山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

吉田初三郎『金谷牧の原鳥瞰図』

2024-06-29 11:24:31 | 山の本棚

金谷牧の原鳥瞰図を眺める

 コロナ禍の最中にあって、近隣歩きのネタを求めた『古地図で楽しむ駿河・遠江』(加藤理文編著・2018年 風媒社)の冒頭に、吉田初三郎の鳥瞰図がいくつか掲げられていた。吉田初三郎という鳥瞰図絵師の名を聞いたのは、『やまびこ』245号(2017年9月)「地図は物語る」と題したS・Mさんの巻頭エッセイで、その時、大いに興味を覚えた。

――描かれている情報は、その場所に人を誘う目的でデェフォルメされており、ある物語を伝えてくれている感さえある。――

 全ての任意の地点が、どの方角からも同様に同等に、すなわち等距離に描かれる地形図とは全く逆に、鳥瞰図には主観的な視点(目的)が存在するから、図の中心にはその視線の先、すなわち目的の核心が描かれることになる。そこから眺められるストーリー性が面白いのである。

金谷牧の原鳥瞰図 *詳細は下記WEB「吉田初三郎式鳥瞰図データベース」より閲覧可能

 掲図の主題となっている牧ノ原茶園といえば、中條景昭など旧徳川家臣団や大井川川越人足による開拓が知られているが、全国ブランドの名を得るには、さらに昭和までの年月を要したことが編著者の加藤氏の解説から窺われる。この鳥瞰図作成の目的は、そうした牧ノ原茶のPRであることは明白だが、実際の依頼主はどうも製茶機メーカーの川崎鐵工所のようで、絵図の左右の中心に八木式製茶機工場と川崎製茶研究園が大きく描かれ、かつ自社関連施設は赤の名称標示で強調されている。牧ノ原茶のPRでは、やはり吉田初三郎の「牧野原茶園を中心とせる静岡県鳥瞰図」(1927年)があって、こちらは静岡県茶業組合の制作依頼によるものだ。
 牧ノ原茶園の背景として富士山が描かれるのは当然として、その左、大井川の上流に[南アルプス連峰]とあるのは嬉しい。西に目をやれば[夜泣石]、[小夜ノ中山]、[久延寺]とあり、ここは外せない名所だったのだろうか。旧国一の[大井川橋]を渡った先に[島田]がある。このザックリ感はさすがに少し寂しい気がするが、[藤枝][焼津]のまるで農村、漁村感よりはましか。また中心があれば辺境もあるわけで、右上には[東京]の先に[青森][函館]、さらに遠く[桑港](サンフランシスコ)まであるのは、そこが牧ノ原茶の輸出先であったゆえであろうか? やはり左上には[大阪]の先に[門司]さらに[釜山]まで記される拡がり方に時代性が感じられる。
 左側中程上の「大」の字には[淡々山](あわわやま?)とあり「粟ヶ岳」(あわんたけ)だと思い至るが、おや?「茶」の字ではないではないか。粟ヶ岳の「茶」の字の由来は、掛川観光協会のHP『掛川観光情報』によると

 粟ヶ岳山腹の巨大な「茶」の字は、昭和7年頃、東山のお茶のPRのために、茶業組合や村民が力を合わせ、粟ヶ岳の急斜面に松の樹を植え付けたのが始まりだそう。茶の字の形を決めるために、白い紙を付けた縄を持って並び、それを向いの山から遠望して、手旗で合図して調整を繰り返したとのこと。その後、初代の松の木がマツクイムシの害にあい、檜に植え替えられたそうですが、今でも定期的にメンテナンスを行い、美しく雄大な茶文字が保たれています。

とのこと。この絵図の制作が1931年(昭和6)で、「茶」の字が完成した昭和7年の一年前であることから、あるいは吉田は植栽途中のものを見て「大文字」と勘違いしたのだろうか。でも鳥瞰図制作の目的が牧ノ原茶(同時に川崎の製茶機)の振興なのだから、「あれは茶の字になるんですよ」くらいの話が川崎の人から出なかったのかなぁと不思議に思った。

 金谷・元「金河座」

 ところで、私の亡母は金谷田町の八百屋の生まれで、小さい頃、大衆芝居好きの母の祖母に連れられ芝居見物に通ったことをよく話していたが、それが[八木式製茶機工場]の南に描かれる[金河座]だったのだろう。金谷の街並の代表的な建物として絵図に載るのだから、当時の金谷の文化の殿堂といった存在だったのかも知れない。絵図を眺めていると、金谷という町はこじんまりとしているが、街並と寺社さらに茶園とその工場がうまく配置された、一寸お洒落感のある町に見えてくる。かつての母の話の端々には、そんな金谷自慢の雰囲気があったことを思い出した。いずれにせよ、お茶が地域発展の大きな力となっていた頃の話である。

(2022年2月記)

吉田初三郎式鳥瞰図データベース

*2024年7月7日まで府中市美術館にて「Beautiful Japan 吉田初三郎の世界」展を開催中


天地耕作 初源への道行き

2024-06-27 13:57:42 | 日記

 

左/何やら巨大な鳥の巣のような(生?) 右/枝を積み重ねた塚・墓のような(死?)

2024年上半期で面白かったことのひとつ、2月12日、静岡県立美術館とその裏山で天地耕作(あまつちこうさく)を観た。観るというより民俗学的に体験したということか。24日には村上誠氏と赤坂憲雄氏との対談「円環が産まれ、壊れるとき」聴講にも再訪したのだった。

天地耕作は旧引佐郡出身の村上誠、渡兄弟と山本裕司によって1980年代から2003年まで続けられた、同地域を主な舞台としたアート活動。その場の立木や斜面の傾斜、水の流れなどをそのまま取り入れた作品は、〝縄文〟のようなエネルギーに充ちていた。「彼らは伝統芸能や遺跡などを、民俗学者や考古学者のように(あるいは彼らの言葉によれば蟻のように)フィールドワークし、生や死といった根源的なテーマに迫りました。」(同展チラシ)。フィールドワーク=這って歩き廻ることから生まれてくるもの、見えてくるものは、山でも何でも面白いものなのだろう。

美術|村上誠HP

野外展示の会場MAP、此処は古代の埋葬の場所でもあったのだ


野本寛一『大井川―その風土と文化―』

2024-06-25 16:38:32 | 山の本棚

歩き続ける人

 今までに何度か触れてきたことだが、私が山歩きへ誘(いざな)われたきっかけの一つに『大井川―その風土と文化―』(文・野本寛一/写真・八木洋行 昭和54年7月26日・静岡新聞社)がある。

――この本は、文を野本寛一先生、現近畿大学名誉教授で一昨年(平成27年)文化功労者顕彰を受けられた環境民俗学の大家ですが、やはりご出身は地元の相良で当時はまだ静岡の高校の先生だったと思います。南アルプスに発する大井川の遮断性、また流通性、そして野本先生の主要なテーマ「焼畑文化論」などが展開されていて、本を読んで私は大井川という私たちの郷土そのものの大河と、この上流には何があるのかということに大変興味を持ちました。言ってみれば私の山歩きへの関心と、大井川流域の山々という地元山域への拘りは、ここから始まったといっても過言ではなく、私のバイブルのような本です。――(2017年3月18日・SHC20周年記念八木洋行氏講演時の「講師紹介」より)

 現況コロナ禍にあって、会の山行活動はおはようハイクを中心に近隣での歩きに制限されている。それでも昨秋以降14回が数えられたのは、歩く機会を何としても継続しようと思い、携わる人たちの大きな努力があってのことだ。また私は自分自身の極々小さな歩きでも、それらをなぞったりしてみた。そういう中で、何度か訪れた場所、普段通り過ぎている場所であっても、その地が持ってきた意味を改めて考えてみると、そこにこびりつく残滓を剥がしていくような面白さを知るようになった。今は山を歩く機会が減った分だけ「考えてみる」時間はたっぷりとあるわけだ。かつて上流域への憧憬として山歩きに誘ってくれた本書は、現在の生活に繋がる中・下流域の様相に対する理解の示唆も与えてくれる。駿河湾の河口までを歩いた大津谷川・栃山川では、志太平野を形成した大井川の力の痕跡や、現在の川の力を利用する様を知ったのをはじめ、粟ヶ岳では「海からの眼ざし」ということを知った。この一年間14回の小さな〝山行〟は、私の中では歩く価値と知る価値のある愉しいものとなった。

――風土と文化というのは、決して過去の歴史であったり、懐かしい思い出話ということではないのです。今を生きている私たちの精神性、またこの地に生きる私たちの土台、即ちDNAであって、とりわけ山を歩く私たちにとっては、私たちが何故山に向かうのかというその根本的な原理の一端なのだと思います。――(前掲記念講演「講師紹介」より)

 ところで、私が野本寛一氏の著作に関心を持つのは、ひとつは氏が同郷・同窓の大先輩であり、その文中に見知った場所、語られる人びとが幾つも出てくるからだが、同時に氏が、その見知った場所をはじめとして現実の山・海・里をひたすら歩き続けている人であるからだ。氏が太陽の下で森や峠や池や淵などに立って発想されてきたものは、私自身が山を歩き観たこと、聴いたこと、感じたこととも重なって、山頂に立つこととは別の種類の、体験の面白さや、考える面白さを与えてくれるようだ。

――静岡県浜松市水窪町の町の木は栃で、この地には「栃を伐る馬鹿植える馬鹿」という諺(ことわざ)がある。貴重な食料を恵んでくれる栃の木を伐るのは愚かである。同様に、栃の木を植えればすぐに実が得られると思うのも愚かだ。栃の木が実をつけるようになるまでには人の世代で三代かかるからである――(『生態と民俗 人と動植物の相渉譜』2008年・講談社学術文庫)

――ここにはトチの木の禁伐伝承を厳守し、世代を超えてトチの木を守りつづけ、大切に守りつづけるがゆえに長いあいだトチの木から大量の実をめぐまれつづけてきた水窪の人びとの思いが凝縮・象徴されているのです。ここには人とトチ、人と自然との共存・共生関係がみられるではありませんか。こうした人と自然との関係がトチの巨樹を残存させてきたのです。――(『民俗学者・野本寛一 まなびの旅』2019年・玉川大学出版部)

 即効的、刹那的な価値や充足感の追求の中では、本当の意味での「人と自然(ウィルスもその一つだろうか)との共存・共生」を図れることはないのだろう。それにしても、水窪もすっかりご無沙汰してしまった。そういうトチの巨樹を見に行き、それから以前、常光寺山下見の帰りにH・Kさんから教わったお薦めの栃餅を買うこと、それをコロナ自粛後の取り敢えずの愉しみにしても良いなと思った。そういう愉しみ方なら私もひたすらであるかどうかは分からないが、歩き続けることができそうな気がしている。

(2021年10月記)

追記

 ところで、赤坂憲雄は『神と自然の景観論』(2006年・講談社学術文庫)の解説の中で以下のように述べている。

 初版の「あとがき」によれば、野本さんが幼少年期を過ごしたのは、静岡県の相良町の在で、牧之原台地の裾にあるムラだった。野本さんはそこに、自身がかかわった聖地や聖樹についての記憶のラフ・スケッチを示しながら、それがみずからの「内部に生きる神々の風景であり、聖なる原風景である」ことを語っていた。たしかに、この著書のなかには、そうした原風景に連なるような故郷・静岡の景物がもっとも色濃く登場してくる。あるいは、そこで育まれた眼や心ゆえに捕捉されえたと感じられる聖なる風景が、次から次へと姿を見せる。まさに、「フランスの哲学者バシュラールは、家の構造が住まう人の思い出の形成とかかわり、地形が人間の精神形成に影響を与えると語っている」という言葉そのままに、『神と自然の景観論』の基底には、野本寛一その人の故郷にまつわる記憶が沈められているのである。
 わたしはじつは、野本寛一という民俗学者の故郷が、ほかならぬ静岡という、東の文化/西の文化が重なり合う「ボカシの地帯」であることに、いたく関心をそそられている。兵庫や周防大島からははるかに遠い東北が、静岡からはさほど遠くない。この距離感はとても微妙だが、なかなか示唆に富むものである。いわば東の文化も、西の文化も等距離に眺めることができる土地からのまなざしが、柳田や宮本とは異なる東北イメージ、さらには日本文化像を描くことを可能にさせている、ということだ。あるいは逆に、「ボカシの地帯」ゆえに東にも/西にも繋がり、開かれていることが、野本さんのまなざしに固有の屈折をもたらしている、といってもいい。(中略)
 
「緒言」には、信仰環境論の輪郭が辿られている。まずはじめに、人はいかに環境とかかわってきたか、という問いかけがある。野本さんはその問いに向けて、信仰と環境とのかかわりという視座からのアプローチを試みるのである。信仰ははむろん、人の心や魂と深く結ばれる営為であるが、地形や月の運行・周期といった自然環境にまつわる条件を抜きにしては考えられない。しかも、この信仰と環境との関係は複雑である。自然環境が信仰の生成を促すが、逆に、信仰の存在によって自然環境の保全がはかられるし、新たな文化や社会の環境が生成してくる、といった複雑な関係が見いだされる。それはさらに、日本人は何にたいして神聖感をいだき、いかなる景観のなかに神を見てきたのか、という問いへと深化させられる。野本さんはそこに『聖性地形』という名づけを施しているが、それがいわば、「日本人が古来、聖域・神々の座として守りつづけてきた地形要素と、それを核とした聖なる場」を訪ねあるくなかに、しだいに浮き彫りにされていったものであることに、注意を促しておく。「聖性地形」という名づけは、歩行の以前にではなく、以後に属している、ということだ。そうした聖性地形を核とした神々の坐す風景は、日本人の魂のやすらぐ原風景であり、郷愁をさそう景観であり、先人たちが末裔のために選んだ最大の遺産である。それは、われわれの内省・蘇生・再生・復活のためには絶対不可欠な場であるとともに、「環境問題を考える原点」にもなりうる、という。

 この本もまた私の大切な山のバイブルとなったのだった。


アカクボ沢のトチノキ

2024-06-22 11:48:51 | 山行

山住古道とアカクボ沢の栃巨木

○期 日:2003年12月10日(快晴)
○コース:浜松市天竜区水窪町・山住河内浦(8:20〜40)…鳥居橋…〈山住古道〉…二合目(9:08)…六合目(9:50)…山住峠(10:25〜30)…常光神…1108三等三角点「山住峠」(10:42)…山住峠(10:56〜11:22)…山住神社(11:25〜40)…鳥居橋(12:37)…河内浦・山住家(12:42)…駐車地(12:52)=〈車移動〉=アカクボ沢下降点(13:05)…アカクボ沢栃巨木(13:17〜27)…アカクボ沢下降点(13:40)
○メンバー:6名

山住古道(山住神社旧参道)入口

 山住(やまずみ)古道は県道・水窪森線開通以前に歩かれていた参道で、河内浦(こうちうれ)と山住神社を結ぶ距離約2キロ・標高差約550メートルの山道が、水窪のNPO「山に生きる会」によってハイキングコースとして整備された。山住アカクボ沢のトチは、河内浦からアカクボ沢を800メートル程溯った上流部に在って、目通り8.7メートル、樹高35メートル、樹齢600年で静岡県下一のトチの巨木だろうと言われている。

徳川家康の腰掛岩

 河内浦に車を置き、鳥居の掛かる山住古道入口から登り始める。九十九折の急斜面に付けられた道でザラザラとして歩きづらい。一旦県道に出るがすぐに再び山道となる。穏やかな天気であるが北斜面の谷沿いの道は陽が射さず、相変らずザラザラの急斜面で、お世辞にも快適とは言い難い。途中には「落ちない橋」と命名される微妙なバランスの桟橋があって、下りでは少しスリルを感じた。標高900メートルの六合目で尾根に出ると道幅も広くなって、やっと歩き易く、参道らしくなった。「家康の腰掛石」は山住神社と徳川家の関係を窺わせるが、他に参道を感じさせるような遺物はなかった。2時間程で山住峠へ出た。太陽の光を全面に浴びる常光寺山(じょうこうじさん)は、水窪河内川の谷を隔てて大きい。

山住峠から望む常光寺山

 今回の目的のひとつは、今までの山歩きで山住周辺を訪れて気になっていた箇所を訪れること。峠からスーパー林道を家老平(かろうだいら)方向に進むと「常光神」と書かれた標識を目にする。尾根に上がってみると祠があって、樹林の合間からその先を望むと常光寺山頂を向いている。ここは常光寺山の遥拝所だったのだろう。実際、山住神社の宮司は「常光寺山が山住神社の奥の院である」と語っているのだった。常光寺山→山住神社→竜頭山→秋葉山と尾根沿いに南下していった元々の古い信仰の痕跡が見てとれる。

 常光寺山の「光」の信仰が、焼畑農業や冶金の火と結びついて、平地に近い秋葉山の方へ集約され、長野市北方の飯綱山からもたらされた秋葉信仰(秋葉三尺坊)とが加わり、根付いたことになる。(「秋葉古道の成立過程と果たしてきた役割の研究」中根洋治ほか)

 祠から平らな尾根を少し北に行った1108m三等三角点の点名は「山住峠」、「水窪百山」の標識が掲げられていた。

1108三角点手前の常光神祠

 昼食と山住神社に参拝の後、一時間程で河内浦に下り、これも目的であった山住家に立ち寄った。城のような大きく堅牢な石垣の上に建つ山住家は、800年に亘って山住神社の神事を司ってきた名家であったが既にこの地を下りている。とは言え屋敷や庭が荒れた様子は無いのは、過日の塩の道ウォークで訪れた水窪川右岸の集落と同様に、定期的に通ってくる一族の者があってのことだろう。山住家に限らず周りに生活の気配は感じられず、もはや河内浦自体は無住の集落となっているようだ。屋敷地内には「山住大権現」を祀った社があって、修験道との関連も窺われる。また山住家は青崩峠下に鎮座する足神神社の社家・守屋氏の分家であったと言われるから、山住の信仰と遠山谷を通ってきた諏訪信仰との関係も窺われる。

山住家屋敷地内に祀られる「山住大権現」

 一旦車に戻り県道を上ってアカクボ沢のトチノキ入口に向かう。細い山道を谷底に向かって十数分ほど下ると沢の岸辺に堂々と巨木が立っていた。トチノキは日本の山村地域の暮らしを支えた重要な樹種で、実は縄文時代より食用され、材からは臼や捏ね鉢などが作られる。水窪地域にはアカクボ沢以外にもトチの巨木が何本か残り、またトチ餅も地場の名物である。「里近い栃の木は人びとに守り育てられてきたのであり、そこには栃と人の共生関係があった」(「神と自然の景観論」野本寛一)

水窪河内浦・アカクボ沢のトチノキ

 今回の番外篇では、山住・河内浦周辺の山行で気になっていたが省略してきた事象をいくつか拾うことができて、自分なりに満足した山歩きだった。

(2003年12月記)


伊豆・二本杉歩道(旧下田街道)

2024-06-19 14:28:10 | 日記

前記事の参考資料です。

旧下田街道

■旧天城街道を開削――板垣仙蔵(いたがき・せんぞう)

 豆州梨本村(現河津町梨本)に生まれた板垣仙蔵は、旧天城(下田)街道を開削した。生年は不詳。家は代々名主を務めた家柄で、屋号は新家[にいえ]と言う。
 名主当時(1810年前後)、田方郡と賀茂郡を隔てる天城連山は、昔から南北の交通を妨げてきた。江戸時代になると河津梨本の宗太郎から沢を登って中間業[ちゅうけんぎょう]峠を越え、湯ケ島の大川端へ下っていたらしい。仙蔵は新しい道を造ることを思い立ち、韮山代官・江川英毅(坦庵の父)に願い出た。韮山代官の許可は下りたが、補助金は一切出なかった。
 仙蔵が計画した新道は、宗太郎から中間業峠へ抜ける道よりもう一つ西側の沢に沿い、二本杉峠を越えて湯ケ島の大川端に通じるというものである。最短コースだが橋を架けたり、岩石を砕かなければならない箇所が多い難工事で、莫大な費用が見込まれた。
 仙蔵は近在の村々の名主にも訴え、応分の資金を援助してもらったが、それだけでは足りない。この道を利用した近郷の村々が援助したことも記されている。仙蔵は私財を投じ、自らもくわやもっこを担いで工事の先頭に立った。梨本村および近村の人々も手弁当で参加した。難工事だった二本杉峠の新道が開通したのは、1819(文政2)年である。以後、この道は伊豆の南北を幹線下田街道として多くの旅人が往来し、大いに助かった。
 安政年間(1854~59年)下田で黒船騒ぎが起こった時代には、江川坦庵、吉田松陰、ハリスらが1857(安政4)年10月8日、慈眼院を出発し、通訳のヒュースケン青年を含め350人の行列を組んで峠を越えた。
 1905(明治38)年、天城トンネル経由の新道が開通したが、歩いて天城峠を越えた86年間、現在は「天城の旧道」と呼ばれている「二本杉歩道」は活躍した。梨本の住民であった仙蔵の功績は図り知れない。
 仙蔵の生家は、川合野のほぼ中央部にあり、豆州梨本宿の本陣を務めた大家「稲葉家」と隣接していた。代々名主を務める素封家であった。途中養子を迎えたが財産を売り払い絶家した。1884(同17)年、生家も売り払った。
 仙蔵は1835(天保6)年8月26日没す。墓は梨本の慈眼院にあり、墓のみが物語を残している。戒名は「道嵪峻作居士」。当時の住職が仙蔵の偉業をそのまま諡号[しごう]にしたものだ。道嵪とは山中の険しい道、峻は山の高峻なことで、その仕事の出来栄えや功績の高く優れたことをも知らしめたものであろう。まことにふさわしい立派なものである。
 仙蔵の妻「とき」は後妻のようで、韮山反射炉の工事日誌にしばしば名が出て来る板垣助四郎の娘である。仙蔵とはひどく離れた妻であったようである。87歳で没。
 筆者が居住している家は、建ててから200年以上たっている「にいえ」の本宅である。仙蔵、助四郎、鉄砲(筆者の屋号)と、何か因縁めいたものを感ずる。

(河津町・稲葉修三郎/「伊豆新聞」2014年6月23日)

二本杉歩道概念図

■天城峠の変遷

 伊豆は長い間、天城連山によって南北に分断されていました。天城越えの陸路の建設は、時代毎の命題でありましたが、道路づくりは急峻な地形にはねのけられ、困難を極めました。このため、道は切り立った崖の上、岩を刻んだ階段等にもつくられ、天城越えで尊い命を捨てた人も少なくありません。一方、「天城」という地名は「雨」に由来しているとも言われています。地形的に雨量が多く、自然災害を受けやすい天城山岳地域の街道は、峠の場所そのものにとっても、変遷を重ねざるを得ない状況だったと言えます。

  • 新山峠:室町期以前の峠です
  • 古 峠:室町期から寛政時代にかけての峠です。
  • 中間業 (ちゅうけんぎょう):寛政時代から文政2年にかけての峠です。
  • 二本杉峠:文政2年(1820)以後の峠です。幕末、下田にアメリカ領事館がおかれていたころは、江戸の幕府と領事館を結び、外交使節団が往来しました。まさに「日本開国の道」です。しかし、下田から三島へ通じていたとは言うものの、途中の天城路は難所中の難所でした。このほか、江戸後期の天城越えに登場する人物は、老中松平定信、タウンゼントハリス、吉田松陰、唐人お吉など、この峠をよく利用したと言われています。
  • 天城峠(旧トンネル):峠、トンネルとも数多くの文学作品の舞台となっています。ノーベル賞を受賞した川端康成の代表作「伊豆の踊子」は、天城峠が始まりです。この名作にあこがれて、この地を訪れる人々もたえません。明治38年に開通した天城トンネルは当時のまま、実に周辺の四季の彩りにマッチする天城のシンボルです。

(『天城湯ヶ島郷土研究』より)