北海道大学時代の八木(19歳)は、ドストエフスキー全集を読破し、ドストエフスキー
の魔力に取り憑かれた。これを契機としてロシア語を学習し始める。「日本語の翻訳で読
んでさえこんなにおもしろいのだから、それを原語でよめたらどんなにすばらしいだろう
と思ったのだ」(出典:「私の文学」北苑社)。ロシア語の講習会にも出席し、簡単な文
章なら、日本語のルビなしで読めるようになっている。そんな折、八木は昔下宿が同じた
った李元成氏(朝鮮人の留学生)と偶然再会する。李元成氏は左翼運動の活動家であり、
八木は影響を受け、社会科学に目を向けることになる。
しかし左翼思想を「現実の社会の具体的事実として、いわば肉体的に理解」したのは、級
友の酒井悠氏との樺太の旅が大きなきっかけとなっている。八木が20歳の時である。八木
と酒井氏は新問(ニイトイ)で一文無しになり、宿代弁済のために約1ヵ月間鮭鱒缶詰工場
に売られてしまう。この時に、東北から出稼ぎにやってきた貧しい農民の生活を知ることに
なり、この八木の体験が、説明する必要はないと思うが、師匠の横光利一氏に初めて認めら
れた「海豹」のベースになっている。その後、八木は李元成氏との交遊を特高刑事に嗅ぎつ
けられ、政府の左翼弾圧の強化とともに退学処分となる。4ヵ月後に満州事変が勃発してい
る。
放校になった八木は進路も決めないまま上京し、偶然逍遥していた神田の喫茶店で『ロ
シヤ語講習会』のポスターを目にする。「その下に、課外講座として『プロレタリア文学講
座』と書かれている。そして、その講師として『小林多喜二、中條百合子、窪川いね子その
他』という活字が眼にとびこんできた。思わず、はっとした。中條百合子、窪川いね子は名
前だけは知っていたが、作品はまだ読んだことがない。しかし小林多喜二となれば、あの
『蟹工船』も、『一九二八年三月十五日』、『東倶知安行』も、『不在地主』も、『工場細
胞』も、『オルグ』も、みな読んでいる。ことに『一九二八年三月十五日』のあのすさまじ
い拷問の描写は、私をひと晩じゅう眠らせなかったほどの恐怖と興奮をあたえたものだ。小
林多喜二という名前は、おなじ北海道人である私にはとくべつ親しいものだった。即座に私
の心は決まった。『よし、この講習会に入ってやろう』」(出典:「私の文学」北苑社)。
そして、八木はロシア語講習会の初級に週3回通い始め、課外講座としての『プロレタリア
文学講座』において、小林多喜二を目の当りにすることになる。「小林多喜二は、茶色の大
島の着物に対の羽織という姿で壇上に立った。小さな人だった。すこしカン高い調子でもの
を言う人だった。額にたれさがる髪をいちいち神経質にかき上げる人だった。そして、とき
どき恥ずかしそうな微笑をみせる人だった。『これがあの“蟹工船”の作者なのか?これが
あの怖しい“一九二八年三月十五日”を書いた人なのか』 信じられなかった。作品と作者
の印象があまりにちがっていた。私は小林多喜二の顔ばかり眺めていた。-彼のあの悲劇的
な死は、それから二年後、昭和八年二月二十日のことであった。」(出典:「私の文学」北
苑社)
小林多喜二との邂逅後、八木の運命は大きく変わっていくことになる。八木の人生に大き
な影響を与えた人物の一人といってよいのかもしれない。しかし有島武郎によって文学に開
眼し、ドストエフスキーによって文学に魂を揺さぶられたからこそ、小林多喜二との出会いが意味を
持ったのだと推測される。
だが、そこに到るまでに八木に何らかの深慮があったとは考えづらい。無目的のアクションあって、
八木は変容していったと換言してもよいだろう。生前八木は「私は軽薄な人間だ」と、ことある
ごとにいっていた。筆者がそう思わないといい張ったとしても、八木はそういう自己認識を
持っていたことは事実だろう。だが、損得勘定のない「軽薄」なアクションが後々無駄なく
悉く意味を持つことになる。この事実は驚嘆に値すると筆者は思う。
小林多喜二は、いわずと知れたプロレタリア文学戦旗派を代表する作家の一人であり、八
木と同じように有島武郎(特に「カインの末裔」)、ドストエフスキーに影響を受けている。ド
ストエフスキーに関しては、日記の中で「自分は、極く自然に、理論からも、好みからでもなく、地の
まゝに、フィリップに近く、ニーチェに近い。だから自分としてはドストエフスキーが好きでならないん
だ」と書いているほどだ。小林多喜二は八木と同時代を共有した、あるいは、生きた作家とい
うことも出来る。ロシア語講習会が開かれたお茶の水の「文化学院」の教室という空間に
全く同時に間違いなく二人は「いた」のである。だが八木は唯物論と弁証法に基づく思想
としての左翼理論に傾倒していたとはいい難い。それに近いことを八木は生前、筆者らに
語ったことがある。むしろ八木は小林多喜二のようなプロレタリア文学の作家たちの命を
懸けた生きざまにシンパジーを覚えたのではなかろうか。そんな気がしてならない。
補足しておきたいが、フィリップは八木の推薦する作家の一人であった。
(了)
の魔力に取り憑かれた。これを契機としてロシア語を学習し始める。「日本語の翻訳で読
んでさえこんなにおもしろいのだから、それを原語でよめたらどんなにすばらしいだろう
と思ったのだ」(出典:「私の文学」北苑社)。ロシア語の講習会にも出席し、簡単な文
章なら、日本語のルビなしで読めるようになっている。そんな折、八木は昔下宿が同じた
った李元成氏(朝鮮人の留学生)と偶然再会する。李元成氏は左翼運動の活動家であり、
八木は影響を受け、社会科学に目を向けることになる。
しかし左翼思想を「現実の社会の具体的事実として、いわば肉体的に理解」したのは、級
友の酒井悠氏との樺太の旅が大きなきっかけとなっている。八木が20歳の時である。八木
と酒井氏は新問(ニイトイ)で一文無しになり、宿代弁済のために約1ヵ月間鮭鱒缶詰工場
に売られてしまう。この時に、東北から出稼ぎにやってきた貧しい農民の生活を知ることに
なり、この八木の体験が、説明する必要はないと思うが、師匠の横光利一氏に初めて認めら
れた「海豹」のベースになっている。その後、八木は李元成氏との交遊を特高刑事に嗅ぎつ
けられ、政府の左翼弾圧の強化とともに退学処分となる。4ヵ月後に満州事変が勃発してい
る。
放校になった八木は進路も決めないまま上京し、偶然逍遥していた神田の喫茶店で『ロ
シヤ語講習会』のポスターを目にする。「その下に、課外講座として『プロレタリア文学講
座』と書かれている。そして、その講師として『小林多喜二、中條百合子、窪川いね子その
他』という活字が眼にとびこんできた。思わず、はっとした。中條百合子、窪川いね子は名
前だけは知っていたが、作品はまだ読んだことがない。しかし小林多喜二となれば、あの
『蟹工船』も、『一九二八年三月十五日』、『東倶知安行』も、『不在地主』も、『工場細
胞』も、『オルグ』も、みな読んでいる。ことに『一九二八年三月十五日』のあのすさまじ
い拷問の描写は、私をひと晩じゅう眠らせなかったほどの恐怖と興奮をあたえたものだ。小
林多喜二という名前は、おなじ北海道人である私にはとくべつ親しいものだった。即座に私
の心は決まった。『よし、この講習会に入ってやろう』」(出典:「私の文学」北苑社)。
そして、八木はロシア語講習会の初級に週3回通い始め、課外講座としての『プロレタリア
文学講座』において、小林多喜二を目の当りにすることになる。「小林多喜二は、茶色の大
島の着物に対の羽織という姿で壇上に立った。小さな人だった。すこしカン高い調子でもの
を言う人だった。額にたれさがる髪をいちいち神経質にかき上げる人だった。そして、とき
どき恥ずかしそうな微笑をみせる人だった。『これがあの“蟹工船”の作者なのか?これが
あの怖しい“一九二八年三月十五日”を書いた人なのか』 信じられなかった。作品と作者
の印象があまりにちがっていた。私は小林多喜二の顔ばかり眺めていた。-彼のあの悲劇的
な死は、それから二年後、昭和八年二月二十日のことであった。」(出典:「私の文学」北
苑社)
小林多喜二との邂逅後、八木の運命は大きく変わっていくことになる。八木の人生に大き
な影響を与えた人物の一人といってよいのかもしれない。しかし有島武郎によって文学に開
眼し、ドストエフスキーによって文学に魂を揺さぶられたからこそ、小林多喜二との出会いが意味を
持ったのだと推測される。
だが、そこに到るまでに八木に何らかの深慮があったとは考えづらい。無目的のアクションあって、
八木は変容していったと換言してもよいだろう。生前八木は「私は軽薄な人間だ」と、ことある
ごとにいっていた。筆者がそう思わないといい張ったとしても、八木はそういう自己認識を
持っていたことは事実だろう。だが、損得勘定のない「軽薄」なアクションが後々無駄なく
悉く意味を持つことになる。この事実は驚嘆に値すると筆者は思う。
小林多喜二は、いわずと知れたプロレタリア文学戦旗派を代表する作家の一人であり、八
木と同じように有島武郎(特に「カインの末裔」)、ドストエフスキーに影響を受けている。ド
ストエフスキーに関しては、日記の中で「自分は、極く自然に、理論からも、好みからでもなく、地の
まゝに、フィリップに近く、ニーチェに近い。だから自分としてはドストエフスキーが好きでならないん
だ」と書いているほどだ。小林多喜二は八木と同時代を共有した、あるいは、生きた作家とい
うことも出来る。ロシア語講習会が開かれたお茶の水の「文化学院」の教室という空間に
全く同時に間違いなく二人は「いた」のである。だが八木は唯物論と弁証法に基づく思想
としての左翼理論に傾倒していたとはいい難い。それに近いことを八木は生前、筆者らに
語ったことがある。むしろ八木は小林多喜二のようなプロレタリア文学の作家たちの命を
懸けた生きざまにシンパジーを覚えたのではなかろうか。そんな気がしてならない。
補足しておきたいが、フィリップは八木の推薦する作家の一人であった。
(了)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます