
愛国第11長岡号
1932年2月に飛行機献納の計画が発表されると、市民の戦争熱を利用したこの運動は盛り上がり、5万円を超える金額が集まりました。献納飛行機の命名式は4月10日に東京代々木の練兵場で行われ、飛行機は「愛国第11長岡号」と名付けられ、翌日、長岡への訪問飛行しました。
写真は、1932年4月10日代々木練兵場での愛国第11(長岡)号。
1932年2月に飛行機献納の計画が発表されると、市民の戦争熱を利用したこの運動は盛り上がり、5万円を超える金額が集まりました。献納飛行機の命名式は4月10日に東京代々木の練兵場で行われ、飛行機は「愛国第11長岡号」と名付けられ、翌日、長岡への訪問飛行しました。
写真は、1932年4月10日代々木練兵場での愛国第11(長岡)号。
」と内々に人に告げていたそうです。
1945年7月頃になると、「この頃、死相の顔をした人が減っている。戦争は終わりそうだ。」とも、語っていたとか
。」
坂井三郎(零戦パイロット、撃墜王)氏も、入隊面接に占い師が来ていたことを記しています。
長岡は山本五十六の出身地なので、その関係でのネーミングだったのでしょうか。
(気の毒なことに1945年7月、新潟県長岡市はアメリカ軍B29爆撃隊の大空襲を受けています。アメリカ軍が長岡を襲った理由は、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六の故郷だったからからだと言います。坊主憎けりゃ・・何とかと言いますが、アメリカ軍の非道性の一面が窺えます。山本五十六は当時、もうこの世の人ではないことをアメリカは知っており、戦争の趨勢も決まりかけていたのに、こうした残虐行為を行っていたのです。)