山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

三国山稜ー富士山に最も近い山

2024-11-21 09:57:19 | 浮世絵の山

静岡・神奈川・山梨三県境の三国山(2019年1月)

 2015年度から16年度にかけ、当会20周年記念事業の一つとして『富士山周辺の山々』を行った。富士山外周の山々を、月々の定例山行や合宿山行を通じて、四季折々の富士山の姿を眺めながら繋ごうというもので、その実績は20周年記念展におけるメイン展示として発表された。が、実は「繋ごう」とはしたものの諸事情で抜け落ちてしまった部分があって、その一つが「三国山稜」ということになる。

三国山頂2005年

 三国山稜というのは、山中湖東南岸の切通峠から篭坂峠までの小さな山稜を称していると思われる。山中湖の湖面標高が982mに対し、山稜中の最高地点が大洞山1383mであるから、穏やかな尾根の容姿と相まって、湖畔から見れば丘のようなものだ。大きな山域の括りでいえば、菰釣山などから尾根続きの丹沢山地西端にあたる山域で、名前のとおり駿河、甲斐、相模の三国境となっている。この山稜の魅力の一つは、カヤトで遮るものの無い鉄砲木ノ頭山頂からの眺望。山中湖を前景に長く裾を引く富士山東面と、その右には富士五湖を囲む山々、さらに背後には南アルプスの白い稜線が凛と連なる贅沢なものだ。中腹のパノラマ台までは車で上がれることもあって、大勢の観光客やカメラマンで賑わっている。この明るく派手な様相は、鉄砲木ノ頭から南下し三国峠を越えると一変し、ブナ、ミズナラ、カエデなどの広葉樹林となって内省的な雰囲気を醸し出していて、その対比が面白い。とは言え、葉をすっかり落とした冬の尾根に暗さはなく、1300メートル前後の広くゆったりとした尾根が畝々と続く山道に心も穏やかになるような気がする。雪の道となれば尚更のこと、その静かな明るさを愉しめそうなのだが、時折下から響く富士スピードウェイのエンジン音に俗世間に引き戻されてしまうのがヤレヤレである。

富士山頂から20km圏内の山

 さて、20周年の『富士山周辺の山々』で歩いた尾根は、箱根を除いて富士山頂(剣ヶ峰)から概ね20㎞内外であることが掲げた地図から解る(別に20周年を掛けた訳ではないが…)。三国山稜をみると、最西端に立山(たちやま)(1325m)というピークがあって、ここから富士山頂までの距離は約13.5kmとなるから、大室山などの側火山を除けばここが富士山に最も近い山ということになる。島田市役所から八高山頂までがほぼ同距離であるから、あの場所に富士山が聳えていることを想像すれば、その迫力が窺える。立山展望台からの眺めやいかに……。この三国山稜と富士山との近さと地形的な繋がりも興味深い。「本州上の全ての山は尾根で繋がっている」というのは、読図する上での大事なセオリーの一つだが、独立峰である富士山もこの論に洩れず、その接合部分が立山から下った篭坂峠であり、そこから幾つかのコブを上下しながら小富士へと尾根は繋がっていく、そういう場所なのである。丹沢山地と富士山との誕生を含めた関係の深さも示しているように思える。

葛飾北斎『甲州三嶌越』(富嶽三十六景)

 ところで、富士山への関心は江戸人も同じで、有名な葛飾北斎の『富嶽三十六景』は大ヒットのシリーズとなった。気をよくした版元の西村屋与八は、さらに十図を追加出版して、「三十六景」と謳いながら全46図の構成になったのだという。その〝四十六景〟の中で、最も富士山に近い場所から描いたとされるのが、29番『甲州三嶌越』。〝三嶌(三島)越〟であるから、旧鎌倉往還(現R138)を甲州側から三島へ向けて越える場所、即ち篭坂峠辺りと推定されている。この画を眺めると、目に飛び込むのは富士山というよりもまず中央に配した杉の巨木で、数人の旅人が幹を取り囲みその大きさを確かめている様子が、今でも〝あるある〟感があって面白い。左右には柴刈り休憩中のキセルを吹かしながら少し自慢げな様子の地元おじさんや、〝何やってんだか〟という感じで通り過ぎるおばさんの姿もあって、動的なストーリー性のある構図に、さすが北斎先生と感心する。『富嶽三十六景』各画の視点を考察、検証している久保覚氏は次のように解説している。

 この画は通説通り、籠坂峠から見た富士山ですが中央の大きな木は当時から現在まで存在が確認されていません。特に富士山の東側は宝永の噴火の影響を直接受けており、火山灰等がかなり堆積した場所でもある理由から巨木が無事でいる理由も薄いと考えられます。
 おそらく北斎が巨木を配置した理由は「宝永火口」を隠すためという説はおおよそ正しいと思います。また、この巨木は笹子峠の「矢立の杉」を拝借したと個人的に考えています。北斎自身も「北斎漫画」の中でも「矢立の杉」を描いていますし、広重も「諸国名所百景」の中で「矢立の杉」を描いています。広重に至っては北斎と同じく旅人が巨木の大きさを測るために腕を広げて木の周りに寄り添っています。北斎も「矢立の杉」を見たときの感動を富嶽三十六景のどこかで使用したかったに違いありません。理由はどうであれ、峠道の高度感と大変さが巨木と休憩によって程よいバランスが保たれているように感じるのは私だけでしょうか?
(『富士五湖TV』サイト内「浮世絵に見る富士山」より)

 

葛飾北斎の甲州三島越(富嶽三十六景) - 富士山はどの場所の視点から描かれているのか?

富士山の視点は籠坂峠。富士山の稜線は中央の木の輪郭を使用しており、従来にない新発見です。

Fujigoko.TV

 

 三国山稜には〝三嶌越〟程の巨木は無いが、潔い冬木立の尾根道を歩きながら、最も近い冬富士の眺望を存分に味わいたい。

(2018年12月、『やまびこ』No.261)

 

三国境の山 - 山の雑記帳

静岡・神奈川・山梨三県境の三国山(2019年1月)「三国山」という名は、駿河、甲斐、相模の三国境(みくにさかい)ゆえに付けられたものだが、同様の三国境の場所にはどんな...

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「北斎の富嶽三十六景」を巡って

2024-10-04 08:40:10 | 浮世絵の山

富嶽三十六景・尾州不二見原

山座同定の楽しみ

 1月10日の夜、晩酌をやっていると突然、I氏より電話があった。ほろ酔いの頭で聞いた話は「NHK日曜美術館で、北斎『尾州不二見原』(富嶽三十六景)に描かれている富士は、実は聖岳を見誤ったのではないかということだ。ついては、東からもこのように聖が尖って見え、お前と会話を交わした記憶があるが、それはどこの山だったか」というものだった。我が地から見る聖岳は、前聖と奧聖が吊り尾根を成し、どっしりとした屋根型の特徴で比較的すぐにそれと判る。これが西側の伊那辺りから望むと、形がずいぶんと違って見え驚いた覚えがある。だが東側からとなると、すぐには思い浮かばなかった。翌日、次のようなメールが交わされた。

〔I〕昨夜は、おかしな電話にお相手いただきありがとうございました。ご厄介かけついでといっては申し訳ないですが、もうひとつ我ままをお聞ききいただけないでしょうか?
 聖を東から見た時三角形に見える山として、釈迦ヶ岳を選びました。そこからの聖を例のGoogle Earthでシミュレーションしていただけませんか? 釈迦ヶ岳が不具合なら、その近辺の山で、それらしき山があれば入れ替えていただいても構いません。
 Googleマップは時々利用しますがGoogle Earthは未体験です。お忙しいところ申し訳ありませんがよろしくお願いします。

〔T〕興味深いお話をお聞かせ頂きありがとうございます。前聖~奧聖の尾根は東西ではなく、奧聖がやや北側なのですね。今回の話題で地形図を確認して再認識しました。釈迦ヶ岳はいい選だと思います。前聖~奧聖の一直線状の延長は大菩薩辺りだろうと思います。両方のGoogle Earth上の展望図を送付致します。ご検討ください。
 今年の島信のカレンダー「東海道川尽大井川の図」(広重)の山座同定を、正月からトイレでやっています。(このシリーズ、我が家ではトイレが定位置です)
〔追伸〕先程、風呂の中でふと、大兄と聖の会話を交わしたのは「小倉山」かなと思いました。前聖・奥聖~大菩薩を結ぶ線上でありますし、2009.3.15の山行日なら、奥山の稜線も白くくっきりと分かったのではないかと思います。

Google Earth による大菩薩嶺からの展望図

 この「小倉山」がビンゴだったらしい。13日の再放送日は富士山双子山での雪上歩行講習だったが、順調に終わり、「野田屋」での反省を済ませ帰宅しても十分間に合った。またしても、ほろ酔いの頭であったが、なるほど面白い内容だった。山登りの楽しみの一つである眺望=山座同定を、作品上の山に照らしてやってしまうのは愉快だ。加えて芸術家の構図力、デフォルメ力にも感嘆する。もしかして「尾州不二見原」は、見えないことを承知の上で、聖岳を富士山に擬して描いたのかなとも想像した。北斎ならやりかねないのではと思った。それにしても、I氏の山、版画、投稿(?)へのマメな嗜好が目一杯に結びついて、私も一緒になって楽しめた一週間だった。

小倉山から望む南アルプス

【I氏のNHKへの手紙】

 こんにちは。1月6日朝の日曜美術館「北斎の富嶽三十六景」を、大変楽しく拝見しました。一人目の研究者にYさんが登場して最初のビックリ。彼は、同じ会社でピアノ作りをしていた仲間でした。Yさんが写していた大井川を隔てた富士山の下に広がるS市に、当時も今も住んでいることにも縁を感じました。NHKの超望遠カメラをもってすれば、拙宅が見えるのではないかと思えました。
 「尾州不二見原」にまつわる話も面白かったです。趣味で長く山登りをしてきました。所属するハイキングクラブでは大井川、安倍川流域の山々をホームグランドとして登っています。年に2~3回、富士山または富士山が望める山へ行きます。塩山市北部の小倉山に登ったときのことです。南アルプス前衛の山の上に聖岳がチョコッと頭を覗かせていました。リーダー格の同士と「この位置から見る聖は、つまらんね」と呟いてしまいました。志太平野や大井川、安倍川流域の山々から見る聖岳は、前聖と奥聖が大きな吊尾根で結ばれ、堂々としています。小倉山からは聖岳を吊尾根方向に見るため、三角形に見えてしまうのです。特徴的な山容の聖岳を真っ先に見出し、そこから南アルプスの山座同定をしていくのが我々のやりかたです。翻って尾州からの聖岳が三角形に見えることも頷けます。聖岳を挟み対座しているからです。我らの憧れの山・聖岳を、北斎が富士山と見間違えたことが面白いです。冠雪したピークは晩秋から早春、空気が澄んでいる時でなければ名古屋からは見通せないと思うので、取材はその時分だったことでしょう。
 リタイヤして十余年、登った山を木版画で彫っています。たまたまNHKの番組の中で私の作品がチラッと現れたので、いっとき仲間内で話題になりました。版画教室の先生から、いつも山は高く、高く描きなさいと指導されます。そう言われても極端に高くすれば形が崩れ、どこの山か判らなくなってしまうので、鵜呑みにはできませんでした。穂高連峰の高さ方向を120%にしたのが精一杯です。ところが「凱風快晴」ではCG上で200%にすると北斎の画とピッタリ一致したので、これにもビックリ。スケッチ場所が三ツ峠ではないかと推量するくだりも興味深かったです。三ツ峠にも、何回か登っていますから尚更でした。
 拙い文ですが、お知らせしないではいられないほど興奮した時間でしたので、初めてお便りさせていただきました。ありがとうございます。

(2013年2月記)

【I氏の山の版画作品3点】

仙丈ヶ岳

5月・蝶ヶ岳からの穂高連峰

荒川岳


広重・五十三次の山(12)

2024-09-22 10:05:49 | 浮世絵の山

舞坂・今切真景 江戸より30番目の宿

 東海道もいよいよ浜名湖、舞阪へと到達した。湖岸入江の岩山は完全に構図上の産物であろうが、背後の青い山並は秋葉山から竜頭山にかけての稜線であろうか。遠くに見える白い富士の山影は、広重・東海道五十三次において、以西では見ることはできない。静岡に住む我々は、山に登ればまず富士の姿を探す。富士山はまさに山の代名詞であり、眺望が良いとはこれが見えるかどうかと同義であるような感さえある。ところで実際、富士山はどこまで見えるのだろうか。証拠写真のある最遠の地は和歌山県の大雲取山で、その距離320km、計算上の北限は福島県花塚山の308kmだそうだ。現在は、カシミールなどパソコンソフトを使って富士山が見えるはずの地点をシュミレーションし、あしげく通って確認する人達もいるそうだ。これも山座同定の新しい形なのだろう。
 さて12回にわたった拙い連載も、浜名湖を渡り富士の見えなくなった地点で終了。本連載のきっかけは、初回に記したように『岳人』誌掲載の玉置哲広氏の文章であったが、江尻・三保遠望や府中・安倍川、金谷・大井川遠岸のように地元ゆえに見えてくる山もあったように思う。富士山、赤石連峰、白峰南嶺の奥山から里山まで、まさに静岡は山岳県なのであり、こうした山々に囲まれホームグラウンドとできる我々は幸せであると感じる。
 先日、新聞紙上に「広重は実際は東海道を旅していない」という記事が掲載されていた。『広重』とは一種のブランドなのであり、おそらく実際はそうなのであろう。だが広重が東海道五十三次を描く上で、沿道から眺望できるはずの信仰(畏怖)対象の山々を想像し構図として置いたのには、何かの必然性もあったのだろう。同じように私もまた想像の山を持っていたいと思う。それは、まだ見ぬ山という空間への憧憬というだけでなく、昔日人々が仰ぎ見また辿った時間の連なりへの想像でもある。

了。

(2004年3月記)

*  *  *

【2024年9月追記】

「文化遺産オンライン」の解説では

その昔、浜名湖は遠州灘とは砂州で隔てられた湖だったが、明応7年(1498)の大地震以来、浜名湖と海を隔てていた砂州が決壊し、海につながる汽水湖となった。この砂州が決壊した部分を「今切れた」という意味で「今切」(いまぎれ)と呼ばれるようになり、今切の渡しと呼ばれた渡し船が行き交うようになった。画面手前の並んだ杭は波除杭(なみよけくい)で遠州灘の荒波から渡し船を守るために幕府が築いたもの。その「今切」越しに遠州灘を見渡す本図では、浅瀬で漁をする漁夫たちが描かれている。右手手前に帆だけが描かれた帆船もと真白い富士との対比も斬新。正面の山々は実景に存在しないようだ。なのに「今切真景」とはこれいかに。

と述べられているが、“「今切」越しに遠州灘を見渡”しているのではなく、浜名湖側を見ているのは明確だろう。問題は、浜名湖で画のような岩山が実際に見られるだろうかということだ。

 これまで見てきた広重・東海道五十三次の山々は、20年前の推測に反して随分と実景に忠実であったように思えたが、この画ではあり得ない山が描かれていることになる。画のように浜名湖に突き出た半島状の地形は、舘山寺から村櫛にかけてと、三ヶ日大崎の二箇所で、「今切」から見ているとすると手前の山の位置は村櫛となる。だが地形図を見ても分かるように、ここは山というより標高30メートル程度の丘陵状の地形で、山と言えそうなのは半島根元の舘山寺の大草山(113m)、根本山(129.2m)位である。一説によると、奥浜名の景が描かれた別の「元絵」(?)があって、広重画はそれを模倣したともされるが、いずれにせよ手前の山が実景には存在しないのは確かだろう。

 では背後の富士山左側の尾根はどこだろうか。図は今切北東(0〜60度)の展望図だが、手前の山が同定されない以上、これも判断は難しい。図を見ると秋葉山から竜頭山の尾根が富士山の左側に覗いているのは当然としても、大無間山・黒法師岳などの深南部から赤石岳・聖岳など南アルプス南部の山々まで結構見えているのは意外だった。尖った鋭峰は案外と黒法師岳の可能性もあるのかも知れないが分からない。
 さて、広重・東海道五十三次(保栄堂版)の内、静岡県内12宿で描かれた山について、20年前に書いたものを再検討してみた。いったい広重の描く東海道五十三次の風景は、写実的な実景なのか、はたまた想像上の構図なのか、ますます不可解さが強まった気がする。その辺の興味は、以下の大畠洋一氏「江漢・広重東海道五十三次」の考察が面白い。

http://home.catv-yokohama.ne.jp/66/tok53/tok53/tok_index.htm


広重・五十三次の山(11)

2024-09-16 15:43:10 | 浮世絵の山

掛川・秋葉山遠望 江戸より26番目の宿

 実のところ、私は北遠の山をよく知らない。生活でも仕事でも、日坂を越えて西へ行くことはあまりない。山でいえば、SHC発足最初の定例山行であった竜頭山、県スポ祭と昨年の国体観戦のついでの常光寺山、黒法師敗退の折り通過した前黒法師山、麻布山と片手で数える位しか行っていない。従って、掛川の東海道筋から秋葉山がどの程度眺望されるのか、とんと見当がつかないのだ。(というより、あれが秋葉山であると同定することさえできない)
 秋葉山は大井川右岸尾根バラ谷山から分岐し、山住峠、竜頭山を通り天竜川に沿って南下する尾根の末端に位置する。秋葉三尺坊大権現は火伏の神として有名で、秋葉山信仰は全国に伝播している。殊に度重なる大火を被った江戸町民には、その信仰は厚かったらしく、江戸末期の画人谷文晁[たにぶんちょう]も『日本名山図会』にその姿を描いている。
 秋葉街道は塩の道とも重なり、人だけでなく物、文化も交流する幹線道となっていたが、その支線のような秋葉道はあちこちに張り巡っている。島田近辺でいえば一昨年忘年山行の高根山〜西向も秋葉道であり、家山から大日山、春埜山を通り春野町、秋葉山へと至っていた(現、東海自然歩道のルート)。そしてこのルートは本連載⑤「江尻」の項で述べた、アウトロー達のいわゆる“裏街道”とも重なっているところが興味深いのだ。

(2004年2月記)

*  *  *

【2024年9月追記】

この画に描かれている山についての考察は、既に2024年5月、本ブログに『広重「掛川 秋葉山遠望」の山は?』と題して掲載した。

 

広重「掛川 秋葉山遠望」の山は? - 山の雑記帳

歌川広重の有名な浮世絵、東海道五拾三次之内「掛川秋葉山遠望」である。画に描かれている場所は東海道と秋葉街道との追分にあたる大池橋で、渡った先に秋葉山遥拝所か...

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同じく広重・東海道五十三次 掛川の別版には「秋葉道追分之図」として大池橋の秋葉神社・一の鳥居が描かれている。

現在の大池秋葉山遥拝所の祠とその裏北側の風景だが、右の山が「秋葉道追分之図」で鳥居内側に描かれている山と思われる。展望図で確認すると13km北の大尾山のようだ。


広重・五十三次の山(10)

2024-09-15 16:17:27 | 浮世絵の山

日坂・佐夜ノ中山 江戸より25番目の宿

 小夜の中山は、箱根、鈴鹿峠とともに東海道の三大難所の一つであったらしい。「年たけて、またこゆべしと思ひけや命なりけり小夜の中山」の西行の歌をはじめ、多くの旅行記などにその名が記されていることからも、旅人にとって印象深い場所だったことがわかる。小夜の中山とくれば夜泣石で、現在は近くの久延寺に祀られているこの石が、画ではごろんと道の真ん中に転がっていて、旅人の「……?」の雰囲気が面白い。背景の山は、左の切れているのが粟ヶ岳[あわんたけ]、その向こうは経塚山だろうか。
 先に書いたように、我が志太平野(大井川下流域)の東の境が宇津ノ谷峠であり、そのランドマークが高草山とすれば、西のそれは日坂峠と粟ヶ岳ではないだろうか。我が家の前に出るとちょうど西の先に粟ヶ岳が見える(ちなみに東の先は白岩寺山)。山腹の大きな「茶」の字は充分に目立っているが、それだけでなく山容もなかなかの存在感がある。実際に、山頂林は遠州灘を行く船の航行目標保安林となっているそうだから、目印としての機能を果たしているわけだ。
 頂上下にある廃寺は、無間山観音堂といい遠州観音霊場三十三箇所巡りの二十三番札所であったらしい。遠州七不思議の一つに数えられる「無間の鐘」が沈められたという井戸や、地獄穴なども山頂近くにあり、また山伏山という別称もあるようだ。こうした名称や北の経塚山などと併せて考えれば、ここも山岳修験と関係のあった信仰の山であったことが窺える。守護神は一寸坊権現。
 現在は車で山頂まで行けてしまい、山道らしい雰囲気も少ないのが残念だが、頂上の展望台からの景観は素晴しい。南面は牧之原大茶園を眼下に、遠州灘から駿河湾、伊豆半島、冬場には伊豆七島も、北側には山々が幾重にもなって南アルプスへと連なっている。桜の名所としても知られ、シーズンには花見客で結構な賑わいを見せている。

(2004年1月記)

*  *  *

【2024年9月追記】

 これまでの手法に倣い、展望ソフト(アプリ)を使って背景の山を検証してみる。日坂宿から東へ旧東海道の沓掛の坂を上がっていくと、この画の絵碑と少し先に夜泣石跡の碑が建てられている。

お茶街道[旅]6小夜の中山/夜泣石跡・広重絵碑

碑の辺りと坂登り口の「二の曲り」辺りから北方の展望図を各々掲げる。

夜泣石跡からの展望図↑

夜泣石跡からの展望図↑

いずれにしろ広重画左の切れている山が粟ヶ岳(夜泣石跡からの展望図を見ると正確には粟ヶ岳北の高尾山・岳山辺りか?)であり、その右奥が経塚山であるのは間違いないように思われる。手前の彩色されたゴツゴツした山が何であるのかは残念ながら不明である。
ところで、日坂宿を描いた別の広重画には「日坂 小夜の中山夜啼石無間山遠望」とあって無間山=粟ヶ岳が描かれている。↓

粟ヶ岳は先日も南野陽子が登る姿が放映されたりして、すっかり全国区の低山となったようだ。短時間で山頂に立てる気楽さ(何なら車でも)と、山頂からの抜群の展望が人気の理由なのだろうが、何よりも東西南北それぞれに特徴あるルートを開いてきた地元の方々の努力が尊く、良い山になったと思う。

↑西山の郷登山口から尾根に取り付く(9/8)

↑粟ヶ岳山頂標識(9/8)

↑西山ルート初馬川上流部の夫婦滝

 

ランドマークとしての粟ヶ岳 - 山の雑記帳

山頂下の「茶」の字で知られる粟ヶ岳我が家から外に出ると、ほぼ真西の方角に粟ヶ岳(あわんたけ)の「茶」の字を見ることができる。振り返って真東を見ると白岩寺山で、こ...

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粟ヶ岳については上記の記事で海上からの目標ともなっていたことを記したが、御前崎沖「御前岩」から見るとこんな具合

粟ヶ岳の磐座群については下記参照

 

粟ヶ岳の地獄穴と磐座群(静岡県掛川市)

古代からのランドマークだった粟ヶ岳。山頂に式内社・阿波々神社と磐座群がある。磐座群の中心には地獄穴と呼ばれる、地獄と現世の通り道の信仰が伝わる。