山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

地名の本

2024-11-04 16:00:57 | 山の本棚

民俗地名語彙事典

(松永美吉著・日本地名研究所編、2021年4月10日、ちくま学芸文庫)

登山地図や山間地などの地形図を眺めていると、独特の地形名や変わった地名を目にすることがある。例えば水窪河内川最奥の山住峠麓には「河内浦(kouchiure)」集落がある。同じく青崩峠の麓となる水窪町奥領家の翁川上流部は「西浦(nishiure)」と呼ばれ重要無形民俗文化財指定の田楽が催される。[浦(ure)]とはどういう意味を持った地名なのか。なぜ山中の水窪に浦があるのか。本書を引いてみると

ウラ ① 浦は「海岸」の意にとられることが多いが、本来は海岸が入江や湾をなして入りこんでいる所をいう。西南日本ことに九州などでは、陸地に湾入した所は必ず○○裏の名があり、たんなる海岸名ではない。
 浦という語は、外浦の「表」に対して「裏」の義と解する説があるが、それよりも外浦の本通りに対して、それから分派した支湾と見るのがより適切で、ウラ(ウレと同じく末)は、本来、樹木の本幹に対して枝葉あるいは先端部(梢)を指す語であるからである。
 こうした湾入は、風波を避けて船を着ける船着場に適するので、浦の地名はまた同時に「港」の意味をもつのが普通である。(中略)
② 内陸部で、川の上流部には「川浦」の地名があり、それの変化した「川浦(kaore)」(川売と宛てた所もある)もある。これらは「川の末」(ウラ、ウレ)で川の先端、上流(川上)を意味する。
 静岡県周智郡気多村(浜松市天竜区)で川の上流をいう〔『方言』五の一〇〕。(中略)
④ (裏の転用)北。富山県福野町(南砺市)に浦町というのがあるが、これは浜の意ではなく、北の意。これに対してオモテ(表の転用)は南。礪波地方〔『礪波民俗語彙』〕。『日本の地名』では「北東」といっている。(以下略)

ウレ 静岡県安倍郡(静岡市)で、高山の絶頂に近い所をいう。木の梢などをウレ、ウラというのと同じく、地名にも水上をミウレ、沢奥をサウレ(渓の奥)などといい、岐阜県吉城郡(飛騨市)では、村里の奥の方または辺鄙の里をいう〔『山村語彙』、『全辞』〕。奥の方、高い所。ウラの転(嬉野、宇礼保、嬉垣内、嬉河内、宇霊羅山)〔『日本の地名』〕。

なるほど、「奥」「末端」「どんづまり」の地形の意で[うれ]の音が地名となっているのだと解釈ができる。とすると奥三河鳳来の「宇連山(ureyama)」やその西麓の「川売(kawaore)」も同様の意からの地名だろうと関心が広がる。

本書「(付録)はじめに」の中で著者・松永美吉は、地名について次のように述べる。

一、人は、当然のことながらこの大地の上に生活を営み、「われここにあり」とて他人に知らせて互いに交通する。その存在を示すにはできるだけわかりやすいのが得策である。
 人々の生活が複雑になり、人間が多くなると、地形名ばかりを頼りにするわけにはいかなくなる。そこでいろいろと地名を発明して、その所在を示すことになる。
 つまり、地形名は地名発生の最初の段階であるとみるべきである。そして地名は、共有のものである以上、広く容易に理解されるべきものでなければならない――これは一般の言語と何ら変ることはない。

私が山を歩くのは、自然を愛でるためだけではない。その土地に関わり暮らした人々の営為を確かめるためでもある。「わずかな土地にそそがれた鹿の血ほどの人間の一生でさえ語りがたい。ましてかず知れぬ人間の営為をしたたかに吸いこんだ土地の名前は、一口で語りつくせないものを、私たちに伝えようとしている」(谷川健一)のである。

日本の地名

(谷川健一著、1997年4月21日、岩波新書)

このかず知れない地名を見ていくことで、どのような日本列島の歴史が見えてくるのか。谷川健一はフォッサマグナに沿った各地の地名を挙げていく。

 水窪町はかつて焼畑のさかんなところであった。焼畑は山の傾斜面を利用し、また耕作地を一時放棄して休閑地にするところから、ソラス(ソリ)、アラス(アラシ)という語が生まれた。水窪町の大嵐(おおぞれ)という開拓集落は、かつて大崩壊を経験しているという。同町には大嵐(おおあらし)という地名もある。アラシやソリの地名は関東、中部の山間部を中心に全国に分布している。このほか夏焼(なつやけ)とか焼山(やけやま)も焼畑に関連する地名である。(中略)信、三、遠の国境近くに焼畑地名が多いことから、これまであまり検討されてこなかった焼畑の文化史の可能性が見えてくる。(第二章「地名と風土」より)

「瑞穂の国」平地=稲作に対する、山地=焼畑・狩猟を軸としたもう一つの文化史、けして単一でない多様な日本列島の歴史・文化が地名の分布から垣間見られるということだ。

 各地のさまざまな呼称をもつ小集落地名は、数戸から数十戸単位の集落がかつての日本の社会の基底を形成していたことをさまざまと物語っている。それが日本列島の端から端まで隙間もないほど埋め尽くしている。それは「日本は何と広く、何と深い国であろう」という詠嘆を込めた感慨を導くのに充分である。地名はこのように「いと小さきもの」であるが、一方、それは大きな世界とつながっている。ここに地名の逆説があり、それこそが地名の最大の魅力である。
 本書は、その具体例として、日本列島をとりまく自然環境の中で、もっとも大きな特徴を示す黒潮の流れと、日本列島を横断する中央構造線(メディアン・ライン)に地名がどのように関わっているかを見ることにした。(「はじめに」より)

地名の原景

(木村紀子著、2023年10月13日、平凡社新書)

冒頭に話題とした「浦」(海岸の)地名について本書では、

 神代の昔から続くという古代の「浦」とは、要するに「海人(あま)の拠点(集落)」のこと、今の言葉で言うなら入り江や遠浅の砂浜沿いに広がる漁師町のことである。万葉集には出ない、関東の「霞ヶ浦」「勝浦」(千葉)や「三浦半島」(神奈川)、能登半島の「福浦」、など、往古の面影を偲ばせる「浦」も各地に残っている。東京湾端の「浦安」は、いつの時点での命名かは不明だが、日本書紀によれば、その昔イザナギの命が、この国を名づけて「日本(やまと)は、浦安(うらやす)の国云々」と言った(神武紀三十一年)ともある。(中略)
 「浦(うら)」とは、はるか大昔、王城の地を言うに相応しい豊饒の響きを持った言葉であった。近年の辞書類の言うような、単なる「入り江・湾」などの意ではありえない、おそらくその解は、浦が寂(さび)れ果てた時代の、「見渡せば花も紅葉もなかりけりの苫屋(とまや)の秋の夕暮れ」(定家)といった歌などからの、漠然とした印象にもとづく推測なのかと思われる。(「Ⅰ日本列島の原景語」より)

と主に言語学、古典文献での用例から地名の原景を探っていくのであるが、それは帯文とは裏腹に文字を操った人々(平地=稲作を主体とした文化)の見た景、自然環境の解釈が色濃いのではないのかという疑念は残った。

 列島上の、野にも山にも里にも川辺・海辺にも、星の数ほど無数に貼りついている地名の一つ一つには、誰とも知れぬ初発の声が響き、半ば無意識に呼び続けてきた人々の声が響き合って今に遺っている。本書は、そもそもそうした原初の地名の〈声〉が、この列島上ならではという自然環境の中で、どのような生まれ方をしたかの一端を探る、ささやかな試みである。(「はしがき」より)

山名の不思議

(谷 有二著、2003年8月10日、平凡社ライブラリー)

○「やま」の文化、「サン」の文化 ○大菩薩峠の下半身と上半身 ○穂高岳と海の民・安曇族 ○駒ヶ岳とは何か etc.
いかにも登山者の興味を惹きそうなタイトルが並ぶが、けして言葉尻に捉われた後付けの伝承や思いつきの類の話ではない。アイヌを含む東アジア史の中から山名の謎を追い求め、壮大かつ緻密な回廊に迷うことの楽しさを体験する。登山が文化的遊びであることの魅力に満ちている。

山名の読み方 - 山の雑記帳

続・山名の読み方 - 山の雑記帳


北八ッ彷徨

2024-10-29 08:40:00 | 山の本棚

2001年10月発行・平凡社

北八ヶ岳というと苔の森と湖沼のイメージがあるが、白駒池や北横岳あたりは今やすっかり観光地化してしまい、静寂という言葉とは少し距離があるように思える。かつての「北八ッ」の森を彷徨ってみたい、そんな好奇心から本書を手にしたように覚えている。

 南八ヶ岳を動的[ダイナミック]な山だとすれば、北八ヶ岳は静的[スタティック]な山である。前者を情熱的な山だといえば、後者は瞑想的な山だといえよう。
 北八ヶ岳には、鋭角の頂稜を行く、あの荒々しい興奮と緊張はない。原始の匂いのする樹海のひろがり、森にかこまれた自然の庭のような小さな草原、針葉樹に被われたつつましい頂や、そこだけ岩魂を露出しているあかるい頂、山の斜面にできた天然の水溜りのような湖、そうして、その中にねむっているいくつかの伝説――それが北八ヶ岳だ。言ってみれば、ドイツ・ロマン派や北欧の文学のもつ、あの透明で憂鬱な詩情に通じる雰囲気がある。八ヶ岳本峰のはげしい岩尾根の登高に、なにか喉がかわくような疲れを感じるようになったら、気の合った山仲間の小さなグループで好きなところに天幕でも張りながら、静かで大らかなこの森の山地を歩いてみよう。
 さまよい――そんな言葉がいちばんぴったりするのが、この北八ヶ岳だ。
(「岳へのいざない」1958年)*本書旧版は1960年、創文社発行

著者・山口耀久

 ところで著者山口耀久は、敗戦後間もなくから、八ヶ岳バリエーションルートの開拓と共に、時に一週間も北八ッの地に滞在し、文字どおり隈なく彷徨しているのだが、蓼科山から望月へと下ったりもしている。『北八ッ日記』によれば、八千穂大石から入山し雨池、八丁平、大河原峠までで三日遊ぶ。一日停滞の翌日、亀甲池、双子池を巡った後、再び大河原峠に戻った山口は、

――大河原峠からいつものように、ひろびろとした佐久の裾野の斜面を眺めていると、はるかに遠く、鹿曲の谷と八丁地川上流の唐沢のあいだに、カステラ色の草原がなだらかにひらけているのが目に入った。あそこに行こう! 地図をひろげて、峠から見おろす地表の細部をそれと照合しながら、ぼくと小島は、その遠い草地のひろがりに憧れを馳せた。

のである。
 前掛山から蓼科山頂をピストンした山口は、前掛山北尾根を現在地名「虹の平」に向って下る。ここから右の尾根に入り唐沢へと降り、対岸の台地に目指す草原があった。1/25000地形図「蓼科山」では「望月高原牧場」の名が記される場所だろう。そこから目と鼻の距離の森の中に、今度の定例山行の宿泊地「望月少年自然の家」がある。下見山行の朝は、賑やかなカッコウの声で目が覚めた。
(2005年7月『やまびこ』No.100)

2013年10月発行・山と渓谷社

『アルプ』のことについては、また改めて記す機会があるだろうと思う。


日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

2024-07-24 11:47:06 | 山の本棚

2007年11月20日 講談社現代新書

【見えない歴史】1965年まで、日本人はキツネに化かされていた。なぜか?

かつては私たちの周りには“ヒトを化かす”たくさんの動物がいました。たとえばキツネ、タヌキ、ムジナ、イタチ……。そのような動物たちがヒトを化かすのは不思議でもなんでもなく、“普通の出来事”として語られていました。

内山さんよると1965年頃を境にして日本の社会から「キツネにだまされたという話が発生しなくなった」そうです。なぜこのようなことが起きたのか、それはなにを意味しているのかを問いかけたのがこの本です。

「なぜ一九六五年以降、人はキツネにだまされなくなったと思うか」と多くの人に訪ねたところいくつかの意見に集約されたそうです。
1.高度成長期の人間の変化:経済が唯一の尺度となり非経済的なものに包まれて自分たちは生命を維持していると言う感覚が失われた。
2.科学の時代:科学的に説明できないものはすべて誤りという風潮になった。
3.情報、コミュニケーションの変化:メディアの発達等でかつてあった村独自の「伝統的」コミュニケーションが喪失していった。
4.教育内容の変化:必ず「正解」があるような教育を人々が求めるようになり、「正解」も「誤り」もなく成立していた「知」が弱体化した。
5.死生観の変化:自然や共同体に包まれていることで成り立っていた生と死が個人として切り離され、自然と響き合わないようになっていった。
6.自然観の変化:自然に還りたいという祈りをとうしてつかみとられていた自然観がなくなった。
7.老ギツネがいなくなった:人工林が増え、一方で自然のサイクルであった焼畑農法も行われなくなりキツネの成育環境が変化。(だますことができると考えられていた)老ギツネがいなくなった。

つまり“近代化”によって「キツネにだまされる」環境が破壊され、過去のものとしてかえりみられなくなったのです。この“近代”が押し流していったものはなんだったのでしょうか。内山さんの思索はここから始まります。

“老ギツネ”が棲んでいた山は当時の人にとってどのようなものだったのでしょうか。内山さんは興味深い慣習であった「山上がり」というものを紹介しています。群馬県の山村の養蚕農家周辺で「昭和二十年代ころまで」あった仕組みだそうです。

養蚕農家は稲作農家と異なり、生糸という商品生産で生計をたてていました。貨幣経済が浸透し相場の変動によって「自己破産」する農家も出てきました。そのような破産した農家に対して「共同体」が行う「救済の仕組み」が「山上がり」というものでした。
――「山上がり」を宣言した者は文字どおり山に上がる。つまり森に入って暮らすということである。そのとき共同体にはいくつかの取り決めがあった。そのひとつは「山上がり」を宣言した者は誰の山に入って暮らしてもよい、というものであった。つまり森の所有権を無視してよいということである。第二は森での生活に 必要な木は、誰の山から切ってもよいというもので、ここでも所有権を無視することが許される。第三は同じ集落に暮らす者や親戚の者たちは、「山上がり」を 宣言した者に対して、十分な味噌を持たせなければならないという取り決めであった。――

山は“再生の場”でした。一種の相互扶助の仕組みとして「山上がり」があったのです。もちろんこの山には“ヒトを化かす老ギツネ”が棲んでいたでしょう。
――かつての豊かな山と、何でもできる村人の能力、最低限のものは提供してくれる共同体という三つの要素があってこそ、「山上がり」は成立したのである。――

これが「キツネにだまされていた時代」にはあったものでした。そのころは「人間観も自然観も、生命観も異なっていた」のです。
――いつの時代においても、生命は一面では個体性をもっている。だから個人の誕生であり、個人の死である。だが伝統的な精神世界のなかで生きた人々にとっては、それがすべてではなかった。もうひとつ、生命とは全体の結びつきのなかで、そのひとつの役割を演じている、という生命観があった。個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないかと思っている。――

“近代”がおとずれるまえには確かにあったこの生命観の喪失とともに“老ギツネ”は私たちの前に姿をあらわさなくなりました。豊かさと再生の場としての自然が失われていったのです。

といっても内山さんは単なる“自然賛歌”“自然に還れ”といっているわけではありません。私たちを包み込む自然が同時に“荒ぶる神”であることを忘れてはいません。また「日本の自然は一面では確かに豊かな自然であるけれど、他面ではその改造なしには安定した村も田畑も築けない厄介な自然」であることもここに記されています。そしてその自然との交流のなかで村の在り方や、宗教なども生まれてきたのです。

このような多面的な自然を失いはじめたのが1965年でした。それを象徴するのが「キツネにだまされなくなった」という“事件”です。

そしてさらに内山さんは思索を続けます。「長い間、人がキツネにだまされつづけたということは、キツネにだまされた歴史が存在してきたと考えていいだろう」と……。それは「自然や生命の歴史」であり、それに包まれた「人間史」の発見です。

ここから最後の問いが始まります、「歴史とはなにか」という問いが。ここからの内山さんの思索はぜひ読みながら一緒に考え、歩んでください。

内山さんは今までの歴史の考え方は「制度史」であり「知性による認識」のものにしか過ぎないと疑問を投げかけています。この「知性が歴史に合理性を求めた」歴史観は「発展していく歴史」というものを私たちの思考にもたらしました。

「知的合理性」では化かすキツネの存在は認められません。迷妄とみなされてしまいます。これは老ギツネのいない世界です。でもかつては化かすキツネは確かに存在していました。そう思い生きてきた人々の歴史はどう考えればいいのでしょうか。
――身体や生命の記憶として形成された歴史は、歴史を循環的に蓄積されていくものとしてとらえなければつかむことはできない。――

乱暴にいえば直線的に解される「知的合理性の歴史」とは流れが異なる「蓄積されている記憶の歴史」というものが確かにあり、その中で人々は生きてきたのです。

この身体や生命の記憶としての歴史を「見えない歴史」と名付け、「知性による歴史」に対峙させていこうというのが内山さんの思考の根本にあるものなのです。
――現代の私たちは、知性によってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった。人間がキツネにだまされた物語が生まれなくなっていくという変化も、このことのなかで生じていたのである。――

豊かさとはなにかを問いかけ、知性だけでない認識に達し、そのありようをたずねた「哲学」「歴史哲学」でもあるこの本は、地に足がついた思考、独力の思考の強さ、頼もしさを感じさせる奥深い1冊だと思います。

野中幸宏(2016.10.31『講談社BOOK倶楽部』「今日のおすすめ」)


吉田初三郎『金谷牧の原鳥瞰図』

2024-06-29 11:24:31 | 山の本棚

金谷牧の原鳥瞰図を眺める

 コロナ禍の最中にあって、近隣歩きのネタを求めた『古地図で楽しむ駿河・遠江』(加藤理文編著・2018年 風媒社)の冒頭に、吉田初三郎の鳥瞰図がいくつか掲げられていた。吉田初三郎という鳥瞰図絵師の名を聞いたのは、『やまびこ』245号(2017年9月)「地図は物語る」と題したS・Mさんの巻頭エッセイで、その時、大いに興味を覚えた。

――描かれている情報は、その場所に人を誘う目的でデェフォルメされており、ある物語を伝えてくれている感さえある。――

 全ての任意の地点が、どの方角からも同様に同等に、すなわち等距離に描かれる地形図とは全く逆に、鳥瞰図には主観的な視点(目的)が存在するから、図の中心にはその視線の先、すなわち目的の核心が描かれることになる。そこから眺められるストーリー性が面白いのである。

金谷牧の原鳥瞰図 *詳細は下記WEB「吉田初三郎式鳥瞰図データベース」より閲覧可能

 掲図の主題となっている牧ノ原茶園といえば、中條景昭など旧徳川家臣団や大井川川越人足による開拓が知られているが、全国ブランドの名を得るには、さらに昭和までの年月を要したことが編著者の加藤氏の解説から窺われる。この鳥瞰図作成の目的は、そうした牧ノ原茶のPRであることは明白だが、実際の依頼主はどうも製茶機メーカーの川崎鐵工所のようで、絵図の左右の中心に八木式製茶機工場と川崎製茶研究園が大きく描かれ、かつ自社関連施設は赤の名称標示で強調されている。牧ノ原茶のPRでは、やはり吉田初三郎の「牧野原茶園を中心とせる静岡県鳥瞰図」(1927年)があって、こちらは静岡県茶業組合の制作依頼によるものだ。
 牧ノ原茶園の背景として富士山が描かれるのは当然として、その左、大井川の上流に[南アルプス連峰]とあるのは嬉しい。西に目をやれば[夜泣石]、[小夜ノ中山]、[久延寺]とあり、ここは外せない名所だったのだろうか。旧国一の[大井川橋]を渡った先に[島田]がある。このザックリ感はさすがに少し寂しい気がするが、[藤枝][焼津]のまるで農村、漁村感よりはましか。また中心があれば辺境もあるわけで、右上には[東京]の先に[青森][函館]、さらに遠く[桑港](サンフランシスコ)まであるのは、そこが牧ノ原茶の輸出先であったゆえであろうか? やはり左上には[大阪]の先に[門司]さらに[釜山]まで記される拡がり方に時代性が感じられる。
 左側中程上の「大」の字には[淡々山](あわわやま?)とあり「粟ヶ岳」(あわんたけ)だと思い至るが、おや?「茶」の字ではないではないか。粟ヶ岳の「茶」の字の由来は、掛川観光協会のHP『掛川観光情報』によると

 粟ヶ岳山腹の巨大な「茶」の字は、昭和7年頃、東山のお茶のPRのために、茶業組合や村民が力を合わせ、粟ヶ岳の急斜面に松の樹を植え付けたのが始まりだそう。茶の字の形を決めるために、白い紙を付けた縄を持って並び、それを向いの山から遠望して、手旗で合図して調整を繰り返したとのこと。その後、初代の松の木がマツクイムシの害にあい、檜に植え替えられたそうですが、今でも定期的にメンテナンスを行い、美しく雄大な茶文字が保たれています。

とのこと。この絵図の制作が1931年(昭和6)で、「茶」の字が完成した昭和7年の一年前であることから、あるいは吉田は植栽途中のものを見て「大文字」と勘違いしたのだろうか。でも鳥瞰図制作の目的が牧ノ原茶(同時に川崎の製茶機)の振興なのだから、「あれは茶の字になるんですよ」くらいの話が川崎の人から出なかったのかなぁと不思議に思った。

 金谷・元「金河座」

 ところで、私の亡母は金谷田町の八百屋の生まれで、小さい頃、大衆芝居好きの母の祖母に連れられ芝居見物に通ったことをよく話していたが、それが[八木式製茶機工場]の南に描かれる[金河座]だったのだろう。金谷の街並の代表的な建物として絵図に載るのだから、当時の金谷の文化の殿堂といった存在だったのかも知れない。絵図を眺めていると、金谷という町はこじんまりとしているが、街並と寺社さらに茶園とその工場がうまく配置された、一寸お洒落感のある町に見えてくる。かつての母の話の端々には、そんな金谷自慢の雰囲気があったことを思い出した。いずれにせよ、お茶が地域発展の大きな力となっていた頃の話である。

(2022年2月記)

吉田初三郎式鳥瞰図データベース

*2024年7月7日まで府中市美術館にて「Beautiful Japan 吉田初三郎の世界」展を開催中


野本寛一『大井川―その風土と文化―』

2024-06-25 16:38:32 | 山の本棚

歩き続ける人

 今までに何度か触れてきたことだが、私が山歩きへ誘(いざな)われたきっかけの一つに『大井川―その風土と文化―』(文・野本寛一/写真・八木洋行 昭和54年7月26日・静岡新聞社)がある。

――この本は、文を野本寛一先生、現近畿大学名誉教授で一昨年(平成27年)文化功労者顕彰を受けられた環境民俗学の大家ですが、やはりご出身は地元の相良で当時はまだ静岡の高校の先生だったと思います。南アルプスに発する大井川の遮断性、また流通性、そして野本先生の主要なテーマ「焼畑文化論」などが展開されていて、本を読んで私は大井川という私たちの郷土そのものの大河と、この上流には何があるのかということに大変興味を持ちました。言ってみれば私の山歩きへの関心と、大井川流域の山々という地元山域への拘りは、ここから始まったといっても過言ではなく、私のバイブルのような本です。――(2017年3月18日・SHC20周年記念八木洋行氏講演時の「講師紹介」より)

 現況コロナ禍にあって、会の山行活動はおはようハイクを中心に近隣での歩きに制限されている。それでも昨秋以降14回が数えられたのは、歩く機会を何としても継続しようと思い、携わる人たちの大きな努力があってのことだ。また私は自分自身の極々小さな歩きでも、それらをなぞったりしてみた。そういう中で、何度か訪れた場所、普段通り過ぎている場所であっても、その地が持ってきた意味を改めて考えてみると、そこにこびりつく残滓を剥がしていくような面白さを知るようになった。今は山を歩く機会が減った分だけ「考えてみる」時間はたっぷりとあるわけだ。かつて上流域への憧憬として山歩きに誘ってくれた本書は、現在の生活に繋がる中・下流域の様相に対する理解の示唆も与えてくれる。駿河湾の河口までを歩いた大津谷川・栃山川では、志太平野を形成した大井川の力の痕跡や、現在の川の力を利用する様を知ったのをはじめ、粟ヶ岳では「海からの眼ざし」ということを知った。この一年間14回の小さな〝山行〟は、私の中では歩く価値と知る価値のある愉しいものとなった。

――風土と文化というのは、決して過去の歴史であったり、懐かしい思い出話ということではないのです。今を生きている私たちの精神性、またこの地に生きる私たちの土台、即ちDNAであって、とりわけ山を歩く私たちにとっては、私たちが何故山に向かうのかというその根本的な原理の一端なのだと思います。――(前掲記念講演「講師紹介」より)

 ところで、私が野本寛一氏の著作に関心を持つのは、ひとつは氏が同郷・同窓の大先輩であり、その文中に見知った場所、語られる人びとが幾つも出てくるからだが、同時に氏が、その見知った場所をはじめとして現実の山・海・里をひたすら歩き続けている人であるからだ。氏が太陽の下で森や峠や池や淵などに立って発想されてきたものは、私自身が山を歩き観たこと、聴いたこと、感じたこととも重なって、山頂に立つこととは別の種類の、体験の面白さや、考える面白さを与えてくれるようだ。

――静岡県浜松市水窪町の町の木は栃で、この地には「栃を伐る馬鹿植える馬鹿」という諺(ことわざ)がある。貴重な食料を恵んでくれる栃の木を伐るのは愚かである。同様に、栃の木を植えればすぐに実が得られると思うのも愚かだ。栃の木が実をつけるようになるまでには人の世代で三代かかるからである――(『生態と民俗 人と動植物の相渉譜』2008年・講談社学術文庫)

――ここにはトチの木の禁伐伝承を厳守し、世代を超えてトチの木を守りつづけ、大切に守りつづけるがゆえに長いあいだトチの木から大量の実をめぐまれつづけてきた水窪の人びとの思いが凝縮・象徴されているのです。ここには人とトチ、人と自然との共存・共生関係がみられるではありませんか。こうした人と自然との関係がトチの巨樹を残存させてきたのです。――(『民俗学者・野本寛一 まなびの旅』2019年・玉川大学出版部)

 即効的、刹那的な価値や充足感の追求の中では、本当の意味での「人と自然(ウィルスもその一つだろうか)との共存・共生」を図れることはないのだろう。それにしても、水窪もすっかりご無沙汰してしまった。そういうトチの巨樹を見に行き、それから以前、常光寺山下見の帰りにH・Kさんから教わったお薦めの栃餅を買うこと、それをコロナ自粛後の取り敢えずの愉しみにしても良いなと思った。そういう愉しみ方なら私もひたすらであるかどうかは分からないが、歩き続けることができそうな気がしている。

(2021年10月記)

追記

 ところで、赤坂憲雄は『神と自然の景観論』(2006年・講談社学術文庫)の解説の中で以下のように述べている。

 初版の「あとがき」によれば、野本さんが幼少年期を過ごしたのは、静岡県の相良町の在で、牧之原台地の裾にあるムラだった。野本さんはそこに、自身がかかわった聖地や聖樹についての記憶のラフ・スケッチを示しながら、それがみずからの「内部に生きる神々の風景であり、聖なる原風景である」ことを語っていた。たしかに、この著書のなかには、そうした原風景に連なるような故郷・静岡の景物がもっとも色濃く登場してくる。あるいは、そこで育まれた眼や心ゆえに捕捉されえたと感じられる聖なる風景が、次から次へと姿を見せる。まさに、「フランスの哲学者バシュラールは、家の構造が住まう人の思い出の形成とかかわり、地形が人間の精神形成に影響を与えると語っている」という言葉そのままに、『神と自然の景観論』の基底には、野本寛一その人の故郷にまつわる記憶が沈められているのである。
 わたしはじつは、野本寛一という民俗学者の故郷が、ほかならぬ静岡という、東の文化/西の文化が重なり合う「ボカシの地帯」であることに、いたく関心をそそられている。兵庫や周防大島からははるかに遠い東北が、静岡からはさほど遠くない。この距離感はとても微妙だが、なかなか示唆に富むものである。いわば東の文化も、西の文化も等距離に眺めることができる土地からのまなざしが、柳田や宮本とは異なる東北イメージ、さらには日本文化像を描くことを可能にさせている、ということだ。あるいは逆に、「ボカシの地帯」ゆえに東にも/西にも繋がり、開かれていることが、野本さんのまなざしに固有の屈折をもたらしている、といってもいい。(中略)
 
「緒言」には、信仰環境論の輪郭が辿られている。まずはじめに、人はいかに環境とかかわってきたか、という問いかけがある。野本さんはその問いに向けて、信仰と環境とのかかわりという視座からのアプローチを試みるのである。信仰ははむろん、人の心や魂と深く結ばれる営為であるが、地形や月の運行・周期といった自然環境にまつわる条件を抜きにしては考えられない。しかも、この信仰と環境との関係は複雑である。自然環境が信仰の生成を促すが、逆に、信仰の存在によって自然環境の保全がはかられるし、新たな文化や社会の環境が生成してくる、といった複雑な関係が見いだされる。それはさらに、日本人は何にたいして神聖感をいだき、いかなる景観のなかに神を見てきたのか、という問いへと深化させられる。野本さんはそこに『聖性地形』という名づけを施しているが、それがいわば、「日本人が古来、聖域・神々の座として守りつづけてきた地形要素と、それを核とした聖なる場」を訪ねあるくなかに、しだいに浮き彫りにされていったものであることに、注意を促しておく。「聖性地形」という名づけは、歩行の以前にではなく、以後に属している、ということだ。そうした聖性地形を核とした神々の坐す風景は、日本人の魂のやすらぐ原風景であり、郷愁をさそう景観であり、先人たちが末裔のために選んだ最大の遺産である。それは、われわれの内省・蘇生・再生・復活のためには絶対不可欠な場であるとともに、「環境問題を考える原点」にもなりうる、という。

 この本もまた私の大切な山のバイブルとなったのだった。