山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

息子との山歩き

2024-12-14 16:42:49 | Ryoウォーク

2007年3月 入笠山

 9月のおはようハイク「智満寺」に、三男・Ryoを連れていった。彼はダウン症の障害を持っていて、参加者の皆さんと同様のペースで歩くのは無理なことなので、担当のHm君に「見えなくても気にしないように」と伝え、後から二人でゆっくりと登っていった。亮と山道を歩くのは久しぶりだった。どうだん原の手前で声が微かに聞こえたように思ったが、上がってみると既に誰もいなかった。ここまでは50分と思っていたより順調に歩くことができた。
 どうだん原にRyoが初めて来たのは、ファミリーハイキングだった。私が彼を背負い、妻が末っ子を背負ったが、帰りにちょっとした遭難騒動があった。末っ子のオムツを替えていて出だしが遅れた妻が、一向に田代に下りてこないのだ。兄たちにRyoを見ているように言い聞かせ、丁仏参道を駆け上がった。妻は、どうだん原下の分岐を柏原へと下ってしまったのだ。事なきを得て田代に戻ると、上り口のお宅のおばさんがRyoの面倒を見てくれていて、兄たちは隣の社で遊んでいて恐縮した。田代の谷がまだ埋められていない頃だ。ともあれ、幼児の頃のRyoは私の実に良いボッカトレーニングパートナーで、千葉山周辺や満観峰など近くの山々や笹山、越前岳、遠くは月山も伴(とも)にした。自分の足で少しは山道を歩けるようになると、彼の歩行能力で何とかなりそうな山、いざとなったら私の力で何とかできる山に登るようになった。会の仲間との山行もコースを選び、同行の皆さんにお世話をかけながら何回か参加した。常光寺山(03年)、岩戸山(04年)、蛾ヶ岳(05年)などが記憶に残り、しらびそ高原からの尾高山(04年)は彼なりに精一杯頑張った山だった。

2003年10月 常光寺山キャンプ

2004年3月 岩戸山

2005年4月 蛾ガ岳

 そもそも私が再び山歩きを始めたきっかけの一つは、彼が障害を持って生まれたことだった。自分の意志と能力以外、何にも束縛されない自然の中を、彼の速度で親も共に歩むことができればと思った。同時に彼の誕生を、これからの生活の結果全ての言い訳にしたくないという気持もあった。ずだい山歩きぐらいしか私が一緒にできることは思い浮かばなかった。中学からは水泳を始め体力は徐々にはついてきたが、特別支援学校高等部も後半頃になると内向的な傾向を示すようになり、行動の活発性が減っていった。動作の緩慢に加え体重が増え、今や物理的に私が背負うことは不可能な彼を山に連れ出すことは容易ではなくなり、二人での山歩きは徐々に遠ざかっていたところだった。
 同じように障害(自閉症)の息子を持ち、彼との里山歩きを志した若林岩雄氏(「わらじの仲間」元会長)は、故郷の里山に帰るに当ってこんなことを言っていた。

 どんな山にもピークがある。横を見ればもっと高い山がいろいろある。しかし、今立っている場所が、私が登ってきた山であり、…(中略)…別な山をめざすかどうかは、いったん降りてからのことであった。
(高桑信一編『森と水の恵み』(みすず書房)所収「息子と歩く里山」より)

 そう、まずは降りることだ。何とか智満寺本堂前での皆さんとの集合写真撮影には収まって、少し十本杉の散策をとも考えていたのだが、生憎と雨が降り出してきた。いつだって登ることよりも下ることの方が難しい。殊にダウン症の子たちは、下りの段差を怖がる。前に後ろに位置を変え、支え方を試しながら、どんなやり方が一番、Ryoに安心感をもたらすのかと考えていた。伊太和里の湯に着くとちょうどHm君が風呂から出てきたところだった。さて我らもひとっ風呂浴びよう。

(2015年9月記 会報『やまびこ』No.222)

2008年8月 羽黒山キャンプ

2011年8月 井川県民の森キャンプ

2017年5月 大札山


秋のRyoウォーク1

2024-12-07 18:09:58 | Ryoウォーク

この秋のRyo君とのウォーク

10月13日(日)
かなや公園→巖室神社→大鉄新金谷駅→宅円庵(日本左衛門首塚)→東海汽缶(蒸気機関車整備工場)→かなや公園

巖室神社はちょうど例祭で可愛らしい巫女舞が奉納されていた。Ryoは関心無し。

*社伝によれば、正治2(1200)年頃、当時の住家三戸の氏神として、現在地の巌室を開いて三柱である瓊々杵尊(ににぎのみこと)、木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)、金山彦命(かなやまひこのみこと)の神を勧請奉斎し、巌室神社と称すと記しています。町名金谷のこの金山彦の神名から、由来したとの説もあります。
その後、神社名は、「若一王子社」、「姫宮」から「巌室神社」に変更されましたが、氏子たちは今でも「姫宮さん」と親しみをこめて呼んでいます。(島田市観光協会HP)

大井川鐵道・新金谷駅ではトーマス・イベントで大賑わい。人混みの苦手なRyoは、比較的空いているプラザロコ内へ。

新金谷駅近くの昔からの駄菓子屋「かんとんや」で休憩、かき氷(200円)、おでん(1本50円)、ところてん(1本80円)也。

大代川を渡る大鉄電車、一段上は東海道本線。東海汽缶(SL整備工場)構内に展示されている機関車を眺めた後、かなや公園に戻る。

11月17日(日)

法多山尊永寺→御前崎(旧浜岡町)桜ヶ池→牧之原富士見霊園

法多山では紅葉祭りが始まったが、異常な高温だった今秋は未だ色づかず。長い参道と階段を登って尊永寺本堂にお詣り。「和傘アート」があちこちに展示されていた。

*法多山は、寺号を尊永寺と称する、高野山真言宗の別格本山です。本尊正観世音菩薩は厄除開運のご利益に霊験あらたかであるとして、古来より俗に厄除観音と呼ばれております。神亀二年(七二五)、聖武天皇の勅命を受けた行基上人が大悲観音応臨の聖地をこの地に探し求め、自ら刻んだ本尊正観世音菩薩を安置したのが縁起といわれています。本尊の霊徳は遠く京都に及び、白河、後白河天皇の勅願あつく定額寺の列に加えられていました。その後今川、豊臣、徳川等武将の信仰を得て、特に慶長七年(一六〇二)、徳川家康公より五万石の格式を以って遇せられ、一山十二坊の法燈が栄えましたが、明治維新に朱印地返還、十二坊を廃して総号尊永寺と改め今日に至りました。(法多山尊永寺HP)

復路は浜岡町(現御前崎市)の桜ヶ池に寄り道。

*遠州七不思議のひとつ「龍神伝説」ゆかりの池
標高四十メートル、小高い山の上にある桜ヶ池(さくらがいけ)は、東西北の三方を原生林に囲まれ、深い緑色の水をたたえる神秘的な池。二万年前、丘陵の谷を砂がせきとめ、そこに涌いた水が池となって現在に至ります。
比叡山の名僧 皇円阿闍梨(こうえん あじゃり)は、世の中の人々を救済したいと自ら悟りをひらくため、難行苦行を重ねました。しかし、仏法をきわめることは非常に困難であると知り、56億7千万年後に出現するという弥勒菩薩から直接教えをいただく以外に、悩みから人々を救う方法がないと考えたのです。ところが、人間の寿命ではこの願いは叶いません。そこで、平安時代末期、嘉応元年(1169年)6月13日、阿闍梨は龍に姿を変えて、桜ヶ池に入定(にゅうじょう)されたと伝えられています。

叔母の墓参り、牧之原富士見霊園から高草山塊の向こうに富士山を望む。

11月23日(土)

伊太田代→どうだん原

千葉山どうだん原の紅葉だが、今年は色付きが鮮やかではなかった。

12月1日(日)

大代ジャンボ干支→島田市博物館→大井川河川敷(リバティ)

制作途中の大代ジャンボ干支、来年は巳年だ。忘年山行の粟ヶ岳下見の迎えをRyoにお願いした。

昼食後、島田市博物館から大井川河川敷リバティを歩く。博物館前にはこんな写真撮影用モニュメントができていた。


小夜の中山散歩

2024-09-25 14:49:55 | Ryoウォーク

23日は雨が止んで、少しだけ涼しくなったので、Ryo & Chi と一緒に小夜の中山の旧東海道を散歩。広重・東海道五十三次の山(10)の景を確かめる。

広重・五十三次の山(10) - 山の雑記帳

久延寺(きゅうえんじ)境内に祀られる「夜泣石」だが、実物(?)は明治14年に東京の内国勧業博覧会に出品され、その後、国道1号線沿いの小泉屋脇に移された。ここの石は意外と小さい。

境内のスダジイ、幹は大きなムロとなっている。

すぐ近くの浮世絵美術館「夢灯(ゆめあかり)」へ、当地所縁の浮世絵を鑑賞する。館長の話では、広重・東海道五十三次「日坂」に描かれている山は、保栄堂版(本記事頭の画)、隷書版(パンフ右上)、行書版(パンフ左下)いずれも粟ヶ岳とのことだが・・・

北側のテラスでコーヒーを戴きながら山を眺める。左・粟ヶ岳(「茶」の字が分かるだろうか?)その右横・岳山、その右(手前の枯木が山頂にかかっている)経塚山、間奥・八高山となるだろう。ここは峠の頂上付近で、夜泣石が実際にあったのは1.7kmほど西(日坂側)へ下った場所だから、粟ヶ岳と岳山はもっと重なった景となる。隷書版、行書版に描かれた山と近い形で、保栄堂版ではやはり左の切れた山が粟ヶ岳(岳山)だろう。

夢灯を辞して火剣山(茶畑左奥の茂み)登り口まで歩いたが、Ryoは今日はここまでとのことで引き返す。

左遠くには志太平野東のランドマーク、高草山が望まれる。東京の孫に送るようにと扇屋で子育て飴を買って帰る。


息子とのビバーク

2024-08-17 12:05:01 | Ryoウォーク

 海の日連休中日の富士宮口五合目は、これから山頂を目指す人たち、下りてきた人たちで賑わっていた。息子と二人、そんな賑わいから外れ宝永火口へと向かう水平道を歩き出した。山頂ではなく、須山口登山道を水ヶ塚へ下るつもりなのだ。登りでなくとも、ダウン症の障害を持つ息子が凸凹の坂道を歩くのが苦手なことは充分承知しているから、標準コースタイム3時間に対して倍の6時間を見込んでいた。

 

 宝永第二火口縁に出ると、山頂には雲が掛かっているものの、青空に宝永山や火口の荒々しい壁が映え、普段の里山とは違う高山らしい雰囲気に、息子も満足そうに写真に収まった。第三火口のザレた斜面にやや手こずりながらも時間を掛けて下り、火口底の御殿庭上で弁当を食べた。ここまでは想定の範囲に収まっていたが、三合目・御殿庭中を過ぎた辺りから亀にも及ばぬ歩みとなってしまった。数メートル歩いては停まってしまう。付く距離を変えても、押しても引っ張っても、脅してもすかしても、時折すれ違う登山者の励ましを受けてもさっぱり進まない。焦り、苛立ち、罵りの言葉を浴びせながら、半ば強引に引きずるようにして、それでも200メートルぐらいは下っただろうか、御殿庭下を過ぎた頃には夕暮れが迫り、ここに至って最終のバスにも到底間に合わないことを覚悟した。

 息子に与えるだけの残りの食べ物と水も何とか明日までもつだろう。ツェルトの用意もあるし、幸い雨や風の心配もなさそうだった。今日中には帰宅できないことを携帯電話で妻に伝えた。少し動揺したようだったが、迷ったわけではなく現在地は正確に把握していること、一晩過せる用意はあることを伝え、過度な心配は無用と話した。妻は水ヶ塚まで行くと言うので任せた。それでもこの調子では明日、水ヶ塚に着くのが何時になるのか見当もつかない、できるかぎり下っておきたいと思った。程なく日は沈み針葉樹の森は闇に包まれた。須山口登山道は四季を問わず幾度も歩いてきた道だから、状態はよく分かっている。森の中でもヘッドランプがあれば歩ける自信はあったが、息子を連れてとなると小さな躓きも決定的な失策になりかねず慎重を要した。コンパスを合せ、周りを照らし地形とコースサインの有無を確認した後、10メートルほど先に目標を定め、自分の足元を照らしながら数歩進み、振り返ってスリングで確保した息子の足元を照らして数歩進ませる。傾斜の強い場所は体を密着させて下ろした。そんな尺取虫のような歩みの繰り返しが、却って心のリズムに合ったのか、息子は闇にパニックになることもなかった。水ヶ塚に着いた妻から電話が入った。駐車場の警備員が心配して救助要請を尋ねたが「父さんがいるから大丈夫」と話したらしい。その後も何度か電話をよこし、私は今いる位置と息子の状態を伝え、息子にも妻の声を聞かせた。水ヶ塚に下るまでずっと携帯が繋がることは確信でき、いよいよとなれば連絡ができる状況は心強かった。
 1750メートル辺りまで来て、五合目を発ってから12時間以上が過ぎていた。できれば倒木帯辺りまで下りたかったが、息子が動けるのも限界だろうし、加えてさすがに私自身も疲れていた。二人横になれる平らを見つけ、息子に私の防寒着も与え、ツェルトに包んだ。残りのパンを食べ横になると、息子はすぐに鼾をかきながら眠ってしまった。妻にビバークに入ること、明るくなると同時に動き出すことを伝え、私もカッパとビバークシートを被り息子の横で体を休めた。鹿の警戒する鳴き声を聞きながらウツラウツラとする内に、やがて周りは鳥の囀りに変わり辺りが白んできた。翌朝四時過ぎ息子を起こした。ぐっすりと眠れたようで、歩くのに支障はなさそうだった。相変わらずの数歩進んで立ち止るの繰り返しだが、それでも少しずつ下っていった。一合五尺の手前で迎えに上がってきた妻と合流し、持参してくれた食べ物と飲料を口にすると、心無し息子にも安堵の気配が窺えた。さらに2時間余りかけてようやく水ヶ塚にたどり着いた。
 所詮、千メートル近い下りは息子には無理筋の計画で、ルート選定の甘さを思い知った。いつまで、どこまで、どういう方法で一緒に歩けるだろうかを自問するのだが、帰ってからの救いには、あの日の写真を眺めながら一人ニヤニヤとしている息子の姿がある。

(2018年11月記)


天方城跡

2024-07-21 14:04:20 | Ryoウォーク

15日、Chi、Ryoと一緒に車で森町・城ヶ平(天方城跡)へ
たかだか248mの端山だけど、よく整備された城跡をゆっくり巡れば、風に吹かれて少しは涼しいかな〜
誰もいない櫓風の展望台は南西に開け、森町の市街、磐田原、遠くに浜松のアクトタワーが見える

森町の城郭

森町の山城(やまじろ)をめぐる戦いは1501年(文亀元年)の天方本城(あまがたほんじょう)(大鳥居)に始まる。城を守ったのは今川方の天方通季(みちすえ)軍、攻めたのは斯波(しば)・小笠原連合軍。通季は一時、城を奪われ、付近の山上に避難し、今川軍本隊の応援によってようやく城を奪還(だっかん)することができた。
通季の孫にあたる 通興 ( みちおき ) は、徳川家康軍が遠江に侵攻してくることを予想して、1568年(永禄11年)ごろ、向天方に天方 新城 ( しんじょう ) (現在の天方城)を築いた。1569年6月、徳川軍は大挙して同城を襲い、通興を降伏させ、続いて飯田城の 山内 ( やまのうち ) 通泰 ( みちやす ) 軍を攻めてこれを滅ぼした。通泰の 庶子 ( しょし ) 伊織 ( いおり ) が、家臣の 梅村 ( うめむら ) 彦兵衛 ( ひこべえ ) に伴われて三河(愛知県)へ落ちのびたのは僅かな救いであった。
1572年(元亀3年)、こんどは北から武田信玄軍が遠江へ攻め込んできた。 
信玄は天方新城に部下の久野弾正(くのだんじょう)を入れ、飯田城も攻略し、さらに南下して東海道に出て磐田原(いわたばら)台地を北上し、二俣(ふたまた)城を落としたのち、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川軍を大破したが、西進の途次、陣中で病没した。
家康は1573年3月、いったんは武田軍に攻略された天方城・ 各和 ( かくわ ) 城などを奪い返し、 一宮 ( いちのみや ) ( 片瀬 ( かたせ ) )城・ 向笠 ( むかさ ) 城を攻めた。一宮城を守っていた 武藤 ( むとう ) 氏定 ( うじさだ ) は 亀ノ甲 ( かめのこう ) (掛川市)へ逃れ、向笠城も一戦も交えず敗れ去った。6月、徳川軍は一宮城・ 社山 ( やしろやま ) 城(豊岡村)に防御柵を構築して 二俣 ( ふたまた ) 城の押さえとし、浜松城へ帰陣した。
氏定は、その後も武田方に属し、1581年(天正9年)、高天神(たかてんじん)城(大東町)で徳川軍と戦い、壮烈な戦死を遂げた。

(森町HPより)