山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

「南アルプスの三角点」について

2024-11-25 14:22:28 | エッセイ

資料1

資料2

「第7回南アルプス写真展」資料1「南アルプスの三角点」、資料2「静岡県山岳番付」を興味深く拝見しました。「番付」につきましては、納得の山もあり、物言いをつけたい山もあり、それぞれの価値観の違いが面白いということでした。一方、「南アルプスの三角点」につきましては、次の点で少し疑問がありました。
一つは、タイトルの「南アルプスの三角点」という名称ですが、資料にあるのは静岡県内に限られています。“南アルプスの”といった場合には当然、長野・山梨両県も含まれると思います。また、資料では南アルプスの範囲にいわゆる深南部と白峰南嶺の続きとして安倍東山稜も含まれていますが、その中で三等の取捨の基準はどこにあるのかが不明でした。二つ目は“三角点”としていますが、資料に載るのは三角点が埋設された山(ピーク)であって、尾根途中にある三角点はごく一部(「蕨段」)を除いて上げられていません。このようなことを考慮しますと、タイトルは「静岡県内南アルプスの三角点峰」とでもするのが本資料の正確な標記かと思いました。

資料で省かれている三角点を上げてみます。(図参照)

①Ⅲ伊那荒倉(2698.0m 北荒川岳)
仙塩尾根上のピークだが、「伊那」と点名に付くとおり、山頂が伊那側にあることが外された理由だろうか。

②Ⅲ小西俣(2253.8m)
小河内岳北の前小河内岳(2784m)東尾根上の小ピーク。

③Ⅲ西小石(2827.9m)
東岳(悪沢岳)北尾根上。

④Ⅲ蛇が沢(2007.0m)
西俣悪沢北側の枝尾根上。

⑤Ⅲ万斧(2068.6m)
白峰南稜2159標高点P西尾根上の明瞭なピーク。但し登山道は無い。

⑥Ⅲ奥槙沢(2564.4m)
小赤石尾根上、赤石小屋南東200mほどの小ピーク。登山道は西側を巻くが、「小屋裏展望台(名なし三角点)」と称し標識及びトレースは有る。

⑦Ⅲ小石下(1586.8m)
椹島から千枚岳への登山道上の展望地。同じ千枚道上にあって蕨段が「取」で、小石下が「捨」は何故だろうか。

⑧Ⅲ兎岳(2799.8m)
主稜線上の兎岳山頂(2818m)から南西に200mほど長野県側。伊那荒倉と同様に長野側にあることが外された理由か、あるいは山頂ではないからか。しかし、隣の聖ノ岳(2978.7m)も奥聖岳(2982m)山頂ではない。

次は、深南部で外された三角点峰。尾根上の小ピークなどは最初から外した。

⑨Ⅲ千頭山(1946.4m)
池口岳南峰南尾根上の山。光岳の好展望地として知られたが、支尾根上ということで外されたのか。

⑩Ⅲ黒沢山(2123.4m)
中ノ尾根山から南下する榛原郡界尾根上のピラミダルな山。

⑪Ⅲ合地山(2104.9m)
中ノ尾根山から寸又川に向かって下る尾根上、「合地山」名のピーク(2149m)南にある三角点ピーク。これも支尾根上という判断か。

⑫Ⅱ諸ノ沢山(1750.4m 諸沢山)
合地山の尾根をさらに南下。支尾根上ではあるが、この山は二等三角点である。

⑬Ⅲ六呂場(1748.0m 六呂場山)
黒沢山から榛原郡界尾根をさらに南下。

⑭Ⅲ五葉沢(1796.3m 五葉沢の頭)
小無間山南西尾根、小無間小屋の立つピーク。

⑮Ⅱ奥仙俣(1513.4m アツラ沢ノ頭)
安倍奥西山稜、井川峠南側。「静岡県民の森」内の目立たないピークだが二等三角点峰。

こうしてみますと三角点は全ての主要ピークに設置してあるものではなく、また標高や山頂(最高地点)とも基本的には関係がないことが分かります。したがって、“三角点の有無”という視点で南アルプスの山々を俯瞰するのは少し無理があると思いました。特段、“番付”の材料にはならないということです。日本第二位の高峰・3193m北岳(3192.5m「白根岳」)は三等三角点ですし、第三位の3190m奥穂高岳には三角点そのものが設置されていません。その意味では、一等三角点最高峰である我が赤石岳は立派(?)なものです。赤石岳に隣接する県内の各一等三角点との距離は、毛無山35km、大無間山23km、熊伏山33kmとなります。

静岡県の一等三角点

蛇足ですが、奥聖岳山頂と三等三角点「聖ノ岳」の位置は一致しないことは前述しましたが、聖岳の最高地点は前聖岳(3013m)ですから、地理院地図には三つの標高が記載されています。さらに、わが国最高峰の富士山剣ヶ峯は単一の狭い山頂の範囲で、①電子基準点「富士山」3774.9m ②二等三角点「富士山」3775.5m ③富士山最高地点(剣ケ峰)の標高3776m(二等三角点標石より北へ約12m)と三つの標高が存在することになります。


山を彫る(番外篇)三方分山

2024-11-23 10:07:59 | 山を彫る

三方分山西面の展望図

私はこの山が好きだ。まず名前が良い。“サンポウブンザン”山の名前としては珍しい字面である。名前の通り山頂から三方へ尾根が張り出している。頂きでは判りにくいが地図上で見ると見事に三等分されている。次にロケーションが良い。定例山行での上り道は中道往還であった。駿河から甲州へ抜ける街道のひとつ。駿河湾で獲れた魚を担いでこの峠を越えた。沼津からここまでの道のり、更に峠を下り上九一色村(古関)までの距離を測ると想像し難いが紛れもないことだ。上り始めの精進集落の佇まいは、それとなく歴史を感じさせる。峠を西進すれば気持ち良い尾根を通って小一時間で三方分山に着く。富士山方面は切り開かれていて明るい。西側は樹木が茂り、眺めが遮られるが木の間越しに南アルプスが見える。あのピークはどこだろう?眺めを楽しんだら南南西への尾根を急降下。精進峠を過ぎた辺りより精進湖が現れ富士山がますます大きく見えてくる。大室山を懐に抱いた“子抱き富士”は面白い。続く尾根筋は快適だ。根子峠を過ぎ、ひと歩きでパノラマ台に出た。前にも増して富士山がドーンと在った。素晴らしい。上り口から山頂へ、更にパノラマ台へ、このコースは本当に良い。
付け足しになるが、アクセスが良いことを挙げる。広々とした駐車場の存在もありがたい。時間的、体力的に三方分山が無理な時でもパノラマ台往復も可、十分に眺望を楽しめる。

阿難坂方面から望む三方分山

パノラマ台からの子持ち富士

2013/1/13積雪期の山行を彫った。良いアイデアを思い付いたので山頂から西を眺めた構図とする。立川さんにお願いして山頂から見える南アルプスを表してもらった。同定された山々を木の間越しに見えるように配置した。際立つピークは東岳(悪沢岳)だった。左寄りの木と木の間に置き、続く山並みは木に遮られたり、見えたりしながら北に連なり、右寄りの樹間に北岳が在る。原画の段階での先生からのアドバイスに従い倒木を追加、なるほど。

蛇足
定例山行の際、斎藤、小沢、池田は精進峠から集落へのショートコースを選択した。急坂を一気に下り集落近くまで来て、ルートを見失った。ボサを通して集落の屋根が見える程の位置だったから右往左往している間に道が見つかった。近道のつもりだったが通る人は少なく踏まれていないようだった。後に続く方あれば注意あれ。

(2024年11月、IK記)

*  *  *

阿難坂(女坂)

駿河・甲斐を結ぶ街道の一つ中道往還は、IKさんが触れられているとおり「魚の道」でもあった。吉原(富士市)を起点に富士山西麓を通り、精進湖西岸から阿難坂(女坂)1215mで御坂山地を越え、さらに古関(旧上九一色村)からは右左口(うばぐち)峠855mを越えて、甲府まで20里の道程だった。朝、沼津沿岸から揚げられた海産物は、暑い日中を避けて夕方から夜通し馬なども使って運ばれ、翌朝には甲府の魚問屋に並んだという。甲府周辺は、内陸へ生魚を運べる限界である「魚尻線」にあたり、中道往還は別名「五十集(いさば)の道」(魚介類の道)とも呼ばれた。現在、山梨県は人口あたりの寿司屋の件数が日本一、またマグロの消費量が静岡県に次ぐというほどの魚(マグロ)好きは、中道往還あってのことだったのだ。なるほど、山梨の長男妻実家で出された料理の刺身が旨いものだったことを思い出した。山梨土産と言って、中央道の談合坂SAでアワビの煮貝を買ってきて、驚いたこともあった。現在の中道往還といえるR358・精進湖道は中部横断道開通前には、大菩薩嶺など山梨東部の山行によく利用した道だった。

 


三国山稜ー富士山に最も近い山

2024-11-21 09:57:19 | 浮世絵の山

静岡・神奈川・山梨三県境の三国山(2019年1月)

 2015年度から16年度にかけ、当会20周年記念事業の一つとして『富士山周辺の山々』を行った。富士山外周の山々を、月々の定例山行や合宿山行を通じて、四季折々の富士山の姿を眺めながら繋ごうというもので、その実績は20周年記念展におけるメイン展示として発表された。が、実は「繋ごう」とはしたものの諸事情で抜け落ちてしまった部分があって、その一つが「三国山稜」ということになる。

三国山頂2005年

 三国山稜というのは、山中湖東南岸の切通峠から篭坂峠までの小さな山稜を称していると思われる。山中湖の湖面標高が982mに対し、山稜中の最高地点が大洞山1383mであるから、穏やかな尾根の容姿と相まって、湖畔から見れば丘のようなものだ。大きな山域の括りでいえば、菰釣山などから尾根続きの丹沢山地西端にあたる山域で、名前のとおり駿河、甲斐、相模の三国境となっている。この山稜の魅力の一つは、カヤトで遮るものの無い鉄砲木ノ頭山頂からの眺望。山中湖を前景に長く裾を引く富士山東面と、その右には富士五湖を囲む山々、さらに背後には南アルプスの白い稜線が凛と連なる贅沢なものだ。中腹のパノラマ台までは車で上がれることもあって、大勢の観光客やカメラマンで賑わっている。この明るく派手な様相は、鉄砲木ノ頭から南下し三国峠を越えると一変し、ブナ、ミズナラ、カエデなどの広葉樹林となって内省的な雰囲気を醸し出していて、その対比が面白い。とは言え、葉をすっかり落とした冬の尾根に暗さはなく、1300メートル前後の広くゆったりとした尾根が畝々と続く山道に心も穏やかになるような気がする。雪の道となれば尚更のこと、その静かな明るさを愉しめそうなのだが、時折下から響く富士スピードウェイのエンジン音に俗世間に引き戻されてしまうのがヤレヤレである。

富士山頂から20km圏内の山

 さて、20周年の『富士山周辺の山々』で歩いた尾根は、箱根を除いて富士山頂(剣ヶ峰)から概ね20㎞内外であることが掲げた地図から解る(別に20周年を掛けた訳ではないが…)。三国山稜をみると、最西端に立山(たちやま)(1325m)というピークがあって、ここから富士山頂までの距離は約13.5kmとなるから、大室山などの側火山を除けばここが富士山に最も近い山ということになる。島田市役所から八高山頂までがほぼ同距離であるから、あの場所に富士山が聳えていることを想像すれば、その迫力が窺える。立山展望台からの眺めやいかに……。この三国山稜と富士山との近さと地形的な繋がりも興味深い。「本州上の全ての山は尾根で繋がっている」というのは、読図する上での大事なセオリーの一つだが、独立峰である富士山もこの論に洩れず、その接合部分が立山から下った篭坂峠であり、そこから幾つかのコブを上下しながら小富士へと尾根は繋がっていく、そういう場所なのである。丹沢山地と富士山との誕生を含めた関係の深さも示しているように思える。

葛飾北斎『甲州三嶌越』(富嶽三十六景)

 ところで、富士山への関心は江戸人も同じで、有名な葛飾北斎の『富嶽三十六景』は大ヒットのシリーズとなった。気をよくした版元の西村屋与八は、さらに十図を追加出版して、「三十六景」と謳いながら全46図の構成になったのだという。その〝四十六景〟の中で、最も富士山に近い場所から描いたとされるのが、29番『甲州三嶌越』。〝三嶌(三島)越〟であるから、旧鎌倉往還(現R138)を甲州側から三島へ向けて越える場所、即ち篭坂峠辺りと推定されている。この画を眺めると、目に飛び込むのは富士山というよりもまず中央に配した杉の巨木で、数人の旅人が幹を取り囲みその大きさを確かめている様子が、今でも〝あるある〟感があって面白い。左右には柴刈り休憩中のキセルを吹かしながら少し自慢げな様子の地元おじさんや、〝何やってんだか〟という感じで通り過ぎるおばさんの姿もあって、動的なストーリー性のある構図に、さすが北斎先生と感心する。『富嶽三十六景』各画の視点を考察、検証している久保覚氏は次のように解説している。

 この画は通説通り、籠坂峠から見た富士山ですが中央の大きな木は当時から現在まで存在が確認されていません。特に富士山の東側は宝永の噴火の影響を直接受けており、火山灰等がかなり堆積した場所でもある理由から巨木が無事でいる理由も薄いと考えられます。
 おそらく北斎が巨木を配置した理由は「宝永火口」を隠すためという説はおおよそ正しいと思います。また、この巨木は笹子峠の「矢立の杉」を拝借したと個人的に考えています。北斎自身も「北斎漫画」の中でも「矢立の杉」を描いていますし、広重も「諸国名所百景」の中で「矢立の杉」を描いています。広重に至っては北斎と同じく旅人が巨木の大きさを測るために腕を広げて木の周りに寄り添っています。北斎も「矢立の杉」を見たときの感動を富嶽三十六景のどこかで使用したかったに違いありません。理由はどうであれ、峠道の高度感と大変さが巨木と休憩によって程よいバランスが保たれているように感じるのは私だけでしょうか?
(『富士五湖TV』サイト内「浮世絵に見る富士山」より)

 

葛飾北斎の甲州三島越(富嶽三十六景) - 富士山はどの場所の視点から描かれているのか?

富士山の視点は籠坂峠。富士山の稜線は中央の木の輪郭を使用しており、従来にない新発見です。

Fujigoko.TV

 

 三国山稜には〝三嶌越〟程の巨木は無いが、潔い冬木立の尾根道を歩きながら、最も近い冬富士の眺望を存分に味わいたい。

(2018年12月、『やまびこ』No.261)

 

三国境の山 - 山の雑記帳

静岡・神奈川・山梨三県境の三国山(2019年1月)「三国山」という名は、駿河、甲斐、相模の三国境(みくにさかい)ゆえに付けられたものだが、同様の三国境の場所にはどんな...

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山を彫る(番外編)荒川岳

2024-11-13 11:57:03 | 山を彫る

加齢に伴い南アルプスは遠のいていった。でも、もう一度赤石岳に登ってみたい。想いが実現するチャンスが巡ってきた。Yonツアーで千枚、荒川、赤石縦走をするという。しかも、長い、長い千枚道を駒鳥池下まで車で入ってくれるというのだ。願ってもないチャンスに気を良くして同期入社のOtu君を誘ってメンバーに加えてもらった。ところが、予定日前に台風が接近し計画は、お流れに。台風一過、9/8からやり直しとなった。ただ、千枚林道は土砂崩れで通行不可。東尾根を登り赤石から千枚へと逆コースに変更された。下る頃には千枚林道の土砂は撤去される見通し。厳しい上りの東尾根を思い浮かべ一刻ひるんだが、このチャンスを逃せば後は無い。やっぱり行こう。
想定通り東尾根の登りは厳しかった。「赤いカラビナ」の会が主体となっているが、我々を含め寄せ集め軍団の感は免れず、統制も取れていなかった。ここを登るのは甥が赤石小屋(旧)の小屋番をしていた時、陣中見舞いに訪れた以来だ。彼が大学2,3年生の時だから35,6年前になる。何もかもいっぱい、いっぱいで17:50小屋着。へ~、これが建て直した小屋か、20ん年も経っているとは思えないほど立派できれいだ。明日の登りのことも忘れて飲み過ぎた。
2日目、富士見平では、これから縦走する荒川岳方面が見えていたが北沢源流からの登りから霧発生。稜線への登りも、やっと到達した鞍部も、さらに赤石岳までも眺望無し。山頂下の避難小屋では、Enoさんとパートナーが迎えてくれた。狭い小屋で暖をとりながら昼食、濡れた着衣をある程度乾かして出発。大聖寺平辺りで、ようやく晴れてきた。
荒川小屋では、富士山の夕焼けを眺めながら2次会、朝焼けに背中を押されて小屋を後にした。
ここからの登りも厳しいが、好天とお花畑に励まされ高度を稼いだ。中岳を通過、悪沢岳の手前で振り返って眺めた中岳が素晴らしかった。これは形として残したい。南アルプス全部を堪能しつつ千枚小屋着。縦走最後の夜とあって、またまた痛飲。最終日、駒鳥池までは指呼の間。お約束通り車で千枚道を駆け下り椹島に到着。白樺荘で温泉に浸かるサービスも受けて懸案の山行を終えた。

荒川中岳山頂に立つIK(右)と友人のOtu

山行の後、山陰への旅の準備が始まり暫く手につかなかった。年明けから原画作りを始める。A4に中岳をプリント、縦方向に1.15倍して高さを強調した。画の上に縦横の線を等間隔に引き格子を作る。f8号の紙には拡大した格子を描き桝毎の線を写していく。大きさは自室に飾れる最大サイズを考慮してf8に決めた。登山道がそれとなく判るように刻んだ。手前に小さくリンドウを入れて洒落たつもりだったが先生は歯牙にもかけなかった。摺りの段階で、手前の岩塊を何色か試した。最終的に黒っぽい色にして安定感が出るようにした。先生から山頂に朱を差すように言われ「えっ」と思ったが、やってみると、ご指摘通り浮き上がってきた、さすが。結果、自分でも気にいった作品となった。

追記
画を中岳避難小屋に掲げていただきたいと密かに想い続けていた。’23夏、会友のMasさんが赤石小屋のスタッフとして入山すると聞き、この画を託した。小屋の壁に掲げられた報告を拝見し、嫁ぎ先は変わったけれど想いが叶い嬉しい。

赤石小屋の壁に掲げられた版画

(2024年11月、IK記)

*  *  *

『山を彫る』シリーズのブログ掲載に気を良くしたIKさんが、続編を寄せてくれた。この「荒川岳」は、会20周年記念の栞表紙に使ってもいて外せない一枚だと思っていたから嬉しいことだった。
IKさんの赤石〜荒川三山縦走がいつだったのか、会報のバックナンバーを捜してみるとNo.175(2011年10月)に「南ア登り納めでも悔い無し」と題した短文の報告があった。今まで掲載の画と違って、この山行には同行していない。それに私が千枚岳〜荒川岳の稜線を歩いたのは1999年、それもガスの中のことで、画のような荒川中岳の姿は記憶に無いが、ふとMasさんが去年の赤石小屋出稼ぎの帰りの駄賃でこのコースを歩いていると思い出した。

荒川中岳(2023.9.26、Mas撮影)

なるほど、合点した。IKさんが記しているように、画はそのMasさんの手によって赤石小屋に掲げられた。三山縦走で小屋を訪れることがあったら、ぜひ、自分の目で見てきた荒川岳と画を見比べてみてほしい。


高根白山神社

2024-11-10 15:55:07 | 日記

芋穴所[いもあなど]のマルカシ

11月10日、所属会の「おはようハイキング」は、藤枝・高根山へ出かける。生憎の天気と思いきや、昼前の解散時までもってくれて、山頂ではそこそこの展望も得られた。午前中の一時の山歩きが心地よい。

高根山頂からの眺望

高根山は東海自然歩道の本コースとなっているが、中学の時、同級生二人とここから家山までを歩いたのが、私が自分自身で計画した山歩きの最初だった。身成川の谷に出た後の8km余の林道歩きが長く疲れ、家山駅に着く頃はすっかり日暮れていたと覚えている。東海自然歩道の全区間完成が1974年、東京高尾の「明治の森」から大阪箕面の「明治の森」までを結び、つまりは「明治百年」の昂揚の一環だった側面もあるだろう。それから50年が経って「昭和百年」はもう間近のこととなった。

高根山中腹には、1188年、加賀白山より勧請された高根白山神社が鎮座する。

*  *  *

【2019年7月記】

洋上から望む加賀白山

 誰がいつ決めたのかは知らないが、「日本三名山」は富士山、立山、白山を指す。ところが、これが「四名山」となると白山が抜けて木曽御嶽山、伯耆大山が加わるというのだからややこしい。いずれが“名山”であるかはさておいて、この五山の共通点は、いずれも古くから山岳信仰の対象の霊山ということだ。そうした霊山は、里からはっきりと見上げられる独立峰であることが多い。加賀、美濃、越前の三国境に位置する白山も、平野部や日本海からその姿を仰ぎ見ることができる。山頂部は一年の半分以上を雪で覆われ、まさに〝白き山〟の姿となる白山への信仰がいつ頃始まったのかは定かでないが、農のための水の源の神として、また海上交通の目印として航海と漁労の守護神でもあったのだろう。白山信仰の広がりを示すものに全国の白山神社の分布がある。大正年間の神社明細帳によれば42都府県にまたがって2716社があるとされ、白山の隣接地を中心にして東国へと広がっている。また、加賀白山は奈良、京都など古代の政治や仏教界の中心地域に近く、その存在は「越のしらやま」として早くから知られていたことから、単なる土着的な信仰対象ではなく、全国的規模(あるいは東アジア的な)の信仰対象となっていったと思われる。

 山岳信仰の発展とともに麓から眺め拝むだけではなく、御山に登り修行する人々が出てくるようになる。白山主峰群の一角、大汝峰[おおなんじみね](2684m)は、立山の大汝山と同様に阿弥陀如来が姿を変えて現れた、大己貴[おおなむち]権現(大国主)を祀る「おおなむち―おおなんじ」峰である。仏教の阿弥陀如来が出雲系の大己貴権現に姿を変えて出現するというのは、日本の神道と朝鮮渡来の仏教を習合させるための本地垂迹説で、養老元年(717)に泰澄[たいちょう]大師が白山に最初に登り開山したという伝説は、土着の信仰が中央仏教界の流行に組み込まれた時点と考えられる。白山そのものを祀る白山比咩[しらやまひめ]神社の存在から、昔は「はくさん」ではなく「しらやま」がその名であり、常に白雪をかぶった美しい山の姿から、白山神=白山姫が作り出されたのだろう。また、白山には朝鮮半島からの新羅[しらぎ]明神信仰(白の信仰)が入り込んでいる。古代の陶器窯跡と各地域の白山神社の位置が重なることは、白山信仰が朝鮮渡来の技術者と何らかの関わりがあると考えられる。日本海文化における海上交通路の目標としての白き山の価値も高かったはずだ。

 全国に広がった白山信仰の痕跡は、我が地でも見ることができる。上図はグーグルマップで検索した島田近隣の白山神社の分布で、意外と多くの社があることが分かる(図には載らないが、藤枝高根山も白山神社)。この内、一番の馴染みは何と言っても相賀にある高山白山神社だろう。『島田風土記 ふるさと大長伊久美』によれば「白山神社は、1191(建久二)年平安末期、石田氏が加賀国から勧請し、高山(標高566.7m)の中腹に高山権現社として永く奉祀してきたとされる。そして室町時代、応永年間(1394~1428)に加賀国(石川県)白山神社社僧が当山に移り住み、以後白山神(加賀白山比咩神社)を併せ祀り高山白山権現社と改称したと言伝えられている。」(2010年7月の当会のグループ山行「白山」には、現宮司のIK氏(kazさん夫君*故人)もゲストメンバーとして参加している。)また、浜岡、菊川、掛川などでは、塩の道(秋葉街道)沿いに白山神社が散在するのも、古来から続く北陸地方との交流が窺えて興味深い。(以下略)

(『やまびこ』No.267「白山信仰と越前禅定道」より)