山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

続・手引頭

2024-05-30 08:35:59 | 日記

先の記事で「もう四半世紀も前になるが、今回と逆コースの仁科峠から天城峠を歩いたことがあったが、P1014を踏み同じタコブナを見たのかどうも記憶が定かでない。」と記したが、2008年に「手引頭」を紹介していた伊豆在住の[Yさん](趣味人倶楽部)に尋ねてみた。

[takobo]
このP1014を「手引頭」と称すようになったのはいつ頃からでしょうか? また山名の謂れはどこからでしょうか? ご存知でしたらご教示をお願い致します。
四半世紀も昔、子どもを連れて来たことがありましたが、その頃はまだ手引頭とは呼ばれていなかったように思いました。

[Yさん]
30年以上前から伊豆の山を歩いてます。
当時、伊豆の山は山道以外は猛烈な笹に覆われていて、道以外の藪を歩くのは困難でした。
手引頭を知ったのは30年前の「伊豆 天城山」(日地出版)の地図に記載されてたからです。ですから山名由来については不明です。
当時、猛烈な笹漕ぎをしないと手引頭の山頂に登れませんでした。
ですから山名は一般の方々には知られてなかったと思います。
笹が枯れて歩きやすくなった頃、某写真家が石楠花や大ブナを紹介したので、これをきっかけに名前が知れ渡ったのだと思います。

[takobo]
私がWEB上で閲覧した限りでは、Yさんの2008年5月の投稿が一番古い「手引頭」の掲載でしたので、質問させていただきました。
手元にあった1996年版の『山と高原地図・伊豆』や2000年発刊のアルペンガイド「駿遠・伊豆の山」では、ツゲ峠から猫越峠が尾根通しのルートで示されていますので、かつての伊豆山稜線歩道はP1014近くを通っていたのかなと思いました。もっとも藪漕ぎをした記憶はありませんので、違うのかなぁ・・・

[Yさん]
手引頭付近の山稜線の笹藪は2002年位にはほぼなくなり、尾根を歩けるようになりました。今はアセビの藪で歩きにくいです。
2000年発行のアルペンガイド(私も持ってます)に記載されてるツゲ峠から猫越峠に向かう歩道のルートは間違ってます。
2万5千分の1の地形図を丸写ししただけなんです。2万5千分の1の地形図は町境の印に歩道ルート付け足した、いい加減なものでした。
山稜線歩道は猫越峠からツゲ峠まで標高960mの等高線に沿ってしっかりした歩道になってます。尾根道ではありません。ですからもともと藪はありませんので貴方の記憶は間違ってませんよ。もし、藪漕ぎせずに尾根を歩いたのなら笹が枯れた2002年以降になります。

腑に落ちた。「手引頭」のタコブナと大シャクナゲは、やはり今回が初見だったようだ。


伊豆山稜線歩道・手引頭

2024-05-29 11:07:15 | 山行

2024年5月26日/伊豆山稜線歩道(天城ゆうゆうの森〜仁科峠)

天城ゆうゆうの森(8:35)…二本杉峠(9:47〜55)…滑沢峠(10:20)…三蓋山(11:03)…つげ峠(11:30)…P1014・手引頭(12:00〜25)…猫越岳(13:55)…仁科峠(14:50)

手引頭のタコブナ(2024.5.26)

大ブナ峠(通称・P1014西)のブナ巨木(2024.5.26)

 所属会の5月定例山行は、伊豆山稜線歩道の二本杉峠から仁科峠を歩く。ハイライトは、昼食場所としたP1014「手引頭」周辺のブナ林、広々としたいかにも天城の森らしい雰囲気のある場所だ。山頂近くの大シャクナゲの下部は既に花を落としていたが、頭部はまだ可憐なピンクの花を十分に残していた。山頂に根を張るこの森の主のようなタコブナは、何本もの太い枝を横に長く伸ばし、威厳に満ちた存在感を示していた。いずれも天城山系随一の巨木とされている。この伊豆山稜線歩道沿いの森は、百名山の天城山周辺の喧騒に比べだいぶ静かなところも良いと思った。

P1014「手引頭」の山名板(2024.5.26)

 ところで、P1014が「手引頭」と呼ばれるようになったのはいつ頃からなのだろうか。山行にあたって私がWEBで見た範囲では、『趣味人倶楽部』というSNSサイトで伊豆在住の[Yさん]が2008年5月にガイドブックに載らない穴場として紹介しており、「手引頭」の山名板が写る写真も掲げられていた。

 もう四半世紀も前になるが、今回と逆コースの仁科峠から天城峠を歩いたことがあったが、P1014を踏み同じタコブナを見たのかどうも記憶が定かでない。例えば山と高原地図『伊豆』1996年版では、現在のツゲ峠から南面をトラバースする破線道ではなく、尾根通しで1014標高点の僅か南を通るルートが示されているし、2000年発行のヤマケイ・アルペンガイド『駿遠・伊豆の山』に載る「天城峠から伊豆山稜線歩道」も同様であるから、以前の伊豆山稜線歩道はここを通っていたのだと思うが「手引頭」の山名記載はない(いずれも調査執筆者は真辺征一郎氏)。またガイド文でツゲ峠付近の「巨大なブナの原生林」には触れているが、大シャクナゲやタコブナについては触れられていない。「手引頭(てびきがしら)」という名はいったい何に由来しているのだろうか、何やら雲霧の一党みたいだな・・・と思った。

『山と高原地図/伊豆』1996年版に載るツゲ峠〜猫越峠間のルート

 以下は、その四半世紀前の山行記。

ブナに囲まれた散歩道

 伊豆山稜線歩道は、天城湯ヶ島町の天城峠から西に向かい町境の稜線上を船原峠まで北上、さらに西伊豆スカイラインに沿って修禅寺町の達磨山、金冠山まで続いている道だ。今回は湯ヶ島町の温泉会館に車を置き、タクシーで持越林道を仁科峠まで上がり、ここから天城峠を目指した。天城湯ヶ島町は来年「植樹祭」が開催されるようで、これにあわせ西伊豆スカイラインとつながる広い道路の建設が山中で進んでいる。

「“植樹祭”のために木を切って道路を造るんだから変な話だよね」

とはタクシーの運転手の弁。まさに同感。船原峠までは比較的静寂だったこの山稜線も大きく変るのだろう。

 工事用の車両が動く脇から登山道に入る。スズタケの中の道を猫越岳へ緩やかに登る。小一時間程で展望台に着く。暖かな日差しと風もない天気のせいか霞んではいるが、北に富士山が望む。冠雪は、山頂付近にひだのように僅かに残るだけで、数週間前よりかなり少ない。すぐ下には天城牧場の赤い屋根が見えるが牛の姿はなかった。西に目をやると駿河湾、宇久須港に入る漁船だろうか小さく見える。さらにその先には御前崎が霞んで見え、目を移していくと南アルプス主稜線の山々も遠望できる。

「あのあたりが島田だね」

などと話しながら小休止する。僅かに下った所に火口湖があったが、水はほとんどなく小さな泥沼のようだった。二等三角点を過ぎ猫越峠へ緩やかに下る。

 後はもうほとんど平らな道が続く。幅は並んで歩けるほど広く、良く整備されていて、まさに“歩道”である。両側はツゲとブナの林だ。五、六メートルも横に太い枝を延ばしたブナの大木に驚かされる。展望はないが、落葉が敷き詰められた明るい平坦な道は、登山というより散歩という感じ。所々に残った紅葉がアクセントを付けていた。

 ツゲ峠に昼少し過ぎ到着、大休止で昼食を摂る。近くのブナの林の中で木登りを始めた子供を真似て、大人達もやや重くなった身を持て余しながら、しばし童心に帰る。滑沢峠を過ぎると植林も目立つようになった。ここまでに会った登山者は、反対方向からの単独者2人のみ。静かな山行だ。二本杉峠は旧の天城峠である。今、放映中の徳川慶喜の時代、開港をめぐってハリスや吉田松陰らが越えた峠だ。古い休憩舎が建っていた。さらに天城峠まで、晩秋の午後の陽に追われるように足を早めた。天城トンネルバス停から湯ヶ島に戻り、汗を流し帰路に着いた。

(1998年11月14日)


オオキンケイギク

2024-05-25 14:10:45 | 日記

特定外来種のオオキンケイギク、最近は公園や歩道の植込みの中、道路の法面、堤防とあちこちで見かける。

市の環境課に駆除をお願いしたら「残念ながら既に駆除・根絶ができる段階ではありません。」と白旗状態。

「なお、オオケンケイギクを処分する場合には、根から引き抜いていただき燃えるごみとして排出いただければ幸いです。」おいおい、個人ボランティアかい・・・

でも指定管理者に連絡を入れたのか、中央公園内のものは数日後に処理されていた。

市外からも大勢訪れる中央公園内にオオキンケイギクのお花畑では、ちょっとみっともないからなぁ。


京柱峠・祭文峠、地名の考察

2024-05-19 15:43:50 | エッセイ

 京柱(きょうばしら)峠(570m)と祭文(さいもん)峠(590m)は伊久美川右岸尾根上にあって、いずれも伊久美の谷と川根・身成の谷を繋ぐ峠道であった。藤枝側から蔵田や桧峠を経由して伊久美ヘと入った山の交易路は、これらの峠を越え上河内、一色の身成谷へ、さらにそこから阿主南寺(あずなじ)峠などを越えて大井川中流域の川根筋へと入っていった。

 大井川上流部は行き止まりの閉塞谷で、中流部に至るまで両岸には山が迫っている。その上、江戸時代には架橋、通船が禁じられていた。……生活に必要な物資はすべて峠越えで求めなければならなかったし、産物もまた峠越えで出さなければならなかった。

 こうした悪条件は中、上流域の人々と渓口都市である島田、金谷との結びつきを驚くほど弱いものにしていった。左岸部は静岡、藤枝、右岸部は森(周智郡)と強く結びついたのである。(中略)

藤枝商圏=①蔵田峠・瀬戸川ルート(笹間石上、大平など)②桧峠・瀬戸川ルート(上河内、一色、伊久美など)

 川根町一色に住む藤田広次さん(明治四〇年生まれ)は、一三歳の年に炭二俵を背負い、祭文峠を越えて伊久美に出、さらに桧峠を越えて南麓の坂下(現藤枝市上滝沢上流部)まで歩いた。今はその跡形もないが、当時坂下には炭問屋、米問屋、板棒問屋、雑貨問屋など七軒の家があった。藤田さんは炭問屋に炭を売り、帰りには米問屋で米を八貫目買って帰った。……(大井川を)高瀬舟が上るようになっても、川の増水期にはあてにならなかったので、峠が捨て去られることはなかった。

 他地域に比べて大井川流域の峠利用は多く、しかも遅くまで続いた。こうした状況なればこそ、この地域においては峠の信仰も盛んであり、今日に至るまでそれが生き続けている。(後略)

――野本寛一『大井川 ―その風土と文化―』(昭和54年・静岡新聞社刊)――

 さて、少し変わった両峠の名は何に由来しているのだろうか? 京柱峠の名で有名なのは現在国道439号の難所として知られる徳島・高知県境の剣山地の峠で、「弘法大師が阿波から土佐へ向かった時、麓の祖谷(いや)の村よりあまりにも遠く、この峠を越えるのは京に上るほどだということからこの峠名がついた」(Wikipedia)とされているようだが、それが何故「京柱」となるのかやや意味不明にも思える。地名で大事なのは音であって、当てられた漢字に引きずられ過ぎると元々の意味を見失ってしまうことがあるようだ。私は、この「京〈きょう〉」とは京都の意ではなく〈峡〉または〈経〉ではないかと考えた。四国の京柱峠(1,123m)は、日本三大秘境のひとつにも数えられる阿波の祖谷と土佐の大豊の谷を隔てている。つまり峡谷の間に立つ柱のような峠とでもいう意味となろうか。〈京〉の字を〈峡〉の意味で当てていると思われる地名は、同じ祖谷に「京上」が、北西の徳島県つるぎ町にはそのものずばりの「京都」もある。

 では〈経〉を考える根拠は何か? 瀬戸川ルートを使った藤枝商圏の山の交易路の起点は藤枝宿西の茶町・音羽町で、町の北には瀬戸川左岸尾根末端の丘陵に真言宗の古刹、音羽山・清水寺が建つ。同寺の開基は神亀3年(726年)、開祖は行基、中興開山は弘仁8年(817年)弘法大師とされている。清水寺の西には京塚山(245.1m)があって、元々はここに寺があったらしい。一方、身成一色から川根堀之内へ越える阿主南寺峠(470m)には同じく真言宗の慈眼山・阿主南寺があって、神亀5年(728年)やはり行基による開基と伝えられる。身成の大井川対岸山中の大日山・金剛院(真言宗)、春埜山・大光寺(曹洞宗)もまた養老2年(718年)行基による開基と伝えられる。伊久美川口対岸の福用には経塚山(669.9m)がある。経塚というのは経文を経筒・経箱に入れて埋めた塚のことで、「各時代を通じて、社寺となんらかのつながりをもつ所、すなわち社寺境内やその近傍、あるいは霊地と目されている所を選んでつくられているが、一方、墳墓の近くや、江戸時代には路傍などにも営まれた。」(世界大百科事典:三宅敏之)らしい。伊豆山神社経塚、三重県朝熊山経塚、奈良県金峰山経塚、和歌山県熊野三山経塚、高野山経塚などの例を見ると、経文といっても神仏習合の修験系、真言密教系の色合いが強いように感じられる。先に挙げた各寺も行基による開基の伝承のとおり、そもそもは修験系の霊場だったようだ。また、このルートは川根筋へと上る山の交易路であったと同時に、家山を経由して神仏習合の一大聖地であった秋葉山へと向かう信仰の道=秋葉道でもあったようだ。そのようなことを鑑みると、福用の経塚山はもとより、清水寺西の「京塚」は「経塚」であろうことは明らかだろう。「京柱」とは「経柱」で経文を埋めた目印のようなもの(柱?)があったと考えられないだろうか(「経柱」の用例が見当たらないことが弱いが…)。今は傍らに二体の地蔵が祀られている。

 伊久美・小川から身成・一色へと越える祭文峠の「祭文(さいもん)」は、祭の時に神仏に告げる祭詞、祝詞であるが、鎌倉時代以後、信仰を離れて山伏が錫杖や法螺貝を伴奏にして歌謡化したものを全国に広め、のちに祭文語りとして門付芸の一つとなった。上述したようにルート上の修験系の匂いを考えると、こうした峠を山伏や行者が越えていったことは充分想像されるし、峠越えの無事を祈って祭文が上げられたことも考えられる。今は植林の中で、小さな道標が無ければそれと気付かない位に、古の峠らしい風情も何もないのは寂しいかぎりだ。

京柱峠

祭文峠


広重「掛川 秋葉山遠望」の山は?

2024-05-13 14:55:22 | エッセイ

歌川広重の有名な浮世絵、東海道五拾三次之内「掛川 秋葉山遠望」である。画に描かれている場所は東海道と秋葉街道との追分にあたる大池橋で、渡った先に秋葉山遥拝所が建つ。「秋葉山遠望」であるから、右に描かれている山が秋葉山ということになっているが、はたして本当にここから秋葉山を望むことができるのか、過日の 「塩の道」ウォークで話題となった。秋葉神社の裏手から鳥居と拝殿の延長線の方角を望んでみるが、これはどうも真北方向で見えている山は大尾山辺りではないかと思われた。秋葉山の方角はもう少し西となるはずだが、小高い丘に建つ住宅地に遮られ先の眺望は得られず疑問は残った。本当に当時、大池橋で秋葉山を望むことができたのか考察してみたい。

図1 秋葉山方向の山

図2 秋葉山方向の断面図

秋葉山山頂(885m)は、大池橋の遥拝所から見て北北西333°、距離25.7kmの方向にあたる(図1)。地図のとおり、この方角の秋葉山手前には、城ヶ平(天方城跡)248m、本宮山(小國神社奥宮)511m、高塚山496m、光明山540mなどがある。また、天竜川を越えた背後には橿山1059.2m、戸口山1026.7mが、稜線上の北側には竜頭山1352.1mがある。秋葉山方向の標高断面図を作ってみると、遥拝所から約15km地点のピーク(本宮山と高塚山を結ぶ尾根の中間にある580m標高点)に僅かではあるが遮られ、秋葉山山頂は望めないようだ(図2)。また大池橋地から北北西320〜360°の展望図をソフト『スーパー地形』で作成したが、やはり330°の方向に秋葉山は望めていない(図3)。それでは広重は、付近の少し小高い場所から秋葉山を遠望し、この画に嵌め込んだのだろうか? 試しに大池橋より秋葉山方向へ約1.1kmの54.7m三角点で試みるがやはり望めず、秋葉山が頂を覗かせるのはさらに100m程の高度が必要となった。やはり秋葉山はこの場所からは見えていなかったのだろう。広重の東海道五拾三次画において実景では見られない山が描かれるのは「小田原 酒匂川」、「金谷 大井川遠岸」などでもみられることだが、掛川においても同様にその方角にあるべき信仰の山として、実景にはない秋葉山を描き入れたのだろうか? あるいは画に描かれている山は、現在の秋葉神社上社が建つ885mのピークとは異なるのではないかという疑念が湧いてきた。

図3 遥拝所北北西の展望図

昼の休憩場所とした十二所神社(秋葉山遥拝所から北西方向に約1km)近くで、同行のIK氏が「あそこに見えているのは竜頭山だね」と話された。現役時代の勤務地がすぐ近くであった氏にとって、ここからの竜頭山の姿は見慣れたものだったに違いない。図3で掲げた展望図中の竜頭山を拡大してみた(図4)。この竜頭山と左の天神山(竜頭山南稜線1.4kmの1,260mピーク)を合わせた姿は、何やら「掛川 秋葉山遠望」に描かれる山の姿と似通ってはいないだろうかと思われた。

図4 拡大した展望図で見る竜頭山

北遠の常光寺山から秋葉山に至るこの稜線にはもともと古代から巨石(磐座)信仰があり、さらに中世になると熊野修験や白山信仰が入り込んで修験回峰の場となっていった。そうした神仏習合の修験道の霊場としての信仰を背景として、江戸期に入ると火伏の神としての秋葉信仰が広く普及していった。当時の秋葉信仰の中心は秋葉三尺坊大権現=秋葉寺(しゅうようじ)であり、その奥の院として竜頭山があった。

――秋葉寺の「奥の院」は竜頭山であった。「奥の院」ということは、一般的に元々の寺社の場所ということから、ここでは竜頭山が秋葉寺の元(神体山)になると考えられる。現在でも、竜頭山の西からの登山口に奥の院を示す道標(1769年銘)がある。竜頭山の標高は1,352mで、頂上に続く南側の岩群の場所にかつて祠があった。そこは現在、祠跡のある付近である。祠跡の岩が磐座と思われる。つまり、竜頭山が秋葉信仰の当初の聖地であり、後に頂上から200mほど低い天竜林道沿いへ大登山霊雲院が移され、さらにその後、赤石山脈の南端である秋葉山へ信仰の中心が移り、秋葉大権現が出来たと考えられる。

(「秋葉古道の成立過程と果たしてきた役割の研究」中根洋治他、 2012年『土木学会論文集 D2(土木史)』所収)

江戸期の秋葉信仰において「秋葉山」とは885mピーク(現秋葉山)に留まらず、稜線北方1,352mピークの奥の院(現竜頭山)をも含むものであったことは明らかだろう。とすると「掛川 秋葉山遠望」に描かれた山は、 あの場所から実際に望むことができた竜頭山だったのではないか。むしろ本来遥拝すべき神体そのものは竜頭山の方で、東海道追分を行く人々は奥の院=竜頭山を「秋葉山」として遠望したのだろう。「掛川 秋葉山遠望」の完成は1833年、広重は当時の盛んな秋葉信仰の様子を画に込めていたのだ。