山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

山を彫る(番外篇)守屋山キャンプ場にて

2024-12-04 08:31:08 | 山を彫る

高遠少年自然の家を利用するようになったのは、いつ頃からだろうか?随分昔から行っているはずだ。試みに会報「やまびこ」の索引を使って検索してみた。始まりは1998/2、よほど気にいったのだろう、7月も。以降2002年まで2月ないし3月のスノーハイクは恒例になっていた。しばらく休み2008,9年、また少し飛んで2013、2020年と訪れている。自然の家ではクロスカントリースキーやスノーシューを無料で貸してもらえるからありがたい。チョットしたルールを守れば格安で利用できるのも嬉しい。コテージで薪ストーブを囲み、呑み、かつ歌い、踊れば浮世の憂さを忘れる至福の時だ。初回は自然の家周辺で雪と戯れていたが2回目’98/7には守屋山へ登っている。

2013/2/10自然の家出発、立石口から登山開始。雪はあるがアイゼン無しで進行。立石から少し剣呑な道になる。南面にあたるため雪が融け、岩が露出する箇所が多い。間をおいて慎重に進む。木にできた二つ瘤がちょうど女性のバストの様で“平成のビーナス”の銘板に一同緊張がほぐれた。鬼ヶ城のある巨岩地帯、浅間の滝を経て、急な上りを凌げば前岳のコルに出る。ひと休みしたら開けた道をジグザグに進み、杖突峠への分岐点に出れば山頂は近い。灌木になり、空が広くなった道をひと上りで東峰の頂に到着。わーお、360度の展望だ。北アルプス、美ヶ原、八ヶ岳、手前に入笠山、南アルプス、中央アルプス、御嶽山、ぜーんぶ見えた。本隊は西岳へ。芦田、天野、池田ロートル3人はここに留まり、自然の家特製の昼飯を戴く。快晴無風、抜群の眺め、ええなぁ。西峰に向かった本隊が戻ってくるのが見通せたので3人は先発。下りはアイゼンを着けた。順調に下りキャンプ場に着く頃、本隊が追いついた。夏の賑わいは知らない、人影は無くひっそりしていた。ふと見上げると青い空、白い雲、葉を落としたカラ松がアートしていた。これ、いただき、この様を版画に彫った。写真の通りの画を描いたら、先生からは中心に向かって木を配置するようにアドバイスを受けた。カラ松が落葉して枯枝に粒々が残っている状態を表したい。その頃はまっていた木田安彦の表現を応用した。浅丸刀で丹念に彫る。加減しながら摺ってみると粒々が出てきた。それらしい表現ができたと思っている。この画は、東京に住む孫の部屋にピンナップされている。(どうも傷隠しらしい)

平成のビーナス

鬼ヶ城

浅間の滝

守屋山頂から望む八ヶ岳連峰

追記
2024/2/11,12高遠少年自然の家に泊まり、守屋山に登ることができた。この時も快晴、無風、素晴らしい山行になった。3月末をもってSHCを退会。始まりから終わりまで関わってきた自然の家と守屋山に感概ひとしおである。

(2024年11月 IK記)

*  *  *

IKさんが書くように、高遠少年自然の家は冬合宿の常泊場所だった。最後の冬合宿となったコロナ禍前2020年2月もここに泊り守屋山を目指したのだったが、残念ながら雨模様で神長官守矢資料館や諏訪大社四社巡りとなった。

【2020年3月記】

(前略)守屋山頂からは眼下に諏訪湖が、そして東に八ヶ岳連峰とその南西麓がはっきりと望まれる。縄文期の諏訪に住む人々はこの聖なる山に立ち、自らの集落と生活の場である山(もり)と湖(うみ)の姿を一望し、どのような感懐を持ったのだろうか。共生する自然への鋭い感性=インスピレーションを持ち合わせた彼らは、現在ここに立ち眺望する我々には受けることのできないものを感じとり、視ていたのかもしれない。さらに、この豊かな古代諏訪文化は、天竜川水系、富士川水系を下って太平洋岸にまで至り、また屛風のようにそそり立つ南アルプスの峠を越えて井川にまで達していたらしい。我々の大井川流域の山々と八ヶ岳連峰は、古代において結ばれていたのであり、その結節点が守屋山であったとも言えるだろう。
(会報『やまびこ』№191「月々の山」)

 これが、私が山を歩くことの関心(テーマ)のひとつである。前宮から守矢史料館、本宮にかけての一帯は、是非とも案内したいと思っていた場所で、雨で守屋山から代ったのも良い機会になった。この地区をもっとじっくりと探っていけば、それだけで面白そうな史跡ハイキングを企てられそうである。
 宿泊した高遠青少年自然の家のロビーには、ランドサットが撮影した写真に自然の家の位置を印したパネルが掲げられている。これを見ると、ここがちょうど南アルプスを挟んで南北に我が街と対の位置にあることが理解できる。実は、この話は高遠青少年自然の家に通っていた初めの頃、当時代表であったIKさんが、夕べの集いの団体紹介で挨拶された事柄で、懐かしく甦る。すっかり〝長老〟(?)となられたIKさんが、今回の合宿にも参加され、夜の懇親会ではノリノリでハモニカを披露してくださったこと、また合宿初参加の皆さんも気持ち良く輪の中に加わり、全く良い思い出となった。「会員同士の親睦を図る」という合宿のもう一つの目的も叶えられた。


山を彫る(番外篇)三方分山

2024-11-23 10:07:59 | 山を彫る

三方分山西面の展望図

私はこの山が好きだ。まず名前が良い。“サンポウブンザン”山の名前としては珍しい字面である。名前の通り山頂から三方へ尾根が張り出している。頂きでは判りにくいが地図上で見ると見事に三等分されている。次にロケーションが良い。定例山行での上り道は中道往還であった。駿河から甲州へ抜ける街道のひとつ。駿河湾で獲れた魚を担いでこの峠を越えた。沼津からここまでの道のり、更に峠を下り上九一色村(古関)までの距離を測ると想像し難いが紛れもないことだ。上り始めの精進集落の佇まいは、それとなく歴史を感じさせる。峠を西進すれば気持ち良い尾根を通って小一時間で三方分山に着く。富士山方面は切り開かれていて明るい。西側は樹木が茂り、眺めが遮られるが木の間越しに南アルプスが見える。あのピークはどこだろう?眺めを楽しんだら南南西への尾根を急降下。精進峠を過ぎた辺りより精進湖が現れ富士山がますます大きく見えてくる。大室山を懐に抱いた“子抱き富士”は面白い。続く尾根筋は快適だ。根子峠を過ぎ、ひと歩きでパノラマ台に出た。前にも増して富士山がドーンと在った。素晴らしい。上り口から山頂へ、更にパノラマ台へ、このコースは本当に良い。
付け足しになるが、アクセスが良いことを挙げる。広々とした駐車場の存在もありがたい。時間的、体力的に三方分山が無理な時でもパノラマ台往復も可、十分に眺望を楽しめる。

阿難坂方面から望む三方分山

パノラマ台からの子持ち富士

2013/1/13積雪期の山行を彫った。良いアイデアを思い付いたので山頂から西を眺めた構図とする。立川さんにお願いして山頂から見える南アルプスを表してもらった。同定された山々を木の間越しに見えるように配置した。際立つピークは東岳(悪沢岳)だった。左寄りの木と木の間に置き、続く山並みは木に遮られたり、見えたりしながら北に連なり、右寄りの樹間に北岳が在る。原画の段階での先生からのアドバイスに従い倒木を追加、なるほど。

蛇足
定例山行の際、斎藤、小沢、池田は精進峠から集落へのショートコースを選択した。急坂を一気に下り集落近くまで来て、ルートを見失った。ボサを通して集落の屋根が見える程の位置だったから右往左往している間に道が見つかった。近道のつもりだったが通る人は少なく踏まれていないようだった。後に続く方あれば注意あれ。

(2024年11月、IK記)

*  *  *

阿難坂(女坂)

駿河・甲斐を結ぶ街道の一つ中道往還は、IKさんが触れられているとおり「魚の道」でもあった。吉原(富士市)を起点に富士山西麓を通り、精進湖西岸から阿難坂(女坂)1215mで御坂山地を越え、さらに古関(旧上九一色村)からは右左口(うばぐち)峠855mを越えて、甲府まで20里の道程だった。朝、沼津沿岸から揚げられた海産物は、暑い日中を避けて夕方から夜通し馬なども使って運ばれ、翌朝には甲府の魚問屋に並んだという。甲府周辺は、内陸へ生魚を運べる限界である「魚尻線」にあたり、中道往還は別名「五十集(いさば)の道」(魚介類の道)とも呼ばれた。現在、山梨県は人口あたりの寿司屋の件数が日本一、またマグロの消費量が静岡県に次ぐというほどの魚(マグロ)好きは、中道往還あってのことだったのだ。なるほど、山梨の長男妻実家で出された料理の刺身が旨いものだったことを思い出した。山梨土産と言って、中央道の談合坂SAでアワビの煮貝を買ってきて、驚いたこともあった。現在の中道往還といえるR358・精進湖道は中部横断道開通前には、大菩薩嶺など山梨東部の山行によく利用した道だった。

 


山を彫る(番外編)荒川岳

2024-11-13 11:57:03 | 山を彫る

加齢に伴い南アルプスは遠のいていった。でも、もう一度赤石岳に登ってみたい。想いが実現するチャンスが巡ってきた。Yonツアーで千枚、荒川、赤石縦走をするという。しかも、長い、長い千枚道を駒鳥池下まで車で入ってくれるというのだ。願ってもないチャンスに気を良くして同期入社のOtu君を誘ってメンバーに加えてもらった。ところが、予定日前に台風が接近し計画は、お流れに。台風一過、9/8からやり直しとなった。ただ、千枚林道は土砂崩れで通行不可。東尾根を登り赤石から千枚へと逆コースに変更された。下る頃には千枚林道の土砂は撤去される見通し。厳しい上りの東尾根を思い浮かべ一刻ひるんだが、このチャンスを逃せば後は無い。やっぱり行こう。
想定通り東尾根の登りは厳しかった。「赤いカラビナ」の会が主体となっているが、我々を含め寄せ集め軍団の感は免れず、統制も取れていなかった。ここを登るのは甥が赤石小屋(旧)の小屋番をしていた時、陣中見舞いに訪れた以来だ。彼が大学2,3年生の時だから35,6年前になる。何もかもいっぱい、いっぱいで17:50小屋着。へ~、これが建て直した小屋か、20ん年も経っているとは思えないほど立派できれいだ。明日の登りのことも忘れて飲み過ぎた。
2日目、富士見平では、これから縦走する荒川岳方面が見えていたが北沢源流からの登りから霧発生。稜線への登りも、やっと到達した鞍部も、さらに赤石岳までも眺望無し。山頂下の避難小屋では、Enoさんとパートナーが迎えてくれた。狭い小屋で暖をとりながら昼食、濡れた着衣をある程度乾かして出発。大聖寺平辺りで、ようやく晴れてきた。
荒川小屋では、富士山の夕焼けを眺めながら2次会、朝焼けに背中を押されて小屋を後にした。
ここからの登りも厳しいが、好天とお花畑に励まされ高度を稼いだ。中岳を通過、悪沢岳の手前で振り返って眺めた中岳が素晴らしかった。これは形として残したい。南アルプス全部を堪能しつつ千枚小屋着。縦走最後の夜とあって、またまた痛飲。最終日、駒鳥池までは指呼の間。お約束通り車で千枚道を駆け下り椹島に到着。白樺荘で温泉に浸かるサービスも受けて懸案の山行を終えた。

荒川中岳山頂に立つIK(右)と友人のOtu

山行の後、山陰への旅の準備が始まり暫く手につかなかった。年明けから原画作りを始める。A4に中岳をプリント、縦方向に1.15倍して高さを強調した。画の上に縦横の線を等間隔に引き格子を作る。f8号の紙には拡大した格子を描き桝毎の線を写していく。大きさは自室に飾れる最大サイズを考慮してf8に決めた。登山道がそれとなく判るように刻んだ。手前に小さくリンドウを入れて洒落たつもりだったが先生は歯牙にもかけなかった。摺りの段階で、手前の岩塊を何色か試した。最終的に黒っぽい色にして安定感が出るようにした。先生から山頂に朱を差すように言われ「えっ」と思ったが、やってみると、ご指摘通り浮き上がってきた、さすが。結果、自分でも気にいった作品となった。

追記
画を中岳避難小屋に掲げていただきたいと密かに想い続けていた。’23夏、会友のMasさんが赤石小屋のスタッフとして入山すると聞き、この画を託した。小屋の壁に掲げられた報告を拝見し、嫁ぎ先は変わったけれど想いが叶い嬉しい。

赤石小屋の壁に掲げられた版画

(2024年11月、IK記)

*  *  *

『山を彫る』シリーズのブログ掲載に気を良くしたIKさんが、続編を寄せてくれた。この「荒川岳」は、会20周年記念の栞表紙に使ってもいて外せない一枚だと思っていたから嬉しいことだった。
IKさんの赤石〜荒川三山縦走がいつだったのか、会報のバックナンバーを捜してみるとNo.175(2011年10月)に「南ア登り納めでも悔い無し」と題した短文の報告があった。今まで掲載の画と違って、この山行には同行していない。それに私が千枚岳〜荒川岳の稜線を歩いたのは1999年、それもガスの中のことで、画のような荒川中岳の姿は記憶に無いが、ふとMasさんが去年の赤石小屋出稼ぎの帰りの駄賃でこのコースを歩いていると思い出した。

荒川中岳(2023.9.26、Mas撮影)

なるほど、合点した。IKさんが記しているように、画はそのMasさんの手によって赤石小屋に掲げられた。三山縦走で小屋を訪れることがあったら、ぜひ、自分の目で見てきた荒川岳と画を見比べてみてほしい。


山を彫る(9)山小屋の主

2024-10-31 08:44:28 | 山を彫る

 初めての沢登りだった。着るものや、履くものが判らなかったので、聞き込みをして、それなりの準備をした。足回りは、この日のために地下足袋を購入、ザックは古くから持っていて、なかなかへこたれないデイバッグの底に穴を開け、水浸しになっても排水できるようにした。着替え他の装備は、それぞれビニール袋に入れて防水を図った。興津川の上流、田代峠への上り口に車をデポ、Ahさんの案内で、いよいよ沢に入る。早々に滝に出会った。手近にあった丸太を淵に渡し、危なっかしい足取りで一同通過。第2の滝は強烈だった。足が底に着かないほど深い淵を右から回りこみ、先行した青島さんがフィックスしてくれたザイルを頼りに、本流に足を取られながら体を引き上げた。8月末の山行で、相当暑いと思いきや、二つ、三つの滝を上がっただけで寒くなってきた。着衣が沢歩きに適していないことを思い知った。メンバー全員が沢初体験で難儀していることは、Ahさんには直ぐ判ったのだろう。早い時点で切り上げて、沢を離れ、登山道に出て、車のデポ地点に戻った。
 その日は、ヒュッテ「樽」に泊めていただいた。水汲み、薪運び、飯炊きを分担して、夕食の仕度が忙しい。囲炉裏の薪が、なかなか燃えないので小屋中煙が充満し、目に沁みる。既に飲っている好き者もちらほら。薪が充分燃え盛ったところで火を殺し、得られたオキで、いよいよメインディッシュ作りが始まった。Ahさんが予め馴染みの店で仕入れてくれてあった豚肉の塊を鉈で切っていく。囲炉裏越しに、煙の中で撮った一枚が後で役に立った。
 6号スケッチブックに原画を描いたところで先生から指摘されたのは、体の寸法のことである。手は、広げると、ほぼ顔をカバーする。また手は、顔より手前に来ているのでもっと大きくすること、手足の長さも他の部位と比較して、バランスをとっていくことを教えられた。
 そそくさと彫り、摺りあげた画は、自分でも納得できるものではなかったが、先生の眼も厳しかった。手がまだ小さい。頭の輪郭線は要らない。彫りすぎて画面全体が白っぽくなっていて軽い。などなど。
 アドバイスを元に、彫り、摺り直し。どうしても輪郭を彫ってしまうんだよなー。後壁の描き方や、脇の器も工夫を要することも言われた。3回目は、器を樽とし、後に背負子を付け加えた。ようやく仰ることが判るようになったので、4回目にチャレンジした。こうして完成したのが、この画である。モノトクロで題材も地味ですから決して見栄えのする画ではないが、版画を続けて行くうえで様々な収穫があり、大切な1枚となった。木版画と言えば文字通り木版に、見たこと、思っていることを彫って表現するが、いかに彫らずに済ますか、線を少なくして見る人の想像をかきたてるようにするかを学んだ。体の寸法についての基本的なことも知った。4回もやり直したことで、諦めずにやれば、何とかなることも体得でき、私の記念碑的な作品になっている。

【エピローグ】

1.画は完成し、市民文化祭や、勤めていた会社のOB作品展に出品したが、私の心中では、この画は、まだ完結していない。ヒュッテ「樽」に掲げさせてもらい、完結できる機会があれば嬉しい。
2.1年半、9回に亘っての投稿も今回で、終了します。きり良く10回まで続けるつもりでしたが以下の理由もあり、お終いです。
3.9/2~5までO先生門下生の作品展が開催されます。プラザ「おおるり」1階ホールは随分広く感じて、当初は10点揃えて出品しなければ壁が埋まらないように思えましたが、門下生が多く、たくさんの出品が見込まれてきましたので、これ以上頑張らないことにしました。
4.上記に併せて、版が残っているものを、擦り直してみようと思います。今まで掲載した中で、ご所望の作があれば、贈呈しますので、ご連絡ください。画だけなら無料です。額共の方は、申し訳ありませんが材料費2千円と、暫くの猶予をいただきたくお願いします。
 長らくのお付き合い、ありがとうございました。 〔完〕

(2010年8月、IK記)

*  *  *

鉈で肉を切り分けるAh氏

興津川支流の中河内最奥・樽の登山口からワンピッチ、沢を外れ右の尾根の乗越しが南に開けたわずかな平となった所に、小さな青い山小屋が佇んでいる。戸を開けると、燻った山小屋特有の匂いが漂ってきて、何とも言えず嬉しくなってくる。ヒュッテ樽は30年程前、若かりしAh氏が仲間の皆さんと共に手作りで建てた小屋である。管理、補修をしっかりされているせいだろう、歳月と共に深まったいく渋みはあっても、不具合なところは何もない。元小学校の廃材を利用したと伺っている小屋は、なるほど壁の羽目や窓などに古い木造校舎の雰囲気が感じられるし、木の机、小さな椅子なども隅にあってなおさら愛らしい気になる。南の開けた側にはテラスがあって、風を感じながら移りゆく山裾を眺められる。カップなどを傍らに置いて、うつらうつら想いを巡らすのも良さそうだ。(2005年1月『やまびこ』No.94)

山小屋の主Ah氏は当時、県岳連の遭対委員長で、2003年静岡国体山岳競技救護部の慰労会にIKさんのお供をしたのが、この小さなヒュッテに泊まった最初だった。
2005年8月、Ah氏に誘われIKさんほか仲間6人で興津川源流の沢登りに出かけた。

興津川源流部を滝を越えて遡る

――SHCの皆様、8月27日は私の好きな興津川源流へ足を運んでくれてありがとうございました。盛夏を過ぎ少し水が冷たくなる季節でしたが、皆様と一緒が冷たさを忘れさせました。台風後で若干水量がありましたが、かえってそれが水垢などを取り去り歩き良くしたと思っています。一年を通して源流を歩く人は、一部の釣人を除いて十人もないと思います。もう少し季節が早ければ岩タバコの花盛り、濃いみどりの葉の上に紫色の宝石が散りばめられ、目を細めます。時期の遅れた今回は、皆様との会話や協力して行動したことが其の代りとなり、良い思い出となりました。IK代表、Thさんは元より、Nhさん、Ak夫妻、Ohさんと旧知の如く会話が弾んだこともうれしかったです。(中略)夜のヒュッテは言う事なし、正に行った者の勝ち、来た者の勝ちの世界でした。(Ah氏の返信)

囲炉裏を囲んで最高の夜

あれからさらに20年も経って、ヒュッテは半世紀も小峠に建っていることになる。小屋の主・Ah氏は「元気なのは口だけ」と言いながらも、時々山頂から「Thさん、今○○山!」と電話をくださり、「行った者勝ち」という氏の人生のモットーを貫いている。画を見ていると、あの時の燻った匂いまでも思い出し、またヒュッテに泊まりたくなってきた。


山を彫る(8)八島湿原

2024-10-27 17:49:00 | 山を彫る

 霧ヶ峰、ここは私にとって不愉快な、というほどではないが愉快ではない思い出のある場所だった。昭和34年、日本楽器(現ヤマハ)に入社、設計課に配属された。当然18才の私らが最年少なのだが、ほとんどが20才周辺の若者で、当時流行っていた青年活動も盛んに行われていた。
 ようやく職場に慣れてきた8月盆休に、白樺湖へキャンプに行くことになった。入社後半年も経っていない身では、登山用具などあるはずもなく、リュックザックは親戚から借りて間に合わせた。靴も、スニーカーに毛の生えた程度のものを使うしか思い至らなかった。生憎、山行の直前に台風が襲来し、少なからぬ被害が出た。中央線が不通になり、なんとか列車が動いていた飯田線を利用して長野に向かった。飯田線を全線乗った人は少ないと思うが、とにかく長い。距離的には短いのだが、スピードが遅く、豊橋から辰野までの所要時間が長いのだ。間もなく座ることができるようになったが、難儀していた子連れをみて席を譲った。それから辰野まで何時間かかったのだろう、立ちっぱなしで通した。もとよりローカル線のこと、客の乗降が結構あり、空席もでたのだが、意固地になって立っていた。山のことは、ほとんど忘れたが、飯田線を立ちっぱなしで居たことだけは、記憶に強く残る。
 二つ目は、春休みに女神湖に行った、いや、行こうとしたことである。子供の春休みに合わせて、女神湖畔にあった会社の契約保養所を予約した。家族5人がブルーバードに乗り、当時は有料の精進湖道路を通って、一路女神湖を目指す。中央道に入ると降雪に見舞われた。雪は次第にひどくなり、とうとう長坂ICで閉鎖により先へ進めなくなってしまった。ICを降りて公衆電話で蓼科荘にキャンセルを伝えたが、宿の周りは雪が深く、車を乗り入れることが困難になっているとのことで、了解してくれた。宿泊を楽しみにしていた子供をなだめるのに苦労したが、その日の夜遅く家に戻った。
 二つの愉快でない出来事のせいではないだろうが、霧ヶ峰からは、なんとなく足が遠のいていた。
 '05/6ようやく機が熟し、霧ヶ峰に行けることになった。本番は、欠席になることが判っていたので、下見に参加した。この山の周辺は、昔からスキー、スケートのゲレンデとして開発が繰り返されていたため、山登りは我々レベルでも容易だった。私にとって日本百名山の26座目となった車山を越えて八島湿原に向かう。Nhさんと私は車山湿原を迂回し、車の回送のため八島湿原入口に先回りした。軽装の観光客を後にして、木道を進んだところで目を見張った。湿原全体が見渡せ、その超明るい景観に歓声を挙げてしまった。過去の苦い思い出を吹き飛ばすのに、充分な展開だった。湿原の中央に雪山がチョコンと出ているところが特に面白い。これは画になると、直感し写真を撮った、が‥‥。
 版画にするには、画が複雑すぎた。デフォルメする才を持ち合わせないこともあり、表したかったのは原っぱなのか、雪山か、散在する樹木か、焦点がボケてしまった。でも、この明るい景色には、また会いに行きたい。
「蛇足」:本番の日、「望月青年の家」で伝説の「油虫踊り」に参加できなかったことは、今も悔やまれる。
(2010年6月、IK記)

*  *  *

八島ヶ原湿原

車山のニッコウキスゲ

望月少年自然の家でのキャンプファイヤー

【2024年10月記】

この画の元になった2005年6月の蓼科山・霧ヶ峰の下見には、いつものごとく私も同行しているのだが、この時の写真は見つけることができなかった。代わりに「蛇足」でIKさんが触れている本番(2005年7月)の写真を上げてみた。こんな感想を残していた。

「今回は特にSHCらしい雰囲気の良い山行だった、と私は感じました。それは、蓼科山に登った、ニッコウキスゲを見たということだけでなく、SHCとしての一体感、会員同士の親近感を一層増すことができたからでした。これは何と言っても、キャンプファイヤーを演出してくれたOh君の手柄によるところ大でした。山はもちろん素晴しく、感動も多い。それに併せて、山を通じ人と触れ合い交感できることが、なお喜びを倍加させると思うのです。私はこの世でたった一人であるとすれば、おそらく山に登ることはないと思っています。」(2005年8月、会報『やまびこ』No.101)

本年9月、会山行で再び望月少年自然の家に泊った(本ブログ『事始めとなった八ヶ岳』)が、あの時の殊勲者Ohは既に鬼籍に入り、幻の「油虫」が再現されることはもちろん無かった。IKさんの「八島湿原」(八島ヶ原湿原)の画の明るさは、会のまだ青年期だった頃の活力に満ちた心持ちを映しているようにも感じた。

事始めとなった八ヶ岳 - 山の雑記帳

西天狗岳より東天狗岳を望む2024年9月28日/唐沢鉱泉〜西天狗岳9月の会定例山行は、望月少年自然の家に宿泊し初秋の北八ヶ岳を楽しむ。天気は当初の雨天予報が良い方向に転...

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