まれの私にとってここは宝の山だった。すごく欲しかったので奥さんに


『買っていいかなぁ~?』とたずねたら、



『そんなの無駄じゃん!』と一蹴いっしゅうされてしまった。



またもや撃沈!!
(いつもこうである)



さて、ここからは昔の話。



わたしが、小学校2年生の時、興じていたオモチャは『ウルトラマシン』であった。



名前から想像して・・・ガチャガチャのようにハンドルを回したら
カプセルに入ったウルトラマンでも出るのか?と思われるのがオチだが、


これは、れっきとしたバッティングマシンだったのだ。


その当時、1200円ぐらいだったと思う。


バッティングセンターにあるボールを投げる機械と、
ボールが10個と、
伸縮性のバットが1本付いていた。

箱から取り出し、ボールの受け皿をセットし、電池を入れて、スイッチを入れる。


一応、高めと低めの切り替えスイッチが付いていて、10秒ごとに1球投げる仕掛けになっていた。


このオモチャは父親が何の前触れもなく買ってきたものだが思いは、我が子をいずれ甲子園に行かせたいと思っていたに違いない。
(どうして確信しているか?というと、私が自分の子供にしたこととほぼ同じだからです。)


こいつは、本気になると時間を忘れて遊んでしまう代物でした。ついつい夢中になり、打った球が写真たてに当たる。
時計に当たる。
障子に当たる。
果ては、おかずの入った皿に・・・。

もうこの段階でエネルギー充填完了した母親から『波動砲』が発射されているのは言うまでもありません。


 余談ですが、このウルトラマシンのCMがほんとにほのぼのとした作りになっていて、

妹と楽しんでいるお兄ちゃんが打ったボールが、台所で夕食の準備をしているお母さんの手元にある卵が入ったボールの中にボールが入って(シャレ?)

お母さんが卵を割ろうとして割れない・・・・という、本当にズッコケたコマーシャルだったのです。

いやー、それにしてもそのウルトラマシンも復刻版が出ていて、あちこちのオモチャ屋さんで見かけるようになりました。


また、勇気を振り絞って言ってみようかな?
『買っていいかなぁ~』・・・・・と。




そんなのリッキーママに撃沈!されるだけ・・・・と思われる方は
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回顧録 懐かしのオモチャ編

いつのことだったか、子供にせがまれトイザラスへ行ったときのことである。

入り口を入って左に曲がってお菓子やシャボン玉、昔の駄菓子屋にありがちな安いおもちゃのコーナーを突き当たったあたりに、なんと懐かしいものを発見してしまった。


アメリカンクラッカー



そう、昭和46年頃、世の中は仮面ライダーの大ヒットで、カルビーの「ライダースナック」が飛ぶように売れていた頃である。

(まあ、売れていたのはお菓子ではなく、そのおまけで付いていたカードなのだが・・・)


 そのころ、駄菓子屋に誇らしげにつり下げられていたのがこの「アメリカンクラッカー」なるのもだった。


その当時、ライダースナックが確か30円くらいだったと思うが、

アメリカンクラッカーは相当高価なものだという印象があった。

だからこそ、クラスでクラッカーを持っているやつがいたらもう大変。

「おい、今日○○公園にもってこいや、みんなそこに集合!」と、
本人のスケジュールなど完全無視の状態で物事が決まっていた。


 公園に集まると持ち主が現れて、まずデモンストレーションをする。「こうやって、こうして・・・」


一同唖然!


どうしてあっけにとられたか?というと、



テレビのコマーシャルではアメリカ人らしき数組のペアがいとも簡単に操作しているのである。


 ここで、アメリカンクラッカーについて解説しよう・・・


キーホルダーのリングくらいの輪っかに2本のひも(30センチ程度)が付いており、おもりのような堅いボールが先にくっついている。


 えーい、うまく表現でいないが、2つのサクランボがヘタの部分でくっついているのを想像してもらいたい。

そのヘタを持って上下に振るとサクランボの部分がカチカチと鳴って、

うまくなると下でカチ!上でカチ!と音を立てる。


連続して行うと【大阪名物パチパチパンチ】のようになるのだ。





が、その持ち主はパチパチはおろか、1回も当てることができないのである。



業を煮やしたガキ大将が「オレに貸せ!」と、持ち主から取り上げて少し離れたところでムリヤリ力ずくで「オリャーっ」と、気合い一発。









が、クラッカーはすべて不発で玉は空を切るばかりである。

それどころが、バランスを失って腕やお腹にボコボコと当たったのである。



それに怒ったガキ大将はさらにブンブン振り回した。


闘牛場の牛がアメリカンクラッカーを振り回しているようにも見えたが・・・
やがて、プチッ!という音とともにクラッカーのボールが飛んでいってしまった。





チエッ!といって、ガキ大将は帰ってしまい、そのほかの者もバラバラに。


『おい、どうするんだよぉ!』と、誰に言う出もない持ち主と、なぜかその場を離れることができない私の二人きりになってしまった。





そんな過去のことはほっといて、現在もういいオッサンである。


一応高校の物理で振り子の原理なるものも学習し、ガリレオ君の偉いこともわかっている。
ここは、一発 こどものまえでカッチョいいところを決めよう!と、



『おい、これしっとるか?』


「知ってるよ!アメリカンクラッカーでしょ?」



   ヘッ?




あっさりと小学生の娘が答えた。



 「しかもねぇ父さん!カチカチ鳴らすと、ここの玉の部分が光るんだよ!」



       ヘッ?

私からむしり取り、さっと手に持つと、下の方だけだがカチカチと鳴らし、
見事に光らせている娘の姿を見ていると、

振り子の原理もガリレオも役に立たない。実践あるのみだな・・・・と思うのであった。






 話をアメリカンクラッカーにもどそう。

さっきのガキ大将君のようなひもが切れる事件があちこちで起きたため、当時は危険玩具とされ発売禁止となってしまった。


 このころのオモチャといえば外国物が定番で、ブーメラン、ヨーヨー、ビッチバックワン、スーパーボール、ホットホイール、レーシングなど。



日本製で対抗していたのは、ウルトラマシン、任天堂ウルトラスコーブ、スパイ手帳、エポック社の魚雷作戦ゲーム、サッカーゲーム、初代人生ゲーム、など。


(一部の人しか覚えていないと思うが、任天堂のラブテスターという怪しげなオモチャもあった。)



 これら以外にも、レーダー作戦ゲーム(だったかな)という名のゲームもあって、当時から日本のゲームだと信じていました。


ちょっと前まで・・・が、


トイストーリーを見たときに、レックスとミスターポテトヘッドがやっていたのだ。


今まで日本製だとばかり思っていたオモチャで、ディズニーのキャラが遊んでいた。

(Aの7.Fの5.とか言って、ピンを打っていくゲーム。全部の戦艦と空母などを先に撃沈させた方が勝ち!という単純だが奥が深いゲームだった)

ショック!



日本製だと思っていたんだぞー この年までぇ



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回顧録 (長編大作)

 いまから約45年前、広島県の尾道市でリッキーパパは生まれた。

よく、「おまえ、どこで生まれた?」「おれ、矢追3丁目!」

「うそつけや、病院のベッドの上じゃろうがー」

などという小学校の同級生がいたと思う。
 しかし、リッキーパパは自分の家で生まれた。


その生まれた部屋が、やがて自分の部屋となった。

そう、今では珍しい 産婆さんばさんの手によって生まれたのだ。


 結婚して2年目ぐらいに私は奥さんを連れて、自分を取り上げてくれた産婆さんに会いに行った。

すると、「おーおーあんたかぁ ○○さん家の2番目の子供か」


なんと、その産婆さんは自分が取り上げた赤ん坊の日記をちゃんと付けていた。
おどろき!


 話を戻して、6歳までは尾道で暮らしていたが、ある日のこと、父親が、「オイ!引っ越すことになったから、なかよしのター坊にさよなら言ってこい」


「わかった!」


次の日、ター坊の家に行くと「ター坊!バイバイ」っと元気よく手を振って帰った。
(引っ越しの意味もわからずに)

おもちゃを段ボールに入れろ!と言われてその通りにし、どんどん広くなっていく部屋を見ていたら、だんだん不安になってきた。




車に乗って自分の見たこともない町に着いた。広島だった。


「あんたはこれから○○南小学校に入学するんだよ!」

「ター坊は?」


「あの子は尾道の小学校よねぇ」

「えっ?」


ここではじめて引っ越しの意味を知る。





そんな悲しみも数日で消え、やがて小学校の2年生になる。世間では「柔道一直線」や、「おれは男だ!」などの番組が流行していた。




そんなとき、父親が「おい!。引っ越すことになったぞ」「えっ?」


「仲良しの ひでこチャンにさよなら言ってこい!」


次の日、文房具屋さんに行って写真立てを買った。「ひでこチャン。引っ越すことになった。お別れだね。」

「じゃあ手紙を書くよ・・・」


初恋は引き潮のように消えていった。



今度は、山口県の宇部市。ここでは小学校の3年から5年生までいた。


5年生の同じクラスに すみこチャンという女の子がいた。


同じ班のその子は給食時間になると、パパの前に座るのである。

ここで給食早食いの私はひまを持てあまして、牛乳を飲んでるすみこチャンに ギャグをかますのである。


「さるのケツ!」とか、突然言うと


 チャラリー 鼻から牛乳~ぅ♪


 そう、笑いをこらえたすみこチャンは鼻から牛乳をたらしてしまったのだ。


そんなことが縁で彼女と仲良くなってしまい、いい感じ・・・・・
そんなある日、「オイ! 引っ越すことになったぞ!」

「ゲッ」


最後のデートに常磐公園を選び、観覧車に乗った。


宇部の恋は見送ってしまった観覧車のボックスのように、目の前を通り過ぎていった。




次に行ったところが島根県の出雲市。

ここで小学校6年生という小学校最後の一年を過ごす。そんなとき、となりのクラスのよし子チャンといつしか仲良くなってしまい、

たまたま父親も同じ仕事だったので、ご両家公認の仲となってしまった。



 その当時、流行はやっていたものと言えば【自転車】である。
ブランドも「丸石自転車」「ミヤタ自転車」「ブリジストンサイクル」「ツノダ自転車」「ナショナル自転車」



などが子供たちにもてはやされていた。
特にブリジストンはトリアルタイヤという台形をモチーフにした全く新しいタイヤを開発し、

摩擦係数を減らしスピードをアップさせるという、当時の子供たちには何がなんだかわからないようなとにかくスンゲーものが搭載されていた。




さらに、「雨の日の制動力6倍!」をキャッチコピーに自転車にディスクブレーキをつけたモデルまで出た。


 これには大人たちも舌を巻いた。当時町を走っていたカローラもサニーもドラムブレーキで、


ディスクブレーキなんぞはF-1マシンぐらいしか付いてていなかったような時代である。
(たぶん)



おまけに「フラッシャー」という、ウインカーとストップランプ、夜は2灯だとか、4灯のヘッドライトにテールランプ(車の後ろで赤く光っているやつ)も搭載され、


はては、ラジオ付きの自転車まで発売。(これは、セキネVX-GTO)


 (自転車小僧の話に共感されたオジサン方がいらっしゃったら、御感想を・・・)


そんな、超高度経済成長を遂げる一方で、オイルショックという、世の中のトイレットペーパーが一気になくなる現象のさなか、


「おい!、引っ越すぞ!」
「こんどはどこ?」


・・・で、鳥取に行くことになる。よし子チャンには記念品として鉛筆立てをプレゼントし、最後に引っ越す日に会おう!と約束して・・・・


だが、当日、とうとう現れなかった。


キョロキョロ探し回っている自分はまるで
スーパーでトイレットペーパーを探す主婦のようであった。


出雲の恋は神話で終わった。



次に訪れた鳥取では多感な中学時代を過ごすこととなる。



さて、どの部活動に入ろうか?私は迷わず、テニス部に入った。

自己紹介の時、「私はこの部活に入ってデビスカップに出場したいです。」と、寝言のようなことを言い、先輩たちに大いに受けた。




自分で言うのも何だが、鳥取k中学校のエースにまで上り詰めた。


2年生の時の市大会の出来事だが、相手が3年生とも知らずに1回戦を勝ってしまった。

知らない生徒に「おまえら、すげーなぁ。あいつら3年生だったのによ!」と言われ、真実を知ったとたん、ガチガチに緊張してしまい、次の試合では同級生だったのに負けてしまう。



「ガラスのエース」と呼ばれるようになる。

そう、相手を知らずに対戦すると勝つのだが、「おめーらスゲーな。あいつらこの前の市大会で3位だった奴らだぜ!」なんて聞くと、「俺たちと試合しないか?」(・・・市大会1位のペアに申し込まれ)結果はおわかりだろうが、負けてしまう。



 そんな、自分は何が得意で何を生かせばよいかわからない中学時代も終わりかけの3年生3学期のある時。


 同じクラスのひとみチャンとなぜが相思相愛の仲になった。


なぜだかわからないが、仲間からも いいなー といわれる「さわやかカップル」になっていた。



 そんな卒業間近な頃、「おい!、引っ越すぞ!」「今度は岡山?」


「ピンポーン 正解!」(父親)


鳥取の恋は、右手を高々と挙げて白ウサギに背を向け遠ざかる大国主命(おおくにぬしのみこと)のように通り過ぎてしまった。


 さて、この頃、流行していたものと言えば、「ラジオ」である。しかもカセット付きのものが大変もてはやされた。



ブランドは、ナショナル、アイワ、ソニーなどである。

すごいシェアーを誇っていたのがナショナルで、ラジオだけなら「クーガー」という、ごっついアンテナが付いていたラジオがヒット。カセット付きは「ナショナルマックGT」といって、マイクで電波が飛ばせるものが大流行であった。


 テレビでは、中学生を熱狂の渦に巻き込んだ「ローラーゲーム」。
東京ボンバーズという、日本に強いチームがあって、ニューヨークチーフスと因縁の対決をやっていた。



ルールは簡単。一週100メートルほどのトラックをローラースケート(知ってる?)で時速40キロ以上で走りまくる。

ジャマーと呼ばれるヘルメットをつけた2人が、時間以内に、相手チームを何人抜きさるか?(抜いた人数だけ得点になる)。

要するに鬼ごっこのようなルールである。しかし、抜かれまいとして、ヘッドロックをしたり、ラリアットをしても良い。プロレス技をかけてもいいという、今やったらまた流行りそうなスポーツなのである。


男子チームに ミッキーと呼ばれる牛若丸のように身軽な選手がいて、もう勝てない!と誰もが思った頃に大逆転をしてくれたりした。


また、女子には佐々木ヨーコという選手がいて、女性なのにむちゃくちゃ強くて(美しくて)当時の中学生は、放送翌日の月曜日ともなると、みんな熱く語っていたと思う。


ドラマでは、「探偵物語」松田優作・主演である。これはDVDにもなっているから省きます。


アニメでは日本アニメを世界に知らしめた「宇宙戦艦ヤマト」であるが、これは、本放送の時(日曜日の夜7:30)は、他局に強力なライバルがいたため、


視聴率は10パーセントを切っていた。(NHKの減点パパ・猿の軍団などに押されていた)


ところが、本放送から2年が過ぎた頃、再放送(夕方4時)の視聴率が信じられないくらい上がってしまい、映画作成だのサウンドトラック発売だの「ヤマト現象」が起きてしまった。


(以後、ガンダム現象、マクロス現象、エヴァ現象と続く)


我が人生の3分の1ほどを紹介しましたが、とにかく長いですね~


実は、この中にも超オカシな体験をしているので 今後は小出しに







回顧録としてアップします。



もちろん ショートでね



ここまで読まれた方。お疲れ様でした。



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3月です・・・春です!

3月ですね・・・

リッキーパパにとって3月は春の始まりで、ワクワクする時期です。



この時期は昭和の歌謡曲に名曲が多い・・・と私的には思っている。



まずは、天地真理の『水色の恋』

♪ さよならの 言葉さえ 言えなかったの
  白雪姫 みたいな 心しかない私
  遠く去って 行く人に 涙だけが
  ひとしずく ひとしずく 飛んでゆくの

  あの人に さよならを 言わなかったの
  さよならは お別れの言葉だから
  あなたの姿 あなたの声は
  いつまでも私の 思い出に


メルヘンですね。

白雪姫みたいな心・・・・

  今の若い人たちには理解できないでしょうね~


何?それ! 意味不明~ぃ


きっとこう言うでしょうね。


次に 春と言えば 尾崎亜美


『マイ・ピュア・レディー』

♪ ちょっと走りすぎたかしら
  風が吹いていったわ
  やっぱり頭のうえは ブルースカイ
  たった今 気づいたの 今日のあなたに似合っている
  いつもと おんなじ口笛
  あっ 気持ちが 動いてる
  たった今 恋をしそう
  ダイヤルしようかな
  ポケットにラッキーコイン
  ノートに書いた テレフォンナンバー
  たった今 気づいたの 今日の私に似合ってる
  ショーウィンドゥに写った街
  あっ 気持ちが 動いてる
  たった今 恋をしそう

このCMは衝撃的でした。

小林麻美が長い髪をバッサリ切って ショートボブになって

ホットパンツだったかなぁ~

はいちゃって 陸上競技のようなスタートダッシュを魅せているCM


ファンでもないのに夢中で見てしまいました。



で、この当時の 尾崎亜美 は 16才だったと思います。





天才!


どうして こんなセンスのいい歌詞や曲が書けるのか?




次は 南野陽子の『話しかけたかった』


♪ 風が踊る5月の街で
  輝いてる彼を見かけたわ
  視線だけで追うアーケイド
  ホントはついて行きたいの

  ずっとあこがれてたから
  いつか振り向かせたい人

  駆け寄って話しかけたかった
  気をひきたかった 無邪気なフリして

  綺麗と思われたかった
  だけど追えなかった
  はねた髪


そうなのだ、髪がはねていたから 恥ずかしくって 彼の前に出れなかったのだ。



こんな奥ゆかしい女性は減ってしまったように思う。


いないわけではないが、自分の思いだけを前面に出してしまう女性が

増えすぎてしまったと思うのだが



私だけ?
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ロング・ロング(最後まで読めるかな?)


昔のお正月の遊びといえば・・・
リッキーパパの少年時代は、50円玉を握って(しかも、磁石でくっつく50円玉)駄菓子屋に走り、30円のやっこ凧と10円の凧糸を2つ買って、マッハのスピードで家に帰り、新聞紙を細長く切り、手と足をつけて、糸巻きに凧糸をつけてスタンバイOK。


 我がふるさとの尾道は、い草の畑が多いので、冬場はただの空き地になることが多い。
そこは子どもたちの遊ぶための設備となる。
三角ベースや石蹴り、ビー玉遊びやミニゴルフ、銀玉鉄砲を使ったコンバットゲーム、チャンバラ、想像力次第で何でもありのアミューズメントに早変わりしていました。


 そこで凧揚げをしていると、誰かがよってくる。数分、その少年たちは、うらやましそうに眺めていたかと思うと、さっと家の方に走り、しばらくすると凧を持ってくるのである。


だいたい、この頃の凧と言えば、その年流行したマンガのキャラクターが描かれていた。もちろんオーソドックスにやっこさんを描いたものもあったが・・・

キャラものは10円の凧に多かったと思う。主に男の子向けであったが。

(いっておきますが、現在のビニール製の凧とは違い、当時は竹ひごに紙が貼ってある『純和風』の凧のことを凧といい、現在の凧は『洋風』で、初めは『ゲイラ』といって1つ2000円もしたと思う。しかも、コマーシャルまでして。そのキャッチコピーが『真上に跳ぶ凧』であった。)


 しばらくすると、まわりは凧揚げの子どもたちでいっぱいとなる。

しかも年齢層は自分よりもずいぶんと年下のガキンチョばっかり。
こうなると妙に恥ずかしくなるもので、仕方なく、糸を巻きながら凧を降ろし、最高の凧揚げポイントへと移動する。

そこは






そう、山の上である。


ここからあげると町の家々の頭上に凧がゆうゆうと飛んでいくので爽快感が違う。私は、山に行くことを家の者にひとこと告げて上り始める。


(ちなみに、ここは現在 備後広域公園となり、陸上競技場や温水プール、家族で遊べる公園などがドカーンとあるところなのだが・・・)


そこで、しばらくあげていると、4つ年上の兄と、いとこたち(総勢5名)が上ってきた。手には思い思いの凧をもって・・・

兄の凧は10円のヤダモンのキャラのものであった。

10円の凧は、ほとんどの子どもたちがパスする代物で、不良品が多く、まっすぐ上がらなかったり、背中のひごがすぐに折れたりして、実に確実性のない凧であった。

おまけに一回り小さい。

子どもたちの間には、高いものがいいもので、安いものは悪いもの。と、相場が決まっていた。10円凧を買う奴は小遣いがない奴ぐらいに思っていた。



その、キャラものに長い長いしっぽを1本つけて、両手の部分は省略して得意げな顔をして兄貴は持ってきたのだ。


お金がないのかと思いきや、そうではなく、兄貴は凧糸に命をかけており、何十円かけたのかは分からないが、すごい長さになっていた。



いとこの凧は、これもオーソドックスな四角の凧。赤色に黒の墨で『龍』と書いてある。両足は長く、実にバランスがいい。


もう一人のいとこは、普通の奴凧なのだが、糸巻きが変わっており、釣り竿にリールをつけてまるで魚釣りのように操っている。

(これはいい方法です。お試しください。)

 ここで、負けず嫌いな少年リッキーパパは

(当時はね、そう思ってたけど。今は負けるが勝ち!だよ)
駄菓子屋に走って、30円の糸巻きを購入。

これは、凧の力で糸が出るときはフリーに糸巻きが回転し、止めたいとき(たぐりあげたいとき)←(このテクニックが分かるかな?)は、糸巻き押さえの棒をスライドさせる。まぁ巻き取りの聞かない裁縫道具の巻き尺のようなものです。




 さて、こいつを使って凧をぐんぐん上へ上げていったのですが、どの凧もしっかり揚がっているので、あとは糸の長さがものを言う。


 私の凧は50メートルなのだが、いとこの竿の凧は100メートル。これには参った。






しかし、それらの凧よりもひときわずーーーーーーーっと遠くに上がっている米粒のような凧がひとつ。


 そいつは、長いしっぽを一本ぶら下げた、10円のキャラものなのだ。
しっかりととんがった角、丸い大きな目玉、口からペロッと出した舌、おなかのポケット、カワイイしっぽ。紛れもなく

『ヤダモン』


 そう、兄貴の凧だった。こちらの予想を遙かに超えて、その凧は300メートルも飛んでいた。


現在地が竹屋の山なので、となりの川上まで届いているのではないか?

誰もがそう思った。どの辺まで糸がのびているのか見るために私は山を一度下りて、凧の様子をうかがった。


 なんと、間違いなく山裾の川上まで届いているように見えたのだ。これはスゴイ!。もう一度上って兄貴に知らせよう。


 息せきかけて、頂上に登って『あのね~川上の』まで言い終わらないうちに







『ブチッ』



なんと、ヤダモンは長い凧糸を引きずりながら、米粒からノミのようにどんどん遠ざかっているではないか・・・


 兄貴の手元から約10メートル先の糸が切れてしまったのである。あわてて追いかけるが目の前の松の木がじゃまでそれ以上追えない。







兄貴から鬼のような命令が下る。




『おい!。凧取ってこい。』(エーーーーーーーーーーーッ)



まさに、鬼である。正月の風に乗った凧を持ち主でもない自分がなぜ?と自問自答することさえ許されない雰囲気を醸し出しているので、ここは一応取りに行くふりでもしておこう。



 一目散に山を駆け下り、道路に出てしばらくは追ってみたが、ノミのようになったヤダモンはとうとう、星くずになってしまいました。

しかも、山の頂上の高さを保ったまま。

今思えば、
芸術的ともいえる凧の飛翔でした。



凧糸は斜めにダラーンと垂れ下がってはいるものの、決して地面には着いておらず、一定の高さを保ちながら川上から栗原を超え、あの方向から考えると千光寺の方向へ飛んでいったと思われる。




千光寺を越えたら尾道水道を越えて、向島、その先の四国まで飛んでいったかな?


兄貴の10円凧は、当時の私たちにもたらしたミラクルであり、今や伝説となってしまった。
10円の安物と笑うべからず! 工夫次第で30円の凧をも越える。

みんなも凧揚げに挑戦しよう。
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