goo blog サービス終了のお知らせ 

山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

山に生きる人びと

2025-04-10 09:16:55 | 山の本棚

山に生きる人びと/日本民衆史2
(宮本常一著、1968年6月20日第2版、未来社)

山中の道を歩いていて、いったいここを誰が通ったのであろうと思ってみることがある。地図にも出ていない道であるのだが、下草におおわれながらもかすかにそこを何人かの人が通りすぎたあとがのこされている。人の歩いた部分はややくぼんでいて、草も生えていないか、生えていても小さい。木も道の上の空間はそれほど枝をさしかわしていない。といって一日に何人ほどの人が通るのであろうか。そういう道を歩いていると草が茂り木が茂って、とだえてしまっていることも多い。それからさきは人も行かなかったのであろうか。それとも雑木や雑草がうずめつくして通ることすらできなくなってしまったのであろうか。(「一 塩の道」より)

こうした山中の道は、近代となって登山者の通うようになる以前は、いったいどのような人びとが通っていたのか。本書の各章のタイトルを掲げてみると以下のようになる。

一 塩の道、二 山民去来の道、三 狩人、四 山の信仰、五 サンカの終焉、六 杣から大工へ、七 木地屋の発生、八 木地屋の生活、九 杓子・鍬柄、一〇 九州山中の落人村、一一 天竜山中の落人村、一二 中国山中の鉄山労働者、一三 鉄山師、一四 炭焼き、一五 杣と木挽、一六 山地交通のにない手、一七 山から里へ、一八 民間仏教と山間文化

山の道
(宮本常一著、2006年11月27日、八坂書房)

山のあなたの空遠く
幸棲むと人のいう
あゝ われ人と尋(と)めゆきて
涙さしぐみ帰り来ぬ
山のあなたのなお遠く
幸棲むと人のいう

というカール・ブッセの詩がある。重なりあう山のあなたに、すばらしい世界があると思い続けて来たのは、フランスの詩人だけでなく、山のこなたに住む者の共通した夢ではなかっただろうか。
 目の前にたたなわる山に分け入る道があれば、人はそこを辿って山の彼方を見ようとし、時にはまた異国の人がその道を辿ってやって来ることもあって、山の彼方に人の住む世界のあることを知り、何とない安堵と山の彼方への期待をおぼえたものである。と同時に山の中にもいろいろの人生のあることを知った。(『山の道』秘境に託す夢)

山の仕事、山の暮らし
(高桑信一著、2013年3月5日、ヤマケイ文庫 ※元本(単行本)2002年12月31日、つり人社刊)

宮本常一の『山に生きる人びと』の初版が刊行されたのは、東海道新幹線が開通し東京オリンピックが開催された1964年(『三丁目の夕日』の時代)で、山中には宮本の描く近代以前の「山に生きる人びと」の残滓らしきものが残されていた。それから40年経って高桑の拾った「山の仕事、山の暮らし」はゼンマイ採り、山椒魚採り、シカ撃ち、蜂飼い、ワカン作り、炭焼き、漆掻き、などであったが、その大半は既に山中の「暮らし」ではなく、里から山へ通うという形に変わっていった。

当初の狙いは、山中で暮らしながら仕事をする人々だったのが、時の流れにつれて不可能になっていった。山中に暮らすのは、それを願ったからではなく、そうせざるを得なかったからである。歳月を追って車道が奥地に延び、いつしか彼らは、里の家から山の仕事場に通うようになっていた。それでも、山の仕事は櫛の歯が欠けるように滅んでいった。(中略)街から里へ、郷から山へと、グラデーションのようにして営みの連鎖がつづくものと信じていたが、山と里が乖離してしまった以上、山の仕事は、それ自体が独立した存在になってしまった。私が探し求めたのは、里との絆があってはじめて成立する山の仕事であった。(「文庫本のためのあとがき」より)

それからさらに20年余が過ぎた。
「古代、ヒトは山に暮らした。生活の糧を得るには、海辺よりも山のほうが住みやすかったからだ。それが弥生時代に稲作がもたらされることによって、ヒトは次第に里に降りていった。文明の発達にともなって、これからも人間はますます山を捨て、保全や管理と称して、機械力で自然を意のままにしようとするだろう。けれどいつかは知らず、科学の最先端を希求するひとびとが増えるつれて、二極分化のようにして原生の森を生活の糧として見直さなくてはならない時代が必ずくる、と私は固く信じている。」(「おわりに」より)


地名の本

2024-11-04 16:00:57 | 山の本棚

民俗地名語彙事典

(松永美吉著・日本地名研究所編、2021年4月10日、ちくま学芸文庫)

登山地図や山間地などの地形図を眺めていると、独特の地形名や変わった地名を目にすることがある。例えば水窪河内川最奥の山住峠麓には「河内浦(kouchiure)」集落がある。同じく青崩峠の麓となる水窪町奥領家の翁川上流部は「西浦(nishiure)」と呼ばれ重要無形民俗文化財指定の田楽が催される。[浦(ure)]とはどういう意味を持った地名なのか。なぜ山中の水窪に浦があるのか。本書を引いてみると

ウラ ① 浦は「海岸」の意にとられることが多いが、本来は海岸が入江や湾をなして入りこんでいる所をいう。西南日本ことに九州などでは、陸地に湾入した所は必ず○○裏の名があり、たんなる海岸名ではない。
 浦という語は、外浦の「表」に対して「裏」の義と解する説があるが、それよりも外浦の本通りに対して、それから分派した支湾と見るのがより適切で、ウラ(ウレと同じく末)は、本来、樹木の本幹に対して枝葉あるいは先端部(梢)を指す語であるからである。
 こうした湾入は、風波を避けて船を着ける船着場に適するので、浦の地名はまた同時に「港」の意味をもつのが普通である。(中略)
② 内陸部で、川の上流部には「川浦」の地名があり、それの変化した「川浦(kaore)」(川売と宛てた所もある)もある。これらは「川の末」(ウラ、ウレ)で川の先端、上流(川上)を意味する。
 静岡県周智郡気多村(浜松市天竜区)で川の上流をいう〔『方言』五の一〇〕。(中略)
④ (裏の転用)北。富山県福野町(南砺市)に浦町というのがあるが、これは浜の意ではなく、北の意。これに対してオモテ(表の転用)は南。礪波地方〔『礪波民俗語彙』〕。『日本の地名』では「北東」といっている。(以下略)

ウレ 静岡県安倍郡(静岡市)で、高山の絶頂に近い所をいう。木の梢などをウレ、ウラというのと同じく、地名にも水上をミウレ、沢奥をサウレ(渓の奥)などといい、岐阜県吉城郡(飛騨市)では、村里の奥の方または辺鄙の里をいう〔『山村語彙』、『全辞』〕。奥の方、高い所。ウラの転(嬉野、宇礼保、嬉垣内、嬉河内、宇霊羅山)〔『日本の地名』〕。

なるほど、「奥」「末端」「どんづまり」の地形の意で[うれ]の音が地名となっているのだと解釈ができる。とすると奥三河鳳来の「宇連山(ureyama)」やその西麓の「川売(kawaore)」も同様の意からの地名だろうと関心が広がる。

本書「(付録)はじめに」の中で著者・松永美吉は、地名について次のように述べる。

一、人は、当然のことながらこの大地の上に生活を営み、「われここにあり」とて他人に知らせて互いに交通する。その存在を示すにはできるだけわかりやすいのが得策である。
 人々の生活が複雑になり、人間が多くなると、地形名ばかりを頼りにするわけにはいかなくなる。そこでいろいろと地名を発明して、その所在を示すことになる。
 つまり、地形名は地名発生の最初の段階であるとみるべきである。そして地名は、共有のものである以上、広く容易に理解されるべきものでなければならない――これは一般の言語と何ら変ることはない。

私が山を歩くのは、自然を愛でるためだけではない。その土地に関わり暮らした人々の営為を確かめるためでもある。「わずかな土地にそそがれた鹿の血ほどの人間の一生でさえ語りがたい。ましてかず知れぬ人間の営為をしたたかに吸いこんだ土地の名前は、一口で語りつくせないものを、私たちに伝えようとしている」(谷川健一)のである。

日本の地名

(谷川健一著、1997年4月21日、岩波新書)

このかず知れない地名を見ていくことで、どのような日本列島の歴史が見えてくるのか。谷川健一はフォッサマグナに沿った各地の地名を挙げていく。

 水窪町はかつて焼畑のさかんなところであった。焼畑は山の傾斜面を利用し、また耕作地を一時放棄して休閑地にするところから、ソラス(ソリ)、アラス(アラシ)という語が生まれた。水窪町の大嵐(おおぞれ)という開拓集落は、かつて大崩壊を経験しているという。同町には大嵐(おおあらし)という地名もある。アラシやソリの地名は関東、中部の山間部を中心に全国に分布している。このほか夏焼(なつやけ)とか焼山(やけやま)も焼畑に関連する地名である。(中略)信、三、遠の国境近くに焼畑地名が多いことから、これまであまり検討されてこなかった焼畑の文化史の可能性が見えてくる。(第二章「地名と風土」より)

「瑞穂の国」平地=稲作に対する、山地=焼畑・狩猟を軸としたもう一つの文化史、けして単一でない多様な日本列島の歴史・文化が地名の分布から垣間見られるということだ。

 各地のさまざまな呼称をもつ小集落地名は、数戸から数十戸単位の集落がかつての日本の社会の基底を形成していたことをさまざまと物語っている。それが日本列島の端から端まで隙間もないほど埋め尽くしている。それは「日本は何と広く、何と深い国であろう」という詠嘆を込めた感慨を導くのに充分である。地名はこのように「いと小さきもの」であるが、一方、それは大きな世界とつながっている。ここに地名の逆説があり、それこそが地名の最大の魅力である。
 本書は、その具体例として、日本列島をとりまく自然環境の中で、もっとも大きな特徴を示す黒潮の流れと、日本列島を横断する中央構造線(メディアン・ライン)に地名がどのように関わっているかを見ることにした。(「はじめに」より)

地名の原景

(木村紀子著、2023年10月13日、平凡社新書)

冒頭に話題とした「浦」(海岸の)地名について本書では、

 神代の昔から続くという古代の「浦」とは、要するに「海人(あま)の拠点(集落)」のこと、今の言葉で言うなら入り江や遠浅の砂浜沿いに広がる漁師町のことである。万葉集には出ない、関東の「霞ヶ浦」「勝浦」(千葉)や「三浦半島」(神奈川)、能登半島の「福浦」、など、往古の面影を偲ばせる「浦」も各地に残っている。東京湾端の「浦安」は、いつの時点での命名かは不明だが、日本書紀によれば、その昔イザナギの命が、この国を名づけて「日本(やまと)は、浦安(うらやす)の国云々」と言った(神武紀三十一年)ともある。(中略)
 「浦(うら)」とは、はるか大昔、王城の地を言うに相応しい豊饒の響きを持った言葉であった。近年の辞書類の言うような、単なる「入り江・湾」などの意ではありえない、おそらくその解は、浦が寂(さび)れ果てた時代の、「見渡せば花も紅葉もなかりけりの苫屋(とまや)の秋の夕暮れ」(定家)といった歌などからの、漠然とした印象にもとづく推測なのかと思われる。(「Ⅰ日本列島の原景語」より)

と主に言語学、古典文献での用例から地名の原景を探っていくのであるが、それは帯文とは裏腹に文字を操った人々(平地=稲作を主体とした文化)の見た景、自然環境の解釈が色濃いのではないのかという疑念は残った。

 列島上の、野にも山にも里にも川辺・海辺にも、星の数ほど無数に貼りついている地名の一つ一つには、誰とも知れぬ初発の声が響き、半ば無意識に呼び続けてきた人々の声が響き合って今に遺っている。本書は、そもそもそうした原初の地名の〈声〉が、この列島上ならではという自然環境の中で、どのような生まれ方をしたかの一端を探る、ささやかな試みである。(「はしがき」より)

山名の不思議

(谷 有二著、2003年8月10日、平凡社ライブラリー)

○「やま」の文化、「サン」の文化 ○大菩薩峠の下半身と上半身 ○穂高岳と海の民・安曇族 ○駒ヶ岳とは何か etc.
いかにも登山者の興味を惹きそうなタイトルが並ぶが、けして言葉尻に捉われた後付けの伝承や思いつきの類の話ではない。アイヌを含む東アジア史の中から山名の謎を追い求め、壮大かつ緻密な回廊に迷うことの楽しさを体験する。登山が文化的遊びであることの魅力に満ちている。

山名の読み方 - 山の雑記帳

続・山名の読み方 - 山の雑記帳


北八ッ彷徨

2024-10-29 08:40:00 | 山の本棚

2001年10月発行・平凡社

北八ヶ岳というと苔の森と湖沼のイメージがあるが、白駒池や北横岳あたりは今やすっかり観光地化してしまい、静寂という言葉とは少し距離があるように思える。かつての「北八ッ」の森を彷徨ってみたい、そんな好奇心から本書を手にしたように覚えている。

 南八ヶ岳を動的[ダイナミック]な山だとすれば、北八ヶ岳は静的[スタティック]な山である。前者を情熱的な山だといえば、後者は瞑想的な山だといえよう。
 北八ヶ岳には、鋭角の頂稜を行く、あの荒々しい興奮と緊張はない。原始の匂いのする樹海のひろがり、森にかこまれた自然の庭のような小さな草原、針葉樹に被われたつつましい頂や、そこだけ岩魂を露出しているあかるい頂、山の斜面にできた天然の水溜りのような湖、そうして、その中にねむっているいくつかの伝説――それが北八ヶ岳だ。言ってみれば、ドイツ・ロマン派や北欧の文学のもつ、あの透明で憂鬱な詩情に通じる雰囲気がある。八ヶ岳本峰のはげしい岩尾根の登高に、なにか喉がかわくような疲れを感じるようになったら、気の合った山仲間の小さなグループで好きなところに天幕でも張りながら、静かで大らかなこの森の山地を歩いてみよう。
 さまよい――そんな言葉がいちばんぴったりするのが、この北八ヶ岳だ。
(「岳へのいざない」1958年)*本書旧版は1960年、創文社発行

著者・山口耀久

 ところで著者山口耀久は、敗戦後間もなくから、八ヶ岳バリエーションルートの開拓と共に、時に一週間も北八ッの地に滞在し、文字どおり隈なく彷徨しているのだが、蓼科山から望月へと下ったりもしている。『北八ッ日記』によれば、八千穂大石から入山し雨池、八丁平、大河原峠までで三日遊ぶ。一日停滞の翌日、亀甲池、双子池を巡った後、再び大河原峠に戻った山口は、

――大河原峠からいつものように、ひろびろとした佐久の裾野の斜面を眺めていると、はるかに遠く、鹿曲の谷と八丁地川上流の唐沢のあいだに、カステラ色の草原がなだらかにひらけているのが目に入った。あそこに行こう! 地図をひろげて、峠から見おろす地表の細部をそれと照合しながら、ぼくと小島は、その遠い草地のひろがりに憧れを馳せた。

のである。
 前掛山から蓼科山頂をピストンした山口は、前掛山北尾根を現在地名「虹の平」に向って下る。ここから右の尾根に入り唐沢へと降り、対岸の台地に目指す草原があった。1/25000地形図「蓼科山」では「望月高原牧場」の名が記される場所だろう。そこから目と鼻の距離の森の中に、今度の定例山行の宿泊地「望月少年自然の家」がある。下見山行の朝は、賑やかなカッコウの声で目が覚めた。
(2005年7月『やまびこ』No.100)

2013年10月発行・山と渓谷社

『アルプ』のことについては、また改めて記す機会があるだろうと思う。


日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

2024-07-24 11:47:06 | 山の本棚

2007年11月20日 講談社現代新書

【見えない歴史】1965年まで、日本人はキツネに化かされていた。なぜか?

かつては私たちの周りには“ヒトを化かす”たくさんの動物がいました。たとえばキツネ、タヌキ、ムジナ、イタチ……。そのような動物たちがヒトを化かすのは不思議でもなんでもなく、“普通の出来事”として語られていました。

内山さんよると1965年頃を境にして日本の社会から「キツネにだまされたという話が発生しなくなった」そうです。なぜこのようなことが起きたのか、それはなにを意味しているのかを問いかけたのがこの本です。

「なぜ一九六五年以降、人はキツネにだまされなくなったと思うか」と多くの人に訪ねたところいくつかの意見に集約されたそうです。
1.高度成長期の人間の変化:経済が唯一の尺度となり非経済的なものに包まれて自分たちは生命を維持していると言う感覚が失われた。
2.科学の時代:科学的に説明できないものはすべて誤りという風潮になった。
3.情報、コミュニケーションの変化:メディアの発達等でかつてあった村独自の「伝統的」コミュニケーションが喪失していった。
4.教育内容の変化:必ず「正解」があるような教育を人々が求めるようになり、「正解」も「誤り」もなく成立していた「知」が弱体化した。
5.死生観の変化:自然や共同体に包まれていることで成り立っていた生と死が個人として切り離され、自然と響き合わないようになっていった。
6.自然観の変化:自然に還りたいという祈りをとうしてつかみとられていた自然観がなくなった。
7.老ギツネがいなくなった:人工林が増え、一方で自然のサイクルであった焼畑農法も行われなくなりキツネの成育環境が変化。(だますことができると考えられていた)老ギツネがいなくなった。

つまり“近代化”によって「キツネにだまされる」環境が破壊され、過去のものとしてかえりみられなくなったのです。この“近代”が押し流していったものはなんだったのでしょうか。内山さんの思索はここから始まります。

“老ギツネ”が棲んでいた山は当時の人にとってどのようなものだったのでしょうか。内山さんは興味深い慣習であった「山上がり」というものを紹介しています。群馬県の山村の養蚕農家周辺で「昭和二十年代ころまで」あった仕組みだそうです。

養蚕農家は稲作農家と異なり、生糸という商品生産で生計をたてていました。貨幣経済が浸透し相場の変動によって「自己破産」する農家も出てきました。そのような破産した農家に対して「共同体」が行う「救済の仕組み」が「山上がり」というものでした。
――「山上がり」を宣言した者は文字どおり山に上がる。つまり森に入って暮らすということである。そのとき共同体にはいくつかの取り決めがあった。そのひとつは「山上がり」を宣言した者は誰の山に入って暮らしてもよい、というものであった。つまり森の所有権を無視してよいということである。第二は森での生活に 必要な木は、誰の山から切ってもよいというもので、ここでも所有権を無視することが許される。第三は同じ集落に暮らす者や親戚の者たちは、「山上がり」を 宣言した者に対して、十分な味噌を持たせなければならないという取り決めであった。――

山は“再生の場”でした。一種の相互扶助の仕組みとして「山上がり」があったのです。もちろんこの山には“ヒトを化かす老ギツネ”が棲んでいたでしょう。
――かつての豊かな山と、何でもできる村人の能力、最低限のものは提供してくれる共同体という三つの要素があってこそ、「山上がり」は成立したのである。――

これが「キツネにだまされていた時代」にはあったものでした。そのころは「人間観も自然観も、生命観も異なっていた」のです。
――いつの時代においても、生命は一面では個体性をもっている。だから個人の誕生であり、個人の死である。だが伝統的な精神世界のなかで生きた人々にとっては、それがすべてではなかった。もうひとつ、生命とは全体の結びつきのなかで、そのひとつの役割を演じている、という生命観があった。個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないかと思っている。――

“近代”がおとずれるまえには確かにあったこの生命観の喪失とともに“老ギツネ”は私たちの前に姿をあらわさなくなりました。豊かさと再生の場としての自然が失われていったのです。

といっても内山さんは単なる“自然賛歌”“自然に還れ”といっているわけではありません。私たちを包み込む自然が同時に“荒ぶる神”であることを忘れてはいません。また「日本の自然は一面では確かに豊かな自然であるけれど、他面ではその改造なしには安定した村も田畑も築けない厄介な自然」であることもここに記されています。そしてその自然との交流のなかで村の在り方や、宗教なども生まれてきたのです。

このような多面的な自然を失いはじめたのが1965年でした。それを象徴するのが「キツネにだまされなくなった」という“事件”です。

そしてさらに内山さんは思索を続けます。「長い間、人がキツネにだまされつづけたということは、キツネにだまされた歴史が存在してきたと考えていいだろう」と……。それは「自然や生命の歴史」であり、それに包まれた「人間史」の発見です。

ここから最後の問いが始まります、「歴史とはなにか」という問いが。ここからの内山さんの思索はぜひ読みながら一緒に考え、歩んでください。

内山さんは今までの歴史の考え方は「制度史」であり「知性による認識」のものにしか過ぎないと疑問を投げかけています。この「知性が歴史に合理性を求めた」歴史観は「発展していく歴史」というものを私たちの思考にもたらしました。

「知的合理性」では化かすキツネの存在は認められません。迷妄とみなされてしまいます。これは老ギツネのいない世界です。でもかつては化かすキツネは確かに存在していました。そう思い生きてきた人々の歴史はどう考えればいいのでしょうか。
――身体や生命の記憶として形成された歴史は、歴史を循環的に蓄積されていくものとしてとらえなければつかむことはできない。――

乱暴にいえば直線的に解される「知的合理性の歴史」とは流れが異なる「蓄積されている記憶の歴史」というものが確かにあり、その中で人々は生きてきたのです。

この身体や生命の記憶としての歴史を「見えない歴史」と名付け、「知性による歴史」に対峙させていこうというのが内山さんの思考の根本にあるものなのです。
――現代の私たちは、知性によってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった。人間がキツネにだまされた物語が生まれなくなっていくという変化も、このことのなかで生じていたのである。――

豊かさとはなにかを問いかけ、知性だけでない認識に達し、そのありようをたずねた「哲学」「歴史哲学」でもあるこの本は、地に足がついた思考、独力の思考の強さ、頼もしさを感じさせる奥深い1冊だと思います。

野中幸宏(2016.10.31『講談社BOOK倶楽部』「今日のおすすめ」)


吉田初三郎『金谷牧の原鳥瞰図』

2024-06-29 11:24:31 | 山の本棚

金谷牧の原鳥瞰図を眺める

 コロナ禍の最中にあって、近隣歩きのネタを求めた『古地図で楽しむ駿河・遠江』(加藤理文編著・2018年 風媒社)の冒頭に、吉田初三郎の鳥瞰図がいくつか掲げられていた。吉田初三郎という鳥瞰図絵師の名を聞いたのは、『やまびこ』245号(2017年9月)「地図は物語る」と題したS・Mさんの巻頭エッセイで、その時、大いに興味を覚えた。

――描かれている情報は、その場所に人を誘う目的でデェフォルメされており、ある物語を伝えてくれている感さえある。――

 全ての任意の地点が、どの方角からも同様に同等に、すなわち等距離に描かれる地形図とは全く逆に、鳥瞰図には主観的な視点(目的)が存在するから、図の中心にはその視線の先、すなわち目的の核心が描かれることになる。そこから眺められるストーリー性が面白いのである。

金谷牧の原鳥瞰図 *詳細は下記WEB「吉田初三郎式鳥瞰図データベース」より閲覧可能

 掲図の主題となっている牧ノ原茶園といえば、中條景昭など旧徳川家臣団や大井川川越人足による開拓が知られているが、全国ブランドの名を得るには、さらに昭和までの年月を要したことが編著者の加藤氏の解説から窺われる。この鳥瞰図作成の目的は、そうした牧ノ原茶のPRであることは明白だが、実際の依頼主はどうも製茶機メーカーの川崎鐵工所のようで、絵図の左右の中心に八木式製茶機工場と川崎製茶研究園が大きく描かれ、かつ自社関連施設は赤の名称標示で強調されている。牧ノ原茶のPRでは、やはり吉田初三郎の「牧野原茶園を中心とせる静岡県鳥瞰図」(1927年)があって、こちらは静岡県茶業組合の制作依頼によるものだ。
 牧ノ原茶園の背景として富士山が描かれるのは当然として、その左、大井川の上流に[南アルプス連峰]とあるのは嬉しい。西に目をやれば[夜泣石]、[小夜ノ中山]、[久延寺]とあり、ここは外せない名所だったのだろうか。旧国一の[大井川橋]を渡った先に[島田]がある。このザックリ感はさすがに少し寂しい気がするが、[藤枝][焼津]のまるで農村、漁村感よりはましか。また中心があれば辺境もあるわけで、右上には[東京]の先に[青森][函館]、さらに遠く[桑港](サンフランシスコ)まであるのは、そこが牧ノ原茶の輸出先であったゆえであろうか? やはり左上には[大阪]の先に[門司]さらに[釜山]まで記される拡がり方に時代性が感じられる。
 左側中程上の「大」の字には[淡々山](あわわやま?)とあり「粟ヶ岳」(あわんたけ)だと思い至るが、おや?「茶」の字ではないではないか。粟ヶ岳の「茶」の字の由来は、掛川観光協会のHP『掛川観光情報』によると

 粟ヶ岳山腹の巨大な「茶」の字は、昭和7年頃、東山のお茶のPRのために、茶業組合や村民が力を合わせ、粟ヶ岳の急斜面に松の樹を植え付けたのが始まりだそう。茶の字の形を決めるために、白い紙を付けた縄を持って並び、それを向いの山から遠望して、手旗で合図して調整を繰り返したとのこと。その後、初代の松の木がマツクイムシの害にあい、檜に植え替えられたそうですが、今でも定期的にメンテナンスを行い、美しく雄大な茶文字が保たれています。

とのこと。この絵図の制作が1931年(昭和6)で、「茶」の字が完成した昭和7年の一年前であることから、あるいは吉田は植栽途中のものを見て「大文字」と勘違いしたのだろうか。でも鳥瞰図制作の目的が牧ノ原茶(同時に川崎の製茶機)の振興なのだから、「あれは茶の字になるんですよ」くらいの話が川崎の人から出なかったのかなぁと不思議に思った。

 金谷・元「金河座」

 ところで、私の亡母は金谷田町の八百屋の生まれで、小さい頃、大衆芝居好きの母の祖母に連れられ芝居見物に通ったことをよく話していたが、それが[八木式製茶機工場]の南に描かれる[金河座]だったのだろう。金谷の街並の代表的な建物として絵図に載るのだから、当時の金谷の文化の殿堂といった存在だったのかも知れない。絵図を眺めていると、金谷という町はこじんまりとしているが、街並と寺社さらに茶園とその工場がうまく配置された、一寸お洒落感のある町に見えてくる。かつての母の話の端々には、そんな金谷自慢の雰囲気があったことを思い出した。いずれにせよ、お茶が地域発展の大きな力となっていた頃の話である。

(2022年2月記)

吉田初三郎式鳥瞰図データベース

*2024年7月7日まで府中市美術館にて「Beautiful Japan 吉田初三郎の世界」展を開催中