1933年(昭和8)のある日、村山籌子が長男亜土を連れて、村山知義が服役している豊多摩刑務所(のちの中野刑務所)へ面会にやってきた。
当たりさわりのない会話の最中に、息子の亜土が父親へキャラメルを渡そうとする。
刑務官が怒声をあげて静止する中、村山籌子はドサクサにまぎれてバックの裏側を、夫が見える位置にかざした。
そこには、チョークで書かれたカタカナの文字が並んでいた。
村山亜土は『母と歩くとき』にその時の情景を描いている。
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看守が立ち上がり、「だめだ、だめだ!」と手を振った。
私が立ちすくむと、母が私をうしろ抱きにして、ハンドバッグを私の胸に押しあてて、じっと静止した。
そのイギリス製のハンドバッグは、母が自由学園の学生の頃からのもので、やわらかい黒皮、縦二十センチ、横三十センチほどであった。
それを見て、父の目がカッと大きくなり、宙を泳ぎ、暗く沈んだ。
母はわざと、本や、下着や、弁当の差し入れについて早口に話していたが、ハンドバッグには白墨でこう書いてあったという。
「タキジ コロサレタ」
当たりさわりのない会話の最中に、息子の亜土が父親へキャラメルを渡そうとする。
刑務官が怒声をあげて静止する中、村山籌子はドサクサにまぎれてバックの裏側を、夫が見える位置にかざした。
そこには、チョークで書かれたカタカナの文字が並んでいた。
村山亜土は『母と歩くとき』にその時の情景を描いている。
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看守が立ち上がり、「だめだ、だめだ!」と手を振った。
私が立ちすくむと、母が私をうしろ抱きにして、ハンドバッグを私の胸に押しあてて、じっと静止した。
そのイギリス製のハンドバッグは、母が自由学園の学生の頃からのもので、やわらかい黒皮、縦二十センチ、横三十センチほどであった。
それを見て、父の目がカッと大きくなり、宙を泳ぎ、暗く沈んだ。
母はわざと、本や、下着や、弁当の差し入れについて早口に話していたが、ハンドバッグには白墨でこう書いてあったという。
「タキジ コロサレタ」
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