山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

童子沢と野守のこと

2024-09-27 16:14:00 | エッセイ

童子(わっぱ)沢

 8月のおはようハイクは大代の童子[わっぱ]沢で、報告や写真、また後日頂いた「沢歩きは子供が小さい頃やったので懐かしかった。童心に帰った気持ちになった。斜面を登ったり下ったりは急で、ちょっとスリルがあったりして楽しめた。」というH・Mさんの感想などから、楽しい様子が伝わってきた。同時にI・Kさんの「童子沢には鉱泉が湧出し、それを沸かして湯治ができる宿があった」という一文には驚いた。

野守の池

 大代という地区は、旧五和村の中で最も歴史があると謂われている。牛尾山西側の旧五和村の大方は「天正の瀬替え」(1590)以前は大井川の流路下にあって、その後開墾された比較的新しい土地なのである。瀬替え以前は上志戸呂辺りが大代川と大井川の合流地点で、ここで大井川は平野部に出ていったのだし、また大井川の渡り場となっていたこともあるから、大代という場所は山間部からの出口として重要な意味を持っていたと言える。かつて地蔵峠が川根街道(R473)の難所であったとおり、ここから上流部において蛇行を繰り返す大井川の流れに沿って道ができるのは時代が下ってからだ。家山という場所も大代と同様に、家山川と大井川の合流点に当たる。家山の野守の池については、20周年記念講演で八木洋行氏が興味深い話をしていて、ここは太古から人が住んだ痕跡があると語っている。地形が似通って、歴史も古い両集落を結ぶ山の道が存在したはずではないかと考えた。おはようハイクの終了点をさらに詰めていくと、神尾山と経塚山の鞍部に出る(以前のおはようハイクで、福用に下った所)。家山に向かうには、経塚山から北上し馬王平、八高山、カザンタオ峠を経て前山に向かうことになり、この尾根道は今なお歩かれている。

江戸時代の門付芸としての「鳥追い」(野守大夫?)

 例の童子沢の野守大夫の話は、鯉になって沢の源流まで行けたとしても、まだ家山までは遠い尾根道の先であるから、魚となった身にはちょっと辛いものではないかと思える。つまり野守大夫の話は大代と家山の結び付き、殊に「野守」と呼ばれた人々の繋がり、「野守の道」を示しているのではないかと考えるのだ。家山の「野守」については、やはり八木洋行氏が興味深い話をして下さった。おそらく山の民の末裔であっただろう「野守」の人々は、この道を通り大代から下流の平野部へと行き来したのではあるまいか。もしかしたら童子沢の〈わっぱ〉とは、工芸品の曲げわっぱに由来するとは考えられないだろうか。この名に当てられた「童子」も単に子供の意だけでなく、酒呑童子や八坂童子などに見られるように異形の者の呼称にも使われている。そんなことをツラツラと“夢想”したのだ。

夢窓疎石像 無等周位筆 自賛

 ところで、野守の池の伝承に登場する夢窓国師(疎石)は、鎌倉末期から南北朝期の禅僧で、伊勢の出身であることから、熊野修験に関わりがあるのではないかと思える。実際、幼少期には甲斐で真言宗、天台宗などの密教系の修行をしているし、一三三五年に国師号を授けられたのは建武の新政での後醍醐天皇からである。修験道の山伏というのは山岳地を駆け巡っているから、各地に通じていて、諜報に優れていたと謂われる。後醍醐天皇が熊野を勢力に付けようとしたのは、まさにそうした理由もある。そして大井川が、その南朝勢力の最前線にあったことは、遠州が秋葉山をはじめとして修験道の一つのメッカを成す地域であったことと無縁ではあるまい。
 また修験道は鉱物=金属精錬とも深く関わっている。地形図を眺めると大代周辺には、それを連想させる字名が幾つかある。「白銀」というのはそのものズバリだし、「四分一」というのは「金属工芸で使われてきた日本古来の色金(いろがね)のひとつで銀と銅の合金である。合金における銀の比率が四分の一である事から名付けられた。」(ウィキペディア)と記されている。大代川を遡って粟ヶ岳の北麓を行くと「庄司」で峠を越え、原野谷川の支流谷「丹間」となる。「丹(タン・ニュウ)」は水銀のことであり、この谷の入口は「孕石」と付く。八高山の「白光神社」も、そう考えると曰く有りそうに思えてくる。こういう金属地名の痕跡は、I・Kさんの記す鉱泉宿の存在とも関連があるのか……“夢想”は留め止めなく膨らんでくるのだ。

 流動こそ生であり、停滞こそ死であるという確信を捨てず、昨日も今日も明日も歩きつづける一所不在の漂泊者を、私は畏敬をこめて永久歩行者と呼ぶ、ここに「歩く」ことのもっとも深遠な意味が鮮明になる。

(谷川健一『賤民の異神と芸能』序章より)

(2017年9月記)


小夜の中山散歩

2024-09-25 14:49:55 | Ryoウォーク

23日は雨が止んで、少しだけ涼しくなったので、Ryo & Chi と一緒に小夜の中山の旧東海道を散歩。広重・東海道五十三次の山(10)の景を確かめる。

広重・五十三次の山(10) - 山の雑記帳

久延寺(きゅうえんじ)境内に祀られる「夜泣石」だが、実物(?)は明治14年に東京の内国勧業博覧会に出品され、その後、国道1号線沿いの小泉屋脇に移された。ここの石は意外と小さい。

境内のスダジイ、幹は大きなムロとなっている。

すぐ近くの浮世絵美術館「夢灯(ゆめあかり)」へ、当地所縁の浮世絵を鑑賞する。館長の話では、広重・東海道五十三次「日坂」に描かれている山は、保栄堂版(本記事頭の画)、隷書版(パンフ右上)、行書版(パンフ左下)いずれも粟ヶ岳とのことだが・・・

北側のテラスでコーヒーを戴きながら山を眺める。左・粟ヶ岳(「茶」の字が分かるだろうか?)その右横・岳山、その右(手前の枯木が山頂にかかっている)経塚山、間奥・八高山となるだろう。ここは峠の頂上付近で、夜泣石が実際にあったのは1.7kmほど西(日坂側)へ下った場所だから、粟ヶ岳と岳山はもっと重なった景となる。隷書版、行書版に描かれた山と近い形で、保栄堂版ではやはり左の切れた山が粟ヶ岳(岳山)だろう。

夢灯を辞して火剣山(茶畑左奥の茂み)登り口まで歩いたが、Ryoは今日はここまでとのことで引き返す。

左遠くには志太平野東のランドマーク、高草山が望まれる。東京の孫に送るようにと扇屋で子育て飴を買って帰る。


広重・五十三次の山(12)

2024-09-22 10:05:49 | 浮世絵の山

舞坂・今切真景 江戸より30番目の宿

 東海道もいよいよ浜名湖、舞阪へと到達した。湖岸入江の岩山は完全に構図上の産物であろうが、背後の青い山並は秋葉山から竜頭山にかけての稜線であろうか。遠くに見える白い富士の山影は、広重・東海道五十三次において、以西では見ることはできない。静岡に住む我々は、山に登ればまず富士の姿を探す。富士山はまさに山の代名詞であり、眺望が良いとはこれが見えるかどうかと同義であるような感さえある。ところで実際、富士山はどこまで見えるのだろうか。証拠写真のある最遠の地は和歌山県の大雲取山で、その距離320km、計算上の北限は福島県花塚山の308kmだそうだ。現在は、カシミールなどパソコンソフトを使って富士山が見えるはずの地点をシュミレーションし、あしげく通って確認する人達もいるそうだ。これも山座同定の新しい形なのだろう。
 さて12回にわたった拙い連載も、浜名湖を渡り富士の見えなくなった地点で終了。本連載のきっかけは、初回に記したように『岳人』誌掲載の玉置哲広氏の文章であったが、江尻・三保遠望や府中・安倍川、金谷・大井川遠岸のように地元ゆえに見えてくる山もあったように思う。富士山、赤石連峰、白峰南嶺の奥山から里山まで、まさに静岡は山岳県なのであり、こうした山々に囲まれホームグラウンドとできる我々は幸せであると感じる。
 先日、新聞紙上に「広重は実際は東海道を旅していない」という記事が掲載されていた。『広重』とは一種のブランドなのであり、おそらく実際はそうなのであろう。だが広重が東海道五十三次を描く上で、沿道から眺望できるはずの信仰(畏怖)対象の山々を想像し構図として置いたのには、何かの必然性もあったのだろう。同じように私もまた想像の山を持っていたいと思う。それは、まだ見ぬ山という空間への憧憬というだけでなく、昔日人々が仰ぎ見また辿った時間の連なりへの想像でもある。

了。

(2004年3月記)

*  *  *

【2024年9月追記】

「文化遺産オンライン」の解説では

その昔、浜名湖は遠州灘とは砂州で隔てられた湖だったが、明応7年(1498)の大地震以来、浜名湖と海を隔てていた砂州が決壊し、海につながる汽水湖となった。この砂州が決壊した部分を「今切れた」という意味で「今切」(いまぎれ)と呼ばれるようになり、今切の渡しと呼ばれた渡し船が行き交うようになった。画面手前の並んだ杭は波除杭(なみよけくい)で遠州灘の荒波から渡し船を守るために幕府が築いたもの。その「今切」越しに遠州灘を見渡す本図では、浅瀬で漁をする漁夫たちが描かれている。右手手前に帆だけが描かれた帆船もと真白い富士との対比も斬新。正面の山々は実景に存在しないようだ。なのに「今切真景」とはこれいかに。

と述べられているが、“「今切」越しに遠州灘を見渡”しているのではなく、浜名湖側を見ているのは明確だろう。問題は、浜名湖で画のような岩山が実際に見られるだろうかということだ。

 これまで見てきた広重・東海道五十三次の山々は、20年前の推測に反して随分と実景に忠実であったように思えたが、この画ではあり得ない山が描かれていることになる。画のように浜名湖に突き出た半島状の地形は、舘山寺から村櫛にかけてと、三ヶ日大崎の二箇所で、「今切」から見ているとすると手前の山の位置は村櫛となる。だが地形図を見ても分かるように、ここは山というより標高30メートル程度の丘陵状の地形で、山と言えそうなのは半島根元の舘山寺の大草山(113m)、根本山(129.2m)位である。一説によると、奥浜名の景が描かれた別の「元絵」(?)があって、広重画はそれを模倣したともされるが、いずれにせよ手前の山が実景には存在しないのは確かだろう。

 では背後の富士山左側の尾根はどこだろうか。図は今切北東(0〜60度)の展望図だが、手前の山が同定されない以上、これも判断は難しい。図を見ると秋葉山から竜頭山の尾根が富士山の左側に覗いているのは当然としても、大無間山・黒法師岳などの深南部から赤石岳・聖岳など南アルプス南部の山々まで結構見えているのは意外だった。尖った鋭峰は案外と黒法師岳の可能性もあるのかも知れないが分からない。
 さて、広重・東海道五十三次(保栄堂版)の内、静岡県内12宿で描かれた山について、20年前に書いたものを再検討してみた。いったい広重の描く東海道五十三次の風景は、写実的な実景なのか、はたまた想像上の構図なのか、ますます不可解さが強まった気がする。その辺の興味は、以下の大畠洋一氏「江漢・広重東海道五十三次」の考察が面白い。

http://home.catv-yokohama.ne.jp/66/tok53/tok53/tok_index.htm


広重・五十三次の山(11)

2024-09-16 15:43:10 | 浮世絵の山

掛川・秋葉山遠望 江戸より26番目の宿

 実のところ、私は北遠の山をよく知らない。生活でも仕事でも、日坂を越えて西へ行くことはあまりない。山でいえば、SHC発足最初の定例山行であった竜頭山、県スポ祭と昨年の国体観戦のついでの常光寺山、黒法師敗退の折り通過した前黒法師山、麻布山と片手で数える位しか行っていない。従って、掛川の東海道筋から秋葉山がどの程度眺望されるのか、とんと見当がつかないのだ。(というより、あれが秋葉山であると同定することさえできない)
 秋葉山は大井川右岸尾根バラ谷山から分岐し、山住峠、竜頭山を通り天竜川に沿って南下する尾根の末端に位置する。秋葉三尺坊大権現は火伏の神として有名で、秋葉山信仰は全国に伝播している。殊に度重なる大火を被った江戸町民には、その信仰は厚かったらしく、江戸末期の画人谷文晁[たにぶんちょう]も『日本名山図会』にその姿を描いている。
 秋葉街道は塩の道とも重なり、人だけでなく物、文化も交流する幹線道となっていたが、その支線のような秋葉道はあちこちに張り巡っている。島田近辺でいえば一昨年忘年山行の高根山〜西向も秋葉道であり、家山から大日山、春埜山を通り春野町、秋葉山へと至っていた(現、東海自然歩道のルート)。そしてこのルートは本連載⑤「江尻」の項で述べた、アウトロー達のいわゆる“裏街道”とも重なっているところが興味深いのだ。

(2004年2月記)

*  *  *

【2024年9月追記】

この画に描かれている山についての考察は、既に2024年5月、本ブログに『広重「掛川 秋葉山遠望」の山は?』と題して掲載した。

 

広重「掛川 秋葉山遠望」の山は? - 山の雑記帳

歌川広重の有名な浮世絵、東海道五拾三次之内「掛川秋葉山遠望」である。画に描かれている場所は東海道と秋葉街道との追分にあたる大池橋で、渡った先に秋葉山遥拝所か...

goo blog

 

同じく広重・東海道五十三次 掛川の別版には「秋葉道追分之図」として大池橋の秋葉神社・一の鳥居が描かれている。

現在の大池秋葉山遥拝所の祠とその裏北側の風景だが、右の山が「秋葉道追分之図」で鳥居内側に描かれている山と思われる。展望図で確認すると13km北の大尾山のようだ。


広重・五十三次の山(10)

2024-09-15 16:17:27 | 浮世絵の山

日坂・佐夜ノ中山 江戸より25番目の宿

 小夜の中山は、箱根、鈴鹿峠とともに東海道の三大難所の一つであったらしい。「年たけて、またこゆべしと思ひけや命なりけり小夜の中山」の西行の歌をはじめ、多くの旅行記などにその名が記されていることからも、旅人にとって印象深い場所だったことがわかる。小夜の中山とくれば夜泣石で、現在は近くの久延寺に祀られているこの石が、画ではごろんと道の真ん中に転がっていて、旅人の「……?」の雰囲気が面白い。背景の山は、左の切れているのが粟ヶ岳[あわんたけ]、その向こうは経塚山だろうか。
 先に書いたように、我が志太平野(大井川下流域)の東の境が宇津ノ谷峠であり、そのランドマークが高草山とすれば、西のそれは日坂峠と粟ヶ岳ではないだろうか。我が家の前に出るとちょうど西の先に粟ヶ岳が見える(ちなみに東の先は白岩寺山)。山腹の大きな「茶」の字は充分に目立っているが、それだけでなく山容もなかなかの存在感がある。実際に、山頂林は遠州灘を行く船の航行目標保安林となっているそうだから、目印としての機能を果たしているわけだ。
 頂上下にある廃寺は、無間山観音堂といい遠州観音霊場三十三箇所巡りの二十三番札所であったらしい。遠州七不思議の一つに数えられる「無間の鐘」が沈められたという井戸や、地獄穴なども山頂近くにあり、また山伏山という別称もあるようだ。こうした名称や北の経塚山などと併せて考えれば、ここも山岳修験と関係のあった信仰の山であったことが窺える。守護神は一寸坊権現。
 現在は車で山頂まで行けてしまい、山道らしい雰囲気も少ないのが残念だが、頂上の展望台からの景観は素晴しい。南面は牧之原大茶園を眼下に、遠州灘から駿河湾、伊豆半島、冬場には伊豆七島も、北側には山々が幾重にもなって南アルプスへと連なっている。桜の名所としても知られ、シーズンには花見客で結構な賑わいを見せている。

(2004年1月記)

*  *  *

【2024年9月追記】

 これまでの手法に倣い、展望ソフト(アプリ)を使って背景の山を検証してみる。日坂宿から東へ旧東海道の沓掛の坂を上がっていくと、この画の絵碑と少し先に夜泣石跡の碑が建てられている。

お茶街道[旅]6小夜の中山/夜泣石跡・広重絵碑

碑の辺りと坂登り口の「二の曲り」辺りから北方の展望図を各々掲げる。

夜泣石跡からの展望図↑

夜泣石跡からの展望図↑

いずれにしろ広重画左の切れている山が粟ヶ岳(夜泣石跡からの展望図を見ると正確には粟ヶ岳北の高尾山・岳山辺りか?)であり、その右奥が経塚山であるのは間違いないように思われる。手前の彩色されたゴツゴツした山が何であるのかは残念ながら不明である。
ところで、日坂宿を描いた別の広重画には「日坂 小夜の中山夜啼石無間山遠望」とあって無間山=粟ヶ岳が描かれている。↓

粟ヶ岳は先日も南野陽子が登る姿が放映されたりして、すっかり全国区の低山となったようだ。短時間で山頂に立てる気楽さ(何なら車でも)と、山頂からの抜群の展望が人気の理由なのだろうが、何よりも東西南北それぞれに特徴あるルートを開いてきた地元の方々の努力が尊く、良い山になったと思う。

↑西山の郷登山口から尾根に取り付く(9/8)

↑粟ヶ岳山頂標識(9/8)

↑西山ルート初馬川上流部の夫婦滝

 

ランドマークとしての粟ヶ岳 - 山の雑記帳

山頂下の「茶」の字で知られる粟ヶ岳我が家から外に出ると、ほぼ真西の方角に粟ヶ岳(あわんたけ)の「茶」の字を見ることができる。振り返って真東を見ると白岩寺山で、こ...

goo blog

 

粟ヶ岳については上記の記事で海上からの目標ともなっていたことを記したが、御前崎沖「御前岩」から見るとこんな具合

粟ヶ岳の磐座群については下記参照

 

粟ヶ岳の地獄穴と磐座群(静岡県掛川市)

古代からのランドマークだった粟ヶ岳。山頂に式内社・阿波々神社と磐座群がある。磐座群の中心には地獄穴と呼ばれる、地獄と現世の通り道の信仰が伝わる。