山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

精進湖へ続く巡拝の道

2025-02-02 11:17:40 | エッセイ

 1/26阿難坂峠から「三方分山」山頂へと急坂を上がっていく途中、この山名について話題となった。私は「三方を分ける山」という命名は、何のひねりもなく少し残念な名だと思っていたのだが、同行のNayさんは子供の頃に訪れた時から、そのものズバリの名が逆に印象に残ったと話した。山頂で北へ釈迦ヶ岳へと続く道を見送り、パノラマ台へと尾根を南下した。途中、精進峠と根子峠で精進湖からの道が上がっているが、いずれの峠でも西へ反(そり)木川の谷へと下っていくには急な斜面で、すでに道形も失せてしまっているようだった。
 翌日、山行の報告をまとめるために地理院地図を眺めていてふと思ったのは、どうも「五十集(いさば)の道」(魚介類の道)としての中道往還、阿難坂越えの道ばかりを気にしていたが、精進湖へと繋がる道は他にもあった、ということだった。だいぶ昔になるが、やはり会の山行で四尾連(しびれ)湖から蛾(ひる)ヶ岳へと歩いたことがあった。そして、その先の尾根道が大平山や釈迦ヶ岳をとおって三方分山へと続くことを知って、いつか歩いてみたいと思っていた。
 その尾根の南側が反木川の谷で、パノラマ台途上の峠名ともなっている「根子(ねっこ)」地名もここにある。国道300号(身延山麓・下部温泉と本栖湖を繋ぐ道)から小関で分かれた県道416号(折門小関線)が谷沿いに通り、精進峠西側の下り先となる反木川最奥の三ッ沢まで小さな集落が散在している。夏作、蔵屋敷の小字名をはじめ、奥には折門(おりかど)、御弟子(みでし)など、いかにも謂れのありそうな地名が多く見られる。どうも身延山と本栖湖・精進湖を繋ぐ古い信仰の道があったように思われた。
 富士山北麓に点在する湖が「富士五湖」と総称されるのは周知のとおりだが、この名称は近代になって富士山麓の観光開発が進むなかで定着していったもので、それ以前には富士山やその周辺に修行の場を求めた行者にとっては、巡拝、修行の場としてあった。そうした信仰の対象としての富士山周辺の湖沼には、今日の富士五湖に加えて志比礼海(四尾連湖)・明見(あすみ)海・須戸海(富士市・愛鷹山麓、須津川の出口付近)があって「富士八海(内八海)」と呼ばれていた。八海は富士山頂に参拝する際の身を清める「垢離精進(こりしょうじん)」の場所として認識され(「精進湖」の名はそのもの)、ことに江戸時代に富士講が盛んになると、行者たちは八海を結び巡拝するようになったという。

 先に記した四尾連湖から蛾ヶ岳、釈迦ヶ岳をとおって三方分山に至る尾根道も、そういう巡拝道のひとつであったことは間違いないだろう。してみると、精進湖から阿難坂を経てくる尾根道、本栖湖方面からの尾根道、そして四尾連湖からの尾根道が交わるジャンクションピークである「三方分山」の名は、それを示す道標としての役割があったように改めて思われた。富士講の成立以前においても、日蓮宗との関連や山岳密教の修験者たちの往来や、もちろん「塩の道」としての性格もあったことだろう。
 もうひとつ、これはGoogleマップを見ていて気づいたのは、「諏訪神社」の多さだった。県道416号沿いの反木谷には狭い範囲に6社が集中している。もっと古い時代に諏訪方面との結びつきがあった土地なのか、その地名などと共に興味がそそられた。

 以下、山梨県立富士山世界遺産センターの令和3年度企画展『富士八海を巡る』展示解説より「精進・本栖から志比礼海へ」を参考に掲げる。

 志比礼海(四尾連湖、市川三郷町)へ巡拝するには、精進海(精進湖)や本栖海(本栖湖)方面から険しい山道を行かなければならなかった。精進海からはまず阿難坂(女坂)を甲府方面に上り、途中、三方分山を目指して西に折れる。その後、尾根づたいに釈迦ヶ岳・八坂峠・アンバ峠・折門峠と進み、蛭ヶ岳(*蛾ヶ岳)から下る。一方、精進海の北西から三ッ沢峠(*現・精進峠)を越えて八坂・御弟子・折門の集落を抜け、蛭ヶ岳の西の西肩峠を目指す道もあった。
 文政6年(1823)、芙蓉亭蟻乗(ふようていぎじょう)は本栖海から志比礼海へ巡拝した。その道は「難所」が多く、「いこうべき茶店」もないと聞いて、馬を雇っている。帰りも本栖海へ出た。芙蓉亭が通った具体的なルートは明らかではないが、彼が信奉する「不二孝」(不二道)を開いた小谷三志(こたにさんし)も、文化5年(1808)、本栖海から志比礼海へ参った。そのルートは、本栖海北岸を西進、古関から芝草へ出て、蛭坂峠を越え久保へ下りる(いずれも身延町)。そして堀切・藤田(いずれも市川三郷町山保)の集落から志比礼海に至っている。道程は9里(約35km)余りとあるので、芙蓉亭が6里(約23.5km)と記したことに比べると遠回りになる。また三志は本栖からの「ねつこ(根子、身延町)越」の道があることも示している(「裾野八湖。豆州修行記」)。この根子に宿泊したのが大正初年に八海巡りをした大町芳衛(桂月)である。本栖海北畔から反木峠(*現・根子峠?)を越えて根子の集落に入り、「旅店」に投宿する。そこは「部屋というよりもむしろ物置」といった風情で、宿泊客も年間数十人という。宿の息子のオルガン、蒸し暑さ、蚤の多さに閉口しながら、翌日は峰山(身延町大磯小磯)から蛭ヶ岳を越えて志比礼海に着く。帰りは反木峠を下り、本栖海から足を延ばして精進海へ宿を取った(『絵入訓話』)。
 現在、根子の字山伏屋敷に「御内八海道供養」碑が立つ。大磯小磯村の「講中」の岸右衛門・小左衛門が「本願人」となり、50両以上の寄付金を集め、嘉永元年(1848)8月に建立したものである。寄付者には市川大門村(市川三郷町)の富士講・大我(たいが)講の講員と思われる者もいる。大我講は同村の大寄友右衛門が始めた講で、天保14年(1843)に忍草の八海(忍野八海)を「再興」したことで知られる。険しい山道の志比礼海に至るルートでは、行き倒れてしまう者もいたのだろう。供養碑は甲斐河内地方の富士講の活動を今に伝えている。

*印はtakobo4040の註

 

 

三方分山・パノラマ台 - 山の雑記帳

パノラマ台からのこの日の子抱き富士所属会の1月定例山行はスノーハイキングを期待しての企画であったが、残念ながら下見時(1/5)と同様に積雪は全く無し。三方分山に限ら...

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正義の人々

2025-01-13 16:58:17 | エッセイ

2012年7月の夏山合宿「会津駒ヶ岳」の4年前、良き相棒だったAmk親父らとここを訪れた時のこと。

*  *  *

正義の人々

 9月の連休に会津駒ヶ岳に行った時のことである。花と紅葉の狭間の時季とはいえ、国立公園となった人気の山で登山者の数は多く、比較的若い人達も目に付いた。この山の頂稜部は雲上の湿原となっていて、駒ノ小屋直下から中門岳までずっと二本の木道が続いている。歩き易そうな方を、あるいは花を見る時は近くの側へと、右に左に踏む道を替えながら歩いていく。対向者とのすれ違いも、低速“者”や駐“者”中の追越しも、それなりにスムースに運んでいくものである。
 駒ヶ岳山頂から先は人も少なくなり、池塘と草原の中を畝々と続く道を「気持いいね」と話しながら、中門岳を目指していた。前方から30才前後の女性が近づいてきた。我がパーティは7人、この時は無意識的に左の木道を一列で進んでいた。女性は単独で右の木道(我々と同じ側)を進んできた。平坦で上り下りの差もなく、先頭の私はてっきり単独の若い彼女が反対側に軽やかによけてくれるものと思い込んでいた。顔面鉢合わせまで近づいて、断固として道は譲らないという決意の表情で彼女が放った言葉は
「右側通行が常識です!」
唖然とした。が、この「チョー、気持ちいい」場所で言い争い、仲間の楽しい気分を害することは馬鹿げているので、ここはもっさりと右側に移った。後ろのメンバーも、各々もっさりと動きすれ違ったのだった。
 あるいは彼女は婦人警察官や交通指導員だったのかもしれないが、自らの〈正義〉の主張が貫徹され、無知で鈍重な中高年登山者に道を譲らしめたことに満足したのだろうか。山道は道路交通法が適用される公道ではない。よしんばこの山では「木道は右側を」ということがルールとなっているとしても、単独者が一歩方向を変えるのと7人がそれぞれ踏み替えるのとでは、すれ違いのお互いのスムーズさは一目瞭然だろう。私たちは、山道は上り優先である(これとて我彼の人数や技量、場所の状況など条件によりけりだが)とか、よける時は山側にとか、悪場では同じスパンに複数入らないとか、互いのパーティが行き交う時の基本をいくつか知っている。が、これはルールではなく、お互いが何より安全に、かつスムーズに通過するための方策で、つまりは臨機応変に対応するといった知恵というようなものではないか。
 木道はさらに先へと続いている。「どこまで歩くの?」「この道の果てまで…」などと言いながら進む。遠くに僅かな高みが見え、あの辺りまで続いているらしい。「この辺りが中門岳」という曖昧な表現の山頂標識を過ぎると暫くで、木道は池の周りをロータリー状になって終っていた。北西側は樹林となって落ちているようで、頂稜湿原の末端のようだった。ここまで来ると数える程の登山者で、木道の隅に腰掛け昼食とした。周囲は保護用のロープが張られ、木道から離れられないようになっているが、用足しのためだろうか一箇所だけロープが緩み、草原の外へと踏み跡が付いていた。メンバーの並んだ写真を撮ってあげようと、カメラマンが一歩この踏み跡に足を入れた。すると、横に並んで座っていたアベックの若者が突然、
「駄目じゃないですか、ロープの中に入っちゃ。そうして皆が入るから自然が破壊されてしまうんですよ。“いい齢”をして……、僕達の見本になる行動をとらなくちゃ駄目でしょ!」
 確かにおっしゃるとおりです。正論です。けどね…、と思ってしまう。トイレのある駒ノ小屋からここまで往復2時間半、湿原の続く稜線には隠れる場所もなく、だいいち木道からは外れられないようになっている。湿原の果てまで来て、その隅っこから樹林へと向う踏み跡が付いてしまうのも解ることなのだ。しかも皆遠慮して、既にある踏み跡を使わせてもらおうとするから次第にそれが濃くなっていく。「自然は保護しなくちゃ」という気持はそれなりにあるのではと思うのは、“いい齢”をした者の都合良い言い草か。厚顔無恥な中高年のバカ共を一喝した青年に、連れの彼女はきっと惚れ直したことだろう。
 最近、巷に様々な「正義の人々」が現れる。己の観念が世界の常識(グローバルスタンダード)であると信じている。その代表的な例が米国であることは言うまでもないが、およそ理解不能な犯罪の中にも、その人なりの「正義」があったりして始末が悪い。山を歩く行為は、観念ではなく現実である。その現実に対処するための、軽やかで柔らかい知恵を得ていくことだと思っている。

 歩く人間の思考は、書斎の思考にくらべるとずっと現実の光に影響される。不断に外光の変化があり、それが歩行者の頭や胸に絶えず〝自分は世界の一部なのだ〟という意識を植える。ドストエフスキーの地下生活者的思考――牢獄に閉ざされたものの暗い「世界は私だ」式観念、あるいは観念の抽象的図形から生じる哲学や、ユダヤ的復讐のファンタジーに閉ざされっぱなしになることは滅多にない。
 歩く人間のうち、山へ登る人間はさらに単純な水平的比例の思考から容易に飛躍できる生理をもっている点で、本来軽々している。軽いということは薄っぺらだということでは決してない。ダビデはゴリヤテよりも軽薄ではないという意味でだ。
(辻まこと『山からの言葉』より)

(2008年11月『やまびこ』140号「巻頭言」)

 

 

山を彫る(番外篇)会津駒ヶ岳 - 山の雑記帳

会津駒ヶ岳1駒ノ小屋が見えてきた、稜線まであとわずか愛唱歌「夏の思い出」の中の一節に「はるかな尾瀬遠い空‥」とある。尾瀬が好きで何度か行っているうちに燧ケ岳、至仏...

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駒ヶ岳の由来

2025-01-11 10:49:20 | エッセイ

前の記事、山を彫る「会津駒ヶ岳」に関連して旧稿を掲載する。

*  *  *

 6月定例山行「箱根駒ヶ岳」、7月夏山合宿「会津駒ヶ岳」と、二つの駒ヶ岳が連続することになった。さて、全国には幾つの駒ヶ岳があり、その山名は何処から由来しているのだろうか。
 駒ヶ岳と聞くと、まっ先に思い浮かぶのは南アルプス(赤石山脈)の甲斐駒ヶ岳だろう。「山の団十郎」の異名を取る凛々しい姿が里から直にすくっと立上がり、中央道などからもその個性的な姿が判りやすく、登山者はすぐに覚える山の一つだ。2966メートルの標高は、全駒ヶ岳の最高峰でもある。伊那谷を隔てた中央アルプス(木曽山脈)には、同山脈の主峰、木曽駒ヶ岳がある。標高で甲斐駒にわずか10メートル及ばず、伊那谷では両峰をそれぞれ東駒ヶ岳、西駒ヶ岳と区別している(木曽駒ヶ岳は木曽谷からの呼称)。木曽山脈には南駒ヶ岳もある。これに先日の箱根駒ヶ岳を加えた辺りが、静岡の我々には普段の守備範囲といったところだろう。

 電子国土で「駒ヶ岳」を検索すると上表の18座が挙げられた。多くは地図上の山名は単に「駒ヶ岳」で、箱根、会津、甲斐などという地域名を冠した呼び名は俗称である。以前は、その地に住む人々は地元のその山を単に「駒ヶ岳」と呼んでいたと想像する。分布図を見ると、東日本に偏在していることが判る。石井光造氏は『山DAS』(白山書房)「雪形の山」で「そのほとんどが、残雪が山に作り出す馬の形からの山名である。残雪が多く、遅くまで雪の残る東日本にしか駒ヶ岳がないのは当然だと、当たり前のことに感心した。」と記すが、さすがに箱根に毎年雪形が現れるような積雪は無いだろうし、最高峰・甲斐駒ヶ岳も雪形は聞かない(あるいは、白い花崗岩の岩肌に馬の姿が見えるのだろうか?)。また、馬の雪形に由来する山は白馬岳などあるが、なぜ「駒(こま)」であるのかという疑問が残る。
 一方で、古代の高麗(こま)人〔(前)高句麗〕進出に由来するとの説もある。登山文化史研究家の谷有二氏は、「六、七世紀の頃、朝鮮半島は新羅、百済、高句麗の三国に分かれて戦乱に明け暮れていた。あるとき、それを避ける一団が日本に向かって船出して大磯の浜に上陸してきた。大磯の高麗(こま)山(一六七メートル)に彼らは祖先をまつり、相模平野一円の開拓に乗り出した。そのことは箱根神社の『権現縁起絵巻』にも延べられている。やがて彼らは、箱根にそばだつ高峰の上に、高麗神社を祀ったとあるから、箱根駒ヶ岳の実態は高麗ガ岳ということになる。」(『山の名前で読み解く日本史』より)と述べている。相模、武蔵、甲斐にかけて朝鮮渡来系の地名が多く残ることや、馬の別称としての駒(koma)は朝鮮古語由来との説とも一致する。甲斐国巨摩(こま)郡(現在は、中巨摩郡、南巨摩郡が残る)の地名も高麗由来が有力なことから、おそらく甲斐駒ヶ岳もこの系統ではないかと思われる。また、これより以前から高麗人は日本海を渡来していた。駒ヶ岳の分布が北陸から奥羽山脈西側にかけて多いのは、単に積雪量の多さ(雪形のできやすさ)だけではなく、これを物語るものかもしれない。つまりは高麗人のランドマークとしての駒ヶ岳である。
 さて、会津駒ヶ岳(点名=岩駒ヶ岳)は一般的には残雪期に駒の形の雪形(黒馬=ネガ形)が現れることからとされているが、山麓の檜枝岐にある駒嶽神社の存在(駒形神社など全国に駒の付く神社は約150社あるが、7社を除き東日本=琵琶湖以東にあるのは駒ヶ岳の分布に近い)や、近隣の越後駒ヶ岳との関連などに興味が湧く。この駒嶽神社で奉納される檜枝岐歌舞伎は有名で、舞台は古代ローマの円形劇場のように拝殿に向かって建てられている(国指定重要有形民俗文化財)。檜枝岐には、この他にも星・平野・橘の三姓がほとんどであることや、これに因んだ平家落人伝説や鯉幟を上げない風習など、人口密度が全国で最も低い山間の小さな村は、尾瀬の玄関口だけではない謎めいた魅力を持っている。
 もう一つ興味をそそるのは、旧沼田街道(現在の国道401号線)の存在。国道401は会津若松と沼田を結ぶ道だが、群馬側大清水から福島側七入までは尾瀬沼を挟み、いわゆる幻の国道=点線(登山道)国道であり、群馬・福島県境は自動車道が存在しない唯一の県境となっている。沼田街道は、かつては会津と上州を結ぶ交易路として利用され、会津側からは米や酒、上州側からは油や塩・日用雑貨などが尾瀬沼の畔の三平下辺りで中継されていたようだ。また、幕末の戊辰戦争の際には、佐幕派の会津軍が大江湿原に防塁を築き抵抗したことは、あまり知られていない(実際には尾瀬を越え戸倉で交戦)。今回の合宿の宿泊地である七入から道行沢沿いに沼田峠に至る破線道も旧沼田街道であり、時間があれば少し辿ってみるのも面白い。
 山間の閉塞集落と思える檜枝岐も、歌舞伎の存在や街道としての歴史があり、会津駒ヶ岳への登山だけでなく、付随する様々な好奇心を持って臨めば一層の楽しみが得られそうである。加えて、原発事故によるこの地の現状や、我々登山者への影響、成すべきことなども少し考えてみよう。

(2012年7月『やまびこ』184号「月々の山」)


「南アルプスの三角点」について

2024-11-25 14:22:28 | エッセイ

資料1

資料2

「第7回南アルプス写真展」資料1「南アルプスの三角点」、資料2「静岡県山岳番付」を興味深く拝見しました。「番付」につきましては、納得の山もあり、物言いをつけたい山もあり、それぞれの価値観の違いが面白いということでした。一方、「南アルプスの三角点」につきましては、次の点で少し疑問がありました。
一つは、タイトルの「南アルプスの三角点」という名称ですが、資料にあるのは静岡県内に限られています。“南アルプスの”といった場合には当然、長野・山梨両県も含まれると思います。また、資料では南アルプスの範囲にいわゆる深南部と白峰南嶺の続きとして安倍東山稜も含まれていますが、その中で三等の取捨の基準はどこにあるのかが不明でした。二つ目は“三角点”としていますが、資料に載るのは三角点が埋設された山(ピーク)であって、尾根途中にある三角点はごく一部(「蕨段」)を除いて上げられていません。このようなことを考慮しますと、タイトルは「静岡県内南アルプスの三角点峰」とでもするのが本資料の正確な標記かと思いました。

資料で省かれている三角点を上げてみます。(図参照)

①Ⅲ伊那荒倉(2698.0m 北荒川岳)
仙塩尾根上のピークだが、「伊那」と点名に付くとおり、山頂が伊那側にあることが外された理由だろうか。

②Ⅲ小西俣(2253.8m)
小河内岳北の前小河内岳(2784m)東尾根上の小ピーク。

③Ⅲ西小石(2827.9m)
東岳(悪沢岳)北尾根上。

④Ⅲ蛇が沢(2007.0m)
西俣悪沢北側の枝尾根上。

⑤Ⅲ万斧(2068.6m)
白峰南稜2159標高点P西尾根上の明瞭なピーク。但し登山道は無い。

⑥Ⅲ奥槙沢(2564.4m)
小赤石尾根上、赤石小屋南東200mほどの小ピーク。登山道は西側を巻くが、「小屋裏展望台(名なし三角点)」と称し標識及びトレースは有る。

⑦Ⅲ小石下(1586.8m)
椹島から千枚岳への登山道上の展望地。同じ千枚道上にあって蕨段が「取」で、小石下が「捨」は何故だろうか。

⑧Ⅲ兎岳(2799.8m)
主稜線上の兎岳山頂(2818m)から南西に200mほど長野県側。伊那荒倉と同様に長野側にあることが外された理由か、あるいは山頂ではないからか。しかし、隣の聖ノ岳(2978.7m)も奥聖岳(2982m)山頂ではない。

次は、深南部で外された三角点峰。尾根上の小ピークなどは最初から外した。

⑨Ⅲ千頭山(1946.4m)
池口岳南峰南尾根上の山。光岳の好展望地として知られたが、支尾根上ということで外されたのか。

⑩Ⅲ黒沢山(2123.4m)
中ノ尾根山から南下する榛原郡界尾根上のピラミダルな山。

⑪Ⅲ合地山(2104.9m)
中ノ尾根山から寸又川に向かって下る尾根上、「合地山」名のピーク(2149m)南にある三角点ピーク。これも支尾根上という判断か。

⑫Ⅱ諸ノ沢山(1750.4m 諸沢山)
合地山の尾根をさらに南下。支尾根上ではあるが、この山は二等三角点である。

⑬Ⅲ六呂場(1748.0m 六呂場山)
黒沢山から榛原郡界尾根をさらに南下。

⑭Ⅲ五葉沢(1796.3m 五葉沢の頭)
小無間山南西尾根、小無間小屋の立つピーク。

⑮Ⅱ奥仙俣(1513.4m アツラ沢ノ頭)
安倍奥西山稜、井川峠南側。「静岡県民の森」内の目立たないピークだが二等三角点峰。

こうしてみますと三角点は全ての主要ピークに設置してあるものではなく、また標高や山頂(最高地点)とも基本的には関係がないことが分かります。したがって、“三角点の有無”という視点で南アルプスの山々を俯瞰するのは少し無理があると思いました。特段、“番付”の材料にはならないということです。日本第二位の高峰・3193m北岳(3192.5m「白根岳」)は三等三角点ですし、第三位の3190m奥穂高岳には三角点そのものが設置されていません。その意味では、一等三角点最高峰である我が赤石岳は立派(?)なものです。赤石岳に隣接する県内の各一等三角点との距離は、毛無山35km、大無間山23km、熊伏山33kmとなります。

静岡県の一等三角点

蛇足ですが、奥聖岳山頂と三等三角点「聖ノ岳」の位置は一致しないことは前述しましたが、聖岳の最高地点は前聖岳(3013m)ですから、地理院地図には三つの標高が記載されています。さらに、わが国最高峰の富士山剣ヶ峯は単一の狭い山頂の範囲で、①電子基準点「富士山」3774.9m ②二等三角点「富士山」3775.5m ③富士山最高地点(剣ケ峰)の標高3776m(二等三角点標石より北へ約12m)と三つの標高が存在することになります。


甲駿交流の道[樽峠]

2024-11-08 16:09:58 | エッセイ

平治ノ段から富士山

2024年10月31日記事「山を彫る(9)山小屋の主」に関連して

【2010年2月記】

 貫ヶ岳は山梨県南部町の山だが、私たち静岡人からすると、興津川流域の山々の続きの中にあるピークとして捉えられる。駿河から甲州側に貫かれた、突き刺さった尾根の末端なのである。この興津川流域の山々に私が近しさを感じるのは、何と言っても青島秀也さんの山小屋「ヒュッテ樽」の存在が大きい。初めて貫ヶ岳を訪れたのも「ヒュッテ樽」での泊り宴会のついでだった。晩秋の日、二日酔いの足で辿った平治ノ段からの尾根道はリンドウの花が咲く「お嬢さんの散歩道」で、富士が大きく望め駿河湾は眩しく光っていた。
 山を歩いているとき海が見えると何故か嬉しくなる。国道52号線を通ると、建設中の中部横断自動車道早期全線開通を訴える「君は太平洋を見たか……」の看板を目にするが、海を見たいという感覚は山国の人々にとっても同様に、大昔から染みついたものだったろう。甲駿国境を越えるルートは幾つかあるが、地図を眺めれば静岡(駿河)の最も薄い地点(海に近い場所)が樽峠周辺であることに気付く。また標高724mの樽峠は、この山域の最低鞍部となる。かつて武田信玄はこの峠を越え駿河に侵攻したと伝えられることには、充分に納得できるのである。
 タルという言葉は「弛む」から来た山塊の鞍部(峠)を指すものだが、「樽(たる)」という地名は国境の峠そのものを直截に呼んだものではないかと思う(樽地名の謂れは諸説あるが)。山国甲斐からは、あのタル(峠)を越えれば明るい海へ出る。樽峠に立つとき、そんな昔の人々の強い想いを感じるのだ。
 なお2008年、日本山岳会山梨支部創立60周年事業「登山史を歩く」の一つに「樽峠」があり、以下に『岳人』誌掲載報告の一部を転載する。

樽峠の地蔵尊

 樽峠を下りたら茶畑だった。峠の北側(山梨県南部町)は、木材の生産地として知られ、杉やヒノキのきれいな植林地、南側(静岡市清水区)は、美しく刈り込まれた茶畑が斜面に広がっていた。寒さの厳しい甲府盆地の者にとって、樽峠は暖かい国への入り口だったに違いない。
 富士川右岸の甲駿国境は、貫ヶ岳の平治ノ段から樽峠、高ドッキョウ、徳間峠、田代峠、青笹山、十枚山と続く。この中で海に一番近い峠が樽峠だ。峠の北は南部町石合の集落、南は清水区樽の集落。両者の交流路として古くから使われてきた。
 峠の地蔵さんの前で、幕末の峠の風景を思った。三度笠、合羽、腰に一本刀を差した男たちの姿である。甲州側が黒駒の勝蔵、竹居のども安、津向(つむき)の文吉、駿河側が清水の次郎長、大政、小政、和田島の太左衛門ら…。峠を息も切らせず越えて行く。巻き起こる一陣の風。
 次郎長と勝蔵の出入りは数多い。勝蔵らが清水湊に向かうとき、どの道を使ったのだろうか。富士川を舟で下ったのでは目立ち過ぎる。富士川沿いの道も同様だ。徳間峠や田代峠、富士宮経由だと遠回り、目立たず、一気に駈け下りて行くには樽峠しかない。峠道を歩いて、そう実感した。
 樽から茶畑の谷を駆け下れば興津川に出る。太左衛門親分の和田島はすぐそこだ。さらに清水へ急ぐ勝蔵たち。逆に和田島から樽峠を越えて甲州に走る次郎長たち。
 維新前夜の侠客たちが本当にこの峠を越えたのかどうか。寡聞にして想像の世界になるが、位置関係からすると可能性は高い。樽峠を歩けたことで知った歴史の面白さだった。(記・深沢健三 『岳人』№752「登山史を歩く1」より転載)

ヒュッテ樽

 

 

山を彫る(9)山小屋の主 - 山の雑記帳

初めての沢登りだった。着るものや、履くものが判らなかったので、聞き込みをして、それなりの準備をした。足回りは、この日のために地下足袋を購入、ザックは古くから持っ...

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