山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

師走あれこれ

2024-12-29 15:11:41 | 日記

12/15、粟ヶ岳の後の忘年会で新型コロナに感染、熱は2、3日で平熱に戻ったが胃腸の不調が今も続く。忘年会参加者の約半分が感染というクラスター状態でやれやれのことだ。幸い家族への感染は無し。

12/24、旧い友人(高校の同級生)のSが亡くなった。末期ガンで年は越せないと告げられていたが、前週には蓮華寺の畔に連れ出してもらい、そばを啜って、ビールを舐めて、好きな煙草も吸った。前年、年老いた母親を亡くした後は彼に身内はなく、数人の友人だけでの静かな見送りとなった。寂しさが押し寄せる。

12/28、末っ子が十山のウィスキー「Flora 2024」を届けてくれる。噂には聞いていた南アルプスの貴重な酒は職場忘年会で引き当てた由。旨い!

 

 

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十山株式会社は、南アルプスの奥深い山々の価値を世界にお伝えすることで、自然に関心をもっていただき、自然を楽しむと同時に、それが少しでも自然を守る行動に繋がるよう...

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日切から粟ヶ岳へ

2024-12-17 17:48:02 | 日記

粟ヶ岳山頂からの富士山

 2024年最後の会山行は、我がランドマーク「粟ヶ岳」へ東側の大鉄・日切駅から目指した。馴染みの粟ヶ岳へは、東山いっぷく処、西側の倉真温泉、そして本年8月には南側の西山から登っているが、日切からは初めてのこと。昔々に(中学の遠足?)金谷から登ったような記憶が微かにあるが、ここからだったのかは定かでない。

志戸呂の坂途中からの富士山

台地の上の行人塚

近づいてくる粟ヶ岳の「茶」文字

 志戸呂の坂を登って台地の上に出ると行人塚が建つ。1603年(慶長年間)、大井川の氾濫で島田宿が消失し山側の元島田(島田市医療センター南側))に移転し、島田市大鳥、大井川渡河、牛尾山、島田市(金谷町)志戸呂谷北という中世のルートが復活、1614年まで約10年間、仮の東海道とされた。ここはその一部で碑には「正徳二年巳八月二日 帰真 満願院全行得道上座霊位」と彫られている。数10メートル先には摩滅が進み判読困難となった石の道標があって、古くからの街道であったことが窺われる。直進すると小鮒川・日坂へと下っていく慶長の仮東海道のルートとなる。今回は右折し安田(あんだ)へと向かう。進むに従い粟ヶ岳の「茶」の字が随分と大きくなり、茶畑を前景に存在感のある山容が望まれる。途中には国営農業水利事業(平成9年度完了)の大きな調整水槽がいくつもあって、大井川の川口取水工から水路橋を経て大代の牧之原揚水機場から揚げられた水が溜められている。

安田の大ジイ

 粟ヶ岳北東中腹の集落・安田(あんだ)には、県指定天然記念物のスダジイの巨樹があって神仏をその懐に抱えて悠然と立っている。樹高は27メートルとそれほど高くはないが、枝張りは東西26メートル、南北23メートルにも及び、八俣の大蛇(やまたのおろち)のように八方の天空に枝を張りくねらせ、一樹なのに一つの森のような風貌を持っている。ところで[安田/あんだ]という地名だが、[あだ]とルビが振られていることもある。『民俗地名語彙事典』(ちくま学芸文庫)によれば「アダ ①オク(奥)に対する里がアダ ②日あたりのよい土地」とされている。金谷安田の場所を見てみると、粟ヶ岳北東に位置し、東側が開けた菊川上流部の小さな谷であるから、「①オク(粟ヶ岳)に対する里 ②日あたりのよい土地」の語意を充たしていると思われる。

名残の紅葉

 安田から奥貝戸を経て東山からのハイキングコースに合流すると、ひと登りで山頂の阿波々神社に到着、本年の山登りの無事を感謝し参拝後、眺望の効くかっぽしテラスで暫し富士山や伊豆半島(やや霞みがちであったが)、そして眼下の大井川とわが町の景観を楽しんだ。山頂には「かっぽし(刈干し)」で作られた来年の干支・蛇が飾られ、多くのハイカーで賑わっていた。

粟ヶ岳山頂の大蛇

大代のジャンボ干支

 下山は岳山との鞍部から小尾根を大代に下って、山頂のそれに比べてジャンボな二匹の大蛇が飾られた「大代ジャンボ干支」会場に、予定時刻の11時半に到着した。こちらも大賑わいであったが、大蛇をバックに参加者全員で集合写真を撮って、本年最後の定例山行を終了した。その後は迎えのマイクロバスに乗車し川根温泉へ移動、忘年会を楽しんだ。

 

 

安田の大椎 - 山の雑記帳

かねてから気になっていた粟ヶ岳北東中腹の安田(あんだ)にある巨樹を訪ねてみた。ムラの小さな神仏たちをその懐に抱えて悠然と立つ。静岡県島田市金谷安田の大椎と呼ばれ...

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ランドマークとしての粟ヶ岳 - 山の雑記帳

山頂下の「茶」の字で知られる粟ヶ岳我が家から外に出ると、ほぼ真西の方角に粟ヶ岳(あわんたけ)の「茶」の字を見ることができる。振り返って真東を見ると白岩寺山で、こ...

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息子との山歩き

2024-12-14 16:42:49 | Ryoウォーク

2007年3月 入笠山

 9月のおはようハイク「智満寺」に、三男・Ryoを連れていった。彼はダウン症の障害を持っていて、参加者の皆さんと同様のペースで歩くのは無理なことなので、担当のHm君に「見えなくても気にしないように」と伝え、後から二人でゆっくりと登っていった。亮と山道を歩くのは久しぶりだった。どうだん原の手前で声が微かに聞こえたように思ったが、上がってみると既に誰もいなかった。ここまでは50分と思っていたより順調に歩くことができた。
 どうだん原にRyoが初めて来たのは、ファミリーハイキングだった。私が彼を背負い、妻が末っ子を背負ったが、帰りにちょっとした遭難騒動があった。末っ子のオムツを替えていて出だしが遅れた妻が、一向に田代に下りてこないのだ。兄たちにRyoを見ているように言い聞かせ、丁仏参道を駆け上がった。妻は、どうだん原下の分岐を柏原へと下ってしまったのだ。事なきを得て田代に戻ると、上り口のお宅のおばさんがRyoの面倒を見てくれていて、兄たちは隣の社で遊んでいて恐縮した。田代の谷がまだ埋められていない頃だ。ともあれ、幼児の頃のRyoは私の実に良いボッカトレーニングパートナーで、千葉山周辺や満観峰など近くの山々や笹山、越前岳、遠くは月山も伴(とも)にした。自分の足で少しは山道を歩けるようになると、彼の歩行能力で何とかなりそうな山、いざとなったら私の力で何とかできる山に登るようになった。会の仲間との山行もコースを選び、同行の皆さんにお世話をかけながら何回か参加した。常光寺山(03年)、岩戸山(04年)、蛾ヶ岳(05年)などが記憶に残り、しらびそ高原からの尾高山(04年)は彼なりに精一杯頑張った山だった。

2003年10月 常光寺山キャンプ

2004年3月 岩戸山

2005年4月 蛾ガ岳

 そもそも私が再び山歩きを始めたきっかけの一つは、彼が障害を持って生まれたことだった。自分の意志と能力以外、何にも束縛されない自然の中を、彼の速度で親も共に歩むことができればと思った。同時に彼の誕生を、これからの生活の結果全ての言い訳にしたくないという気持もあった。ずだい山歩きぐらいしか私が一緒にできることは思い浮かばなかった。中学からは水泳を始め体力は徐々にはついてきたが、特別支援学校高等部も後半頃になると内向的な傾向を示すようになり、行動の活発性が減っていった。動作の緩慢に加え体重が増え、今や物理的に私が背負うことは不可能な彼を山に連れ出すことは容易ではなくなり、二人での山歩きは徐々に遠ざかっていたところだった。
 同じように障害(自閉症)の息子を持ち、彼との里山歩きを志した若林岩雄氏(「わらじの仲間」元会長)は、故郷の里山に帰るに当ってこんなことを言っていた。

 どんな山にもピークがある。横を見ればもっと高い山がいろいろある。しかし、今立っている場所が、私が登ってきた山であり、…(中略)…別な山をめざすかどうかは、いったん降りてからのことであった。
(高桑信一編『森と水の恵み』(みすず書房)所収「息子と歩く里山」より)

 そう、まずは降りることだ。何とか智満寺本堂前での皆さんとの集合写真撮影には収まって、少し十本杉の散策をとも考えていたのだが、生憎と雨が降り出してきた。いつだって登ることよりも下ることの方が難しい。殊にダウン症の子たちは、下りの段差を怖がる。前に後ろに位置を変え、支え方を試しながら、どんなやり方が一番、Ryoに安心感をもたらすのかと考えていた。伊太和里の湯に着くとちょうどHm君が風呂から出てきたところだった。さて我らもひとっ風呂浴びよう。

(2015年9月記 会報『やまびこ』No.222)

2008年8月 羽黒山キャンプ

2011年8月 井川県民の森キャンプ

2017年5月 大札山


秋のRyoウォーク1

2024-12-07 18:09:58 | Ryoウォーク

この秋のRyo君とのウォーク

10月13日(日)
かなや公園→巖室神社→大鉄新金谷駅→宅円庵(日本左衛門首塚)→東海汽缶(蒸気機関車整備工場)→かなや公園

巖室神社はちょうど例祭で可愛らしい巫女舞が奉納されていた。Ryoは関心無し。

*社伝によれば、正治2(1200)年頃、当時の住家三戸の氏神として、現在地の巌室を開いて三柱である瓊々杵尊(ににぎのみこと)、木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)、金山彦命(かなやまひこのみこと)の神を勧請奉斎し、巌室神社と称すと記しています。町名金谷のこの金山彦の神名から、由来したとの説もあります。
その後、神社名は、「若一王子社」、「姫宮」から「巌室神社」に変更されましたが、氏子たちは今でも「姫宮さん」と親しみをこめて呼んでいます。(島田市観光協会HP)

大井川鐵道・新金谷駅ではトーマス・イベントで大賑わい。人混みの苦手なRyoは、比較的空いているプラザロコ内へ。

新金谷駅近くの昔からの駄菓子屋「かんとんや」で休憩、かき氷(200円)、おでん(1本50円)、ところてん(1本80円)也。

大代川を渡る大鉄電車、一段上は東海道本線。東海汽缶(SL整備工場)構内に展示されている機関車を眺めた後、かなや公園に戻る。

11月17日(日)

法多山尊永寺→御前崎(旧浜岡町)桜ヶ池→牧之原富士見霊園

法多山では紅葉祭りが始まったが、異常な高温だった今秋は未だ色づかず。長い参道と階段を登って尊永寺本堂にお詣り。「和傘アート」があちこちに展示されていた。

*法多山は、寺号を尊永寺と称する、高野山真言宗の別格本山です。本尊正観世音菩薩は厄除開運のご利益に霊験あらたかであるとして、古来より俗に厄除観音と呼ばれております。神亀二年(七二五)、聖武天皇の勅命を受けた行基上人が大悲観音応臨の聖地をこの地に探し求め、自ら刻んだ本尊正観世音菩薩を安置したのが縁起といわれています。本尊の霊徳は遠く京都に及び、白河、後白河天皇の勅願あつく定額寺の列に加えられていました。その後今川、豊臣、徳川等武将の信仰を得て、特に慶長七年(一六〇二)、徳川家康公より五万石の格式を以って遇せられ、一山十二坊の法燈が栄えましたが、明治維新に朱印地返還、十二坊を廃して総号尊永寺と改め今日に至りました。(法多山尊永寺HP)

復路は浜岡町(現御前崎市)の桜ヶ池に寄り道。

*遠州七不思議のひとつ「龍神伝説」ゆかりの池
標高四十メートル、小高い山の上にある桜ヶ池(さくらがいけ)は、東西北の三方を原生林に囲まれ、深い緑色の水をたたえる神秘的な池。二万年前、丘陵の谷を砂がせきとめ、そこに涌いた水が池となって現在に至ります。
比叡山の名僧 皇円阿闍梨(こうえん あじゃり)は、世の中の人々を救済したいと自ら悟りをひらくため、難行苦行を重ねました。しかし、仏法をきわめることは非常に困難であると知り、56億7千万年後に出現するという弥勒菩薩から直接教えをいただく以外に、悩みから人々を救う方法がないと考えたのです。ところが、人間の寿命ではこの願いは叶いません。そこで、平安時代末期、嘉応元年(1169年)6月13日、阿闍梨は龍に姿を変えて、桜ヶ池に入定(にゅうじょう)されたと伝えられています。

叔母の墓参り、牧之原富士見霊園から高草山塊の向こうに富士山を望む。

11月23日(土)

伊太田代→どうだん原

千葉山どうだん原の紅葉だが、今年は色付きが鮮やかではなかった。

12月1日(日)

大代ジャンボ干支→島田市博物館→大井川河川敷(リバティ)

制作途中の大代ジャンボ干支、来年は巳年だ。忘年山行の粟ヶ岳下見の迎えをRyoにお願いした。

昼食後、島田市博物館から大井川河川敷リバティを歩く。博物館前にはこんな写真撮影用モニュメントができていた。


山を彫る(番外篇)守屋山キャンプ場にて

2024-12-04 08:31:08 | 山を彫る

高遠少年自然の家を利用するようになったのは、いつ頃からだろうか?随分昔から行っているはずだ。試みに会報「やまびこ」の索引を使って検索してみた。始まりは1998/2、よほど気にいったのだろう、7月も。以降2002年まで2月ないし3月のスノーハイクは恒例になっていた。しばらく休み2008,9年、また少し飛んで2013、2020年と訪れている。自然の家ではクロスカントリースキーやスノーシューを無料で貸してもらえるからありがたい。チョットしたルールを守れば格安で利用できるのも嬉しい。コテージで薪ストーブを囲み、呑み、かつ歌い、踊れば浮世の憂さを忘れる至福の時だ。初回は自然の家周辺で雪と戯れていたが2回目’98/7には守屋山へ登っている。

2013/2/10自然の家出発、立石口から登山開始。雪はあるがアイゼン無しで進行。立石から少し剣呑な道になる。南面にあたるため雪が融け、岩が露出する箇所が多い。間をおいて慎重に進む。木にできた二つ瘤がちょうど女性のバストの様で“平成のビーナス”の銘板に一同緊張がほぐれた。鬼ヶ城のある巨岩地帯、浅間の滝を経て、急な上りを凌げば前岳のコルに出る。ひと休みしたら開けた道をジグザグに進み、杖突峠への分岐点に出れば山頂は近い。灌木になり、空が広くなった道をひと上りで東峰の頂に到着。わーお、360度の展望だ。北アルプス、美ヶ原、八ヶ岳、手前に入笠山、南アルプス、中央アルプス、御嶽山、ぜーんぶ見えた。本隊は西岳へ。芦田、天野、池田ロートル3人はここに留まり、自然の家特製の昼飯を戴く。快晴無風、抜群の眺め、ええなぁ。西峰に向かった本隊が戻ってくるのが見通せたので3人は先発。下りはアイゼンを着けた。順調に下りキャンプ場に着く頃、本隊が追いついた。夏の賑わいは知らない、人影は無くひっそりしていた。ふと見上げると青い空、白い雲、葉を落としたカラ松がアートしていた。これ、いただき、この様を版画に彫った。写真の通りの画を描いたら、先生からは中心に向かって木を配置するようにアドバイスを受けた。カラ松が落葉して枯枝に粒々が残っている状態を表したい。その頃はまっていた木田安彦の表現を応用した。浅丸刀で丹念に彫る。加減しながら摺ってみると粒々が出てきた。それらしい表現ができたと思っている。この画は、東京に住む孫の部屋にピンナップされている。(どうも傷隠しらしい)

平成のビーナス

鬼ヶ城

浅間の滝

守屋山頂から望む八ヶ岳連峰

追記
2024/2/11,12高遠少年自然の家に泊まり、守屋山に登ることができた。この時も快晴、無風、素晴らしい山行になった。3月末をもってSHCを退会。始まりから終わりまで関わってきた自然の家と守屋山に感概ひとしおである。

(2024年11月 IK記)

*  *  *

IKさんが書くように、高遠少年自然の家は冬合宿の常泊場所だった。最後の冬合宿となったコロナ禍前2020年2月もここに泊り守屋山を目指したのだったが、残念ながら雨模様で神長官守矢資料館や諏訪大社四社巡りとなった。

【2020年3月記】

(前略)守屋山頂からは眼下に諏訪湖が、そして東に八ヶ岳連峰とその南西麓がはっきりと望まれる。縄文期の諏訪に住む人々はこの聖なる山に立ち、自らの集落と生活の場である山(もり)と湖(うみ)の姿を一望し、どのような感懐を持ったのだろうか。共生する自然への鋭い感性=インスピレーションを持ち合わせた彼らは、現在ここに立ち眺望する我々には受けることのできないものを感じとり、視ていたのかもしれない。さらに、この豊かな古代諏訪文化は、天竜川水系、富士川水系を下って太平洋岸にまで至り、また屛風のようにそそり立つ南アルプスの峠を越えて井川にまで達していたらしい。我々の大井川流域の山々と八ヶ岳連峰は、古代において結ばれていたのであり、その結節点が守屋山であったとも言えるだろう。
(会報『やまびこ』№191「月々の山」)

 これが、私が山を歩くことの関心(テーマ)のひとつである。前宮から守矢史料館、本宮にかけての一帯は、是非とも案内したいと思っていた場所で、雨で守屋山から代ったのも良い機会になった。この地区をもっとじっくりと探っていけば、それだけで面白そうな史跡ハイキングを企てられそうである。
 宿泊した高遠青少年自然の家のロビーには、ランドサットが撮影した写真に自然の家の位置を印したパネルが掲げられている。これを見ると、ここがちょうど南アルプスを挟んで南北に我が街と対の位置にあることが理解できる。実は、この話は高遠青少年自然の家に通っていた初めの頃、当時代表であったIKさんが、夕べの集いの団体紹介で挨拶された事柄で、懐かしく甦る。すっかり〝長老〟(?)となられたIKさんが、今回の合宿にも参加され、夜の懇親会ではノリノリでハモニカを披露してくださったこと、また合宿初参加の皆さんも気持ち良く輪の中に加わり、全く良い思い出となった。「会員同士の親睦を図る」という合宿のもう一つの目的も叶えられた。