山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

甲駿交流の道[樽峠]

2024-11-08 16:09:58 | エッセイ

平治ノ段から富士山

2024年10月31日記事「山を彫る(9)山小屋の主」に関連して

【2010年2月記】

 貫ヶ岳は山梨県南部町の山だが、私たち静岡人からすると、興津川流域の山々の続きの中にあるピークとして捉えられる。駿河から甲州側に貫かれた、突き刺さった尾根の末端なのである。この興津川流域の山々に私が近しさを感じるのは、何と言っても青島秀也さんの山小屋「ヒュッテ樽」の存在が大きい。初めて貫ヶ岳を訪れたのも「ヒュッテ樽」での泊り宴会のついでだった。晩秋の日、二日酔いの足で辿った平治ノ段からの尾根道はリンドウの花が咲く「お嬢さんの散歩道」で、富士が大きく望め駿河湾は眩しく光っていた。
 山を歩いているとき海が見えると何故か嬉しくなる。国道52号線を通ると、建設中の中部横断自動車道早期全線開通を訴える「君は太平洋を見たか……」の看板を目にするが、海を見たいという感覚は山国の人々にとっても同様に、大昔から染みついたものだったろう。甲駿国境を越えるルートは幾つかあるが、地図を眺めれば静岡(駿河)の最も薄い地点(海に近い場所)が樽峠周辺であることに気付く。また標高724mの樽峠は、この山域の最低鞍部となる。かつて武田信玄はこの峠を越え駿河に侵攻したと伝えられることには、充分に納得できるのである。
 タルという言葉は「弛む」から来た山塊の鞍部(峠)を指すものだが、「樽(たる)」という地名は国境の峠そのものを直截に呼んだものではないかと思う(樽地名の謂れは諸説あるが)。山国甲斐からは、あのタル(峠)を越えれば明るい海へ出る。樽峠に立つとき、そんな昔の人々の強い想いを感じるのだ。
 なお2008年、日本山岳会山梨支部創立60周年事業「登山史を歩く」の一つに「樽峠」があり、以下に『岳人』誌掲載報告の一部を転載する。

樽峠の地蔵尊

 樽峠を下りたら茶畑だった。峠の北側(山梨県南部町)は、木材の生産地として知られ、杉やヒノキのきれいな植林地、南側(静岡市清水区)は、美しく刈り込まれた茶畑が斜面に広がっていた。寒さの厳しい甲府盆地の者にとって、樽峠は暖かい国への入り口だったに違いない。
 富士川右岸の甲駿国境は、貫ヶ岳の平治ノ段から樽峠、高ドッキョウ、徳間峠、田代峠、青笹山、十枚山と続く。この中で海に一番近い峠が樽峠だ。峠の北は南部町石合の集落、南は清水区樽の集落。両者の交流路として古くから使われてきた。
 峠の地蔵さんの前で、幕末の峠の風景を思った。三度笠、合羽、腰に一本刀を差した男たちの姿である。甲州側が黒駒の勝蔵、竹居のども安、津向(つむき)の文吉、駿河側が清水の次郎長、大政、小政、和田島の太左衛門ら…。峠を息も切らせず越えて行く。巻き起こる一陣の風。
 次郎長と勝蔵の出入りは数多い。勝蔵らが清水湊に向かうとき、どの道を使ったのだろうか。富士川を舟で下ったのでは目立ち過ぎる。富士川沿いの道も同様だ。徳間峠や田代峠、富士宮経由だと遠回り、目立たず、一気に駈け下りて行くには樽峠しかない。峠道を歩いて、そう実感した。
 樽から茶畑の谷を駆け下れば興津川に出る。太左衛門親分の和田島はすぐそこだ。さらに清水へ急ぐ勝蔵たち。逆に和田島から樽峠を越えて甲州に走る次郎長たち。
 維新前夜の侠客たちが本当にこの峠を越えたのかどうか。寡聞にして想像の世界になるが、位置関係からすると可能性は高い。樽峠を歩けたことで知った歴史の面白さだった。(記・深沢健三 『岳人』№752「登山史を歩く1」より転載)

ヒュッテ樽

 

 

山を彫る(9)山小屋の主 - 山の雑記帳

初めての沢登りだった。着るものや、履くものが判らなかったので、聞き込みをして、それなりの準備をした。足回りは、この日のために地下足袋を購入、ザックは古くから持っ...

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2万5千分の1地形図難読図名(2)

2024-11-06 09:08:22 | エッセイ

11月1日新刊の2万5千分1地形図(令和6年調製)は34面、今回も難読地名が多い。

01 浅茅野台地(あさちのだいち) 02 浜頓別(はまとんべつ) 03 猿払(さるふつ) 04 浅茅野(あさちの) 05 鬼志別(おにしべつ) 06 エタンパック山 07 安別(やすべつ) 08 イソサンヌプリ山 09 セキタンベツ川 10 上問寒(かみといかん) 11 松音知(まつねしり) 12 中問寒(なかといかん) 13 モイマ山 14 声問(こえとい) 15 知来別(ちらいべつ) 16 曲淵(まがりふち) 17 下豊別(しもとよべつ) 18 樺岡(かばおか) 19 本流(ほんりゅう) 20 幌延(ほろのべ) 21 安牛(やすうし) 22 振老(ふらおい) 23 上勇知(かみゆうち) 24 兜沼(かぶとぬま) 25 夕来(ゆうくる) 26 豊徳(ほうとく) 27 稚咲内(わかさかない) 28 浜里(はまさと) 29 伊勢佐原(いせさわら)三重県多気郡大台町/宮川中流域 30 内宮(ないく)京都府福知山市大江町 31 胡麻(ごま)京都府南丹市 32 綾部(あやべ)京都府綾部市 33 菟原(うばら)京都府福知山市三和町 34 細工所(さいくじょ)京都府丹波篠山市

【01浅茅野台地〜28浜里】全て道北・宗谷地区。ちなみに「ベツ・ペツ(別)」、「ナイ(内)」(稚内など)はアイヌ語で川のこと。「ベツ」は水かさが増すとすぐに氾濫してしまう危険な川、「ナイ」は岸がしっかりしていて、洪水に強い川を表している。なるほど、宗谷地区北部にはクッチャロ湖周辺やサロベツ原野など、氾濫しそうな低沼地が散見する。

 アイヌの人々は、川や谷、岬や崖などに沢山の言葉を使っていました。その多くが現在の北海道の地名や河川名の由来になっています。アイヌの人々は、季節によって狩猟や採集のためのチセ[家]を持ち、海岸で漁労する居住点と内陸で狩猟や冬越しをする居住点との二重生活をすることもありました。その居住点との交通は主に川を利用していたので、アイヌの人々にとって川やそれをとりまく地形などの自然環境への理解は生命に直結することであり、そこに目印のように名前をつけたのかもしれません。
(北広島市デジタル郷土資料/アイヌの人々の自然観と北海道の地名)

【30内宮】伊勢神宮辺りかと思ったが、京都府北部、酒呑童子(鬼)伝説の大江山(千丈ヶ嶽)東麓に皇大神社があった。

伝承によれば、第10代崇神天皇39年(西暦紀元前59年)に、「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、それまでお祀りされていた倭笠縫邑(現奈良県桜井市三輪)をお出になったといわれます。まず最初に但波(丹波)へお遷りなり、そのご由緒により当社が創建されたと伝えられています。皇大神は、当地に4年お祀りの後、さらに諸所を経て、垂仁天皇26年(西暦紀元前4年)に、伊勢の五十鈴川上の聖地(今の伊勢神宮)にお鎮まりになりました。こうしたことから当社は伊勢神宮内宮の元の宮として、「元伊勢内宮」あるいは「元伊勢皇大神宮」「大神宮さん」などと呼ばれ、今も庶民の篤い信仰が続いています。
天照皇大神は、大国主命から譲り受けた豊葦原千五百秋瑞穂国(日本国)に、孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天降るとき「三種の神器」と「三大神勅」を授けられました。瓊瓊杵尊は、そのご神勅に従い「三種の神器」の一つ「八咫鏡(やたのかがみ)」は皇大神のご神体として宮中におかれ、それ以降、崇神天皇の御代までお祀りされてきました。しかし、崇神天皇の6年、「皇大神の勢いを畏りて、ともに住みたまふに安からず」とされ、宮殿の外にお遷しし、倭笠縫邑にお祀りされることになりました。その地に33年間お祀りされたのですが、上記のように、皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求める旅に出られることになったのです。
(皇大神社HP/皇大神社について)

古のたたずまい

遥拝所から仰ぐ室ヶ岳(岩戸山)

伊勢神宮の元宮のような場所だったのだ。八咫鏡(=天照大神)を携えて近江、美濃、伊勢と彷徨したのが倭姫(ヤマトヒメ)で、斎宮の伝説上の起源とされる。日本武尊(ヤマトタケル)の伯母にあたり、やはり三種の神器の一つ「草薙剣」を彼に授けている。皇大神社の西北西427.3m城山(点名:日浦ヶ岳)が神体山の室ヶ岳(岩戸山)で、ピラミダルな山容が神々しい。東斜面は禁足地とされ、優れた天然林と貴重な植生が残り、京都府歴史的自然環境保全地域に指定されている。

31以下は、丹波の隣接する4面。

【31胡麻】[こま(ごま)]は、「河間、山間の小さな盆地とか谷の奥の平地」(『民俗地名語彙辞典』)。小さな盆地状の真ん中にある丸山(259m)は「環流丘陵」といって、かつて蛇行していた流れが直線状に変わって取り残された地形で、大井川支流寸又峡温泉背後の外森山と同様のもの。

JR山陰本線胡麻駅の南に碗を伏せたような丸い山がある。標高259m、直径約400mの丸山はその名のとおり半球状の山で、周囲は高度180~190mの平坦な低湿地によって囲まれている。環流丘陵と呼ばれるこの地形は、かつて北流していた古桂川の流路がこの丘をぐるりと巻くようにして流れていたためにできたものである。古桂川の塩貝地区を流れていた蛇行流路は浸食作用が次第に進んで、胡麻駅付近で切られて短縮された。そのため、新流路と旧流路の間に孤立した丘として残されたものである。その形成時代は40万年前頃にさか上ぼる。
(「京都府レッドデータブック2015」)

【34細工所】丹波篠山川上流の小さな谷間で何の細工が行われたのか?

細工所交差点の東南目前の山上(404メートル)に「細工所城跡」があり、荒木城・井串城とも呼ばれる。天文年間末(1550ごろ)に荒木山城守氏香が築いた壮大な山城である。本丸は約900平方メートルで回廊をめぐらし、内堀の長さ南北に61メートル、外堀は800メートルもあり、堀切を設けて多くの平坦地があり、七つ谷、馬の背などと呼ぶ多くの谷や峰からなっている。大手門は縦6メートル、横16メートルという堂々たる構えであった。東細工所に城館跡が、その東に明智軍が大筒を打ったと伝える鉄砲丸という峰があり、ここに廃灯明寺があった。
荒木氏の出自は、伊勢国とも志摩国荒木郷ともいい、『寛政呈譜』には波多野兵部少輔氏義が京都府天田郡荒木村に住んで荒木氏を称したとされる。山城守氏香は、波多野秀治に属し「丹波鬼」と恐れられた勇将であったが、天正5年(1577)、明智勢の猛攻をうけ落城し降伏して、東本荘の館に引き籠もったという。子の氏清ら一族は光秀に従い、天正10年の本能寺の変に続く山崎の合戦や、明智秀満が近江の坂本城に籠城した時にも参加している。
(丹波篠山市HP/丹波ささやま五十三次)

鉄砲や大筒など兵器の細工ということか? あるいはここに荒木氏が築城したことが戦略・戦術として細工だということか? 荒木氏の出自が伊勢ということで、ここにも彼の地との繋がりが垣間見られる。地理院地図を見ると、ここから篠山川を少し西に下った東本庄にはっきりとした前方後円墳がある。

東本荘の集落の東、道路の北側に県下で2番目に大きい前方後円墳の「雲部車塚古墳」がある。左右に車の両輪のように陪塚があるので、そのように名付けられた。もとは7基の陪塚があったというが、うち4基は、今はなくなってしまった。墳丘の長さは140メートル、後円部は径80メートル、前方部は幅83メートル、盾形の周濠をもち、さらに外側に周庭帯をめぐらしており、独立丘陵からの尾根を切断して墳形を整えている。明治29年に試掘した際に、後円部の中央より少し南の位置に竪穴式石室があって、四方に縄掛突起のついた長持型石棺が安置されており、甲冑や刀剣、槍などの副葬品があることを確認している。
被葬者は、崇神天皇のころ四道将軍の一人として派遣された、「丹波道主命」との説もあり、宮内庁より陵墓参考地に指定されている。しかし、現在、5世紀の築造で、国造級の墳墓との推定が一般的である。いずれにしても、大和と山陰方面を結ぶ重要地域の篠山盆地に大勢力を誇った集団が存在していたことを物語るものである。
(丹波篠山市HP/丹波ささやま五十三次)

崇神天皇というのは、「内宮」で触れたように八咫鏡放浪のきっかけとなった人物。その丹波征討軍(鬼退治?)の将軍(王子)の墓と伝えられることも、丹波・京都・大和・伊勢を繋ぐ因縁が感じられる。

余談だが、丹波大江山辺りの鬼のこと、今村翔吾の小説『童の神』が面白かった。


地名の本

2024-11-04 16:00:57 | 山の本棚

民俗地名語彙事典

(松永美吉著・日本地名研究所編、2021年4月10日、ちくま学芸文庫)

登山地図や山間地などの地形図を眺めていると、独特の地形名や変わった地名を目にすることがある。例えば水窪河内川最奥の山住峠麓には「河内浦(kouchiure)」集落がある。同じく青崩峠の麓となる水窪町奥領家の翁川上流部は「西浦(nishiure)」と呼ばれ重要無形民俗文化財指定の田楽が催される。[浦(ure)]とはどういう意味を持った地名なのか。なぜ山中の水窪に浦があるのか。本書を引いてみると

ウラ ① 浦は「海岸」の意にとられることが多いが、本来は海岸が入江や湾をなして入りこんでいる所をいう。西南日本ことに九州などでは、陸地に湾入した所は必ず○○裏の名があり、たんなる海岸名ではない。
 浦という語は、外浦の「表」に対して「裏」の義と解する説があるが、それよりも外浦の本通りに対して、それから分派した支湾と見るのがより適切で、ウラ(ウレと同じく末)は、本来、樹木の本幹に対して枝葉あるいは先端部(梢)を指す語であるからである。
 こうした湾入は、風波を避けて船を着ける船着場に適するので、浦の地名はまた同時に「港」の意味をもつのが普通である。(中略)
② 内陸部で、川の上流部には「川浦」の地名があり、それの変化した「川浦(kaore)」(川売と宛てた所もある)もある。これらは「川の末」(ウラ、ウレ)で川の先端、上流(川上)を意味する。
 静岡県周智郡気多村(浜松市天竜区)で川の上流をいう〔『方言』五の一〇〕。(中略)
④ (裏の転用)北。富山県福野町(南砺市)に浦町というのがあるが、これは浜の意ではなく、北の意。これに対してオモテ(表の転用)は南。礪波地方〔『礪波民俗語彙』〕。『日本の地名』では「北東」といっている。(以下略)

ウレ 静岡県安倍郡(静岡市)で、高山の絶頂に近い所をいう。木の梢などをウレ、ウラというのと同じく、地名にも水上をミウレ、沢奥をサウレ(渓の奥)などといい、岐阜県吉城郡(飛騨市)では、村里の奥の方または辺鄙の里をいう〔『山村語彙』、『全辞』〕。奥の方、高い所。ウラの転(嬉野、宇礼保、嬉垣内、嬉河内、宇霊羅山)〔『日本の地名』〕。

なるほど、「奥」「末端」「どんづまり」の地形の意で[うれ]の音が地名となっているのだと解釈ができる。とすると奥三河鳳来の「宇連山(ureyama)」やその西麓の「川売(kawaore)」も同様の意からの地名だろうと関心が広がる。

本書「(付録)はじめに」の中で著者・松永美吉は、地名について次のように述べる。

一、人は、当然のことながらこの大地の上に生活を営み、「われここにあり」とて他人に知らせて互いに交通する。その存在を示すにはできるだけわかりやすいのが得策である。
 人々の生活が複雑になり、人間が多くなると、地形名ばかりを頼りにするわけにはいかなくなる。そこでいろいろと地名を発明して、その所在を示すことになる。
 つまり、地形名は地名発生の最初の段階であるとみるべきである。そして地名は、共有のものである以上、広く容易に理解されるべきものでなければならない――これは一般の言語と何ら変ることはない。

私が山を歩くのは、自然を愛でるためだけではない。その土地に関わり暮らした人々の営為を確かめるためでもある。「わずかな土地にそそがれた鹿の血ほどの人間の一生でさえ語りがたい。ましてかず知れぬ人間の営為をしたたかに吸いこんだ土地の名前は、一口で語りつくせないものを、私たちに伝えようとしている」(谷川健一)のである。

日本の地名

(谷川健一著、1997年4月21日、岩波新書)

このかず知れない地名を見ていくことで、どのような日本列島の歴史が見えてくるのか。谷川健一はフォッサマグナに沿った各地の地名を挙げていく。

 水窪町はかつて焼畑のさかんなところであった。焼畑は山の傾斜面を利用し、また耕作地を一時放棄して休閑地にするところから、ソラス(ソリ)、アラス(アラシ)という語が生まれた。水窪町の大嵐(おおぞれ)という開拓集落は、かつて大崩壊を経験しているという。同町には大嵐(おおあらし)という地名もある。アラシやソリの地名は関東、中部の山間部を中心に全国に分布している。このほか夏焼(なつやけ)とか焼山(やけやま)も焼畑に関連する地名である。(中略)信、三、遠の国境近くに焼畑地名が多いことから、これまであまり検討されてこなかった焼畑の文化史の可能性が見えてくる。(第二章「地名と風土」より)

「瑞穂の国」平地=稲作に対する、山地=焼畑・狩猟を軸としたもう一つの文化史、けして単一でない多様な日本列島の歴史・文化が地名の分布から垣間見られるということだ。

 各地のさまざまな呼称をもつ小集落地名は、数戸から数十戸単位の集落がかつての日本の社会の基底を形成していたことをさまざまと物語っている。それが日本列島の端から端まで隙間もないほど埋め尽くしている。それは「日本は何と広く、何と深い国であろう」という詠嘆を込めた感慨を導くのに充分である。地名はこのように「いと小さきもの」であるが、一方、それは大きな世界とつながっている。ここに地名の逆説があり、それこそが地名の最大の魅力である。
 本書は、その具体例として、日本列島をとりまく自然環境の中で、もっとも大きな特徴を示す黒潮の流れと、日本列島を横断する中央構造線(メディアン・ライン)に地名がどのように関わっているかを見ることにした。(「はじめに」より)

地名の原景

(木村紀子著、2023年10月13日、平凡社新書)

冒頭に話題とした「浦」(海岸の)地名について本書では、

 神代の昔から続くという古代の「浦」とは、要するに「海人(あま)の拠点(集落)」のこと、今の言葉で言うなら入り江や遠浅の砂浜沿いに広がる漁師町のことである。万葉集には出ない、関東の「霞ヶ浦」「勝浦」(千葉)や「三浦半島」(神奈川)、能登半島の「福浦」、など、往古の面影を偲ばせる「浦」も各地に残っている。東京湾端の「浦安」は、いつの時点での命名かは不明だが、日本書紀によれば、その昔イザナギの命が、この国を名づけて「日本(やまと)は、浦安(うらやす)の国云々」と言った(神武紀三十一年)ともある。(中略)
 「浦(うら)」とは、はるか大昔、王城の地を言うに相応しい豊饒の響きを持った言葉であった。近年の辞書類の言うような、単なる「入り江・湾」などの意ではありえない、おそらくその解は、浦が寂(さび)れ果てた時代の、「見渡せば花も紅葉もなかりけりの苫屋(とまや)の秋の夕暮れ」(定家)といった歌などからの、漠然とした印象にもとづく推測なのかと思われる。(「Ⅰ日本列島の原景語」より)

と主に言語学、古典文献での用例から地名の原景を探っていくのであるが、それは帯文とは裏腹に文字を操った人々(平地=稲作を主体とした文化)の見た景、自然環境の解釈が色濃いのではないのかという疑念は残った。

 列島上の、野にも山にも里にも川辺・海辺にも、星の数ほど無数に貼りついている地名の一つ一つには、誰とも知れぬ初発の声が響き、半ば無意識に呼び続けてきた人々の声が響き合って今に遺っている。本書は、そもそもそうした原初の地名の〈声〉が、この列島上ならではという自然環境の中で、どのような生まれ方をしたかの一端を探る、ささやかな試みである。(「はしがき」より)

山名の不思議

(谷 有二著、2003年8月10日、平凡社ライブラリー)

○「やま」の文化、「サン」の文化 ○大菩薩峠の下半身と上半身 ○穂高岳と海の民・安曇族 ○駒ヶ岳とは何か etc.
いかにも登山者の興味を惹きそうなタイトルが並ぶが、けして言葉尻に捉われた後付けの伝承や思いつきの類の話ではない。アイヌを含む東アジア史の中から山名の謎を追い求め、壮大かつ緻密な回廊に迷うことの楽しさを体験する。登山が文化的遊びであることの魅力に満ちている。

山名の読み方 - 山の雑記帳

続・山名の読み方 - 山の雑記帳


三国境の山

2024-11-02 16:34:12 | エッセイ

静岡・神奈川・山梨三県境の三国山(2019年1月)

「三国山」という名は、駿河、甲斐、相模の三国境(みくにさかい)ゆえに付けられたものだが、同様の三国境の場所にはどんな名が付いているか調べてみた。当然のことながら、国境というのは面で接しているが、三国境は点で接するから尾根が分岐する山頂であることが多いだろうと予想される。旧国名に由る三国境では無く、現在の47都道府県の行政区分で三県境となっている場所は、全国で44地点ある。内8地点(青丸)は川が境となっていてピークや峠の尾根上にはない。例えば静岡県に係る3地点の内、18静岡・長野・愛知三県境は飯田線小和田駅近くの天竜川の中となる。8新潟・福島・群馬三県境も実は尾根上にはなく、尾瀬ヶ原の東電小屋から数百メートル西のヨッピ川の中となるが、尾瀬ということで山にカウントした。これを含めた36地点は、図中に▲印で示した。

「三国山(岳)」そのものの山名が付けられているのは次の10地点。(赤色

5 新潟・福島・山形「三国岳」
10 埼玉・長野・群馬「三国山」
14 神奈川・静岡・山梨「三国山」
18 長野・岐阜・愛知「三国山」
21 滋賀・岐阜・福井「三国岳」
22 滋賀・岐阜・三重「三国岳」
23 滋賀・京都・福井「三国岳」
30 広島・鳥取・岡山「三国山」
31 広島・鳥取・島根「三国山」
35 福岡・大分・熊本「三国山」

加えて峠であるが、13東京・神奈川・山梨「三国峠」がある。滋賀県境は4地点の内、24京都・三重を除く3地点が「三国岳」と称されている。また、三国境であることが名前から窺われるのは次の5地点。(緑色

11 山梨・埼玉・長野「甲武信ヶ岳」
15 静岡・山梨・長野「三峰岳」
16 長野・新潟・富山「三国境」
17 長野・岐阜・富山「三俣蓮華岳」
34 徳島・愛媛・高知「三傍示山」

内、我が静岡県の最北端となる南アルプス「三峰岳(みぶだけ)」は、標高2999mで三国境最高地点となる。三峰岳は大井川源頭部(東俣三国沢)であると同時に、山梨側では野呂川右俣沢、長野側では三峰川大横川の源頭部であるが、野呂川は富士川となって、また三峰川は天竜川となって、いずれも静岡に帰ってくる。奥秩父の盟主・甲武信ヶ岳や北アルプス・三俣蓮華岳はよく知られた山であるが、他にも2宮城・岩手・秋田「栗駒山」や、東京都最高峰の12東京・埼玉・山梨「雲取山」などの著名な山が三国境となっている。

三国境ながら地理院地図に特に地名の記載がない地点は、

24 滋賀・三重・京都
25 三重・京都・奈良
27 京都・奈良・大阪
32 広島・山口・島根
33 香川・徳島・愛媛
36 宮崎・大分・熊本

と、畿内を中心に西日本に限られる。24は関西本線の通る木津川の谷北側の尾根上の小ピークで、京都側の南山城村には国見岳や三ヶ岳といったそれらしい名前の山も見られるが、25、27は丘陵地の斜面でピークですらない。ひょっとすると、畿内は現在の行政域と旧国境が一致していない可能性があるが、定かではない。

一方で「三国山(岳)」と名が付きながら、現三県境となっていない山も多くあって、近くでは芦ノ湖西岸の箱根外輪山に「三国山」(1101.8m)がある。この箱根外輪山稜線は現在の静岡・神奈川県境であり、三国とは駿河、伊豆、相模を指すと思われる。三島には伊豆国府が置かれていたと推定されていて、また三嶋大社は伊豆一宮である。現三島・裾野市境には「境川」があって、これが駿豆国境と考えられるが、とすると本来の三国境の地点としては海の平(941.5m)や山伏峠(1035m)のピークがより近く、随分とアバウトな「三国山」だと思える。
こういう地点のズレている「三国山」は他に、新潟・群馬・長野三県境は9白砂山(2118m)であるが、ここから東に約12km隔て「三国峠」(1305m)、また「三国山」(1636.3m)がある。この「三国峠」は谷川連峰(三国山脈)稜線にあって、三国街道(現国道17号)が上州(群馬)から越後(新潟)へ越えているが、これに信州(長野)を絡ませるのは距離からしてどうも無理筋だろうと思えた。以前、平標山から縦走して峠に立ったことがあったが、ここには弥彦神社(越後)、赤城神社(上州)、諏訪神社(信州)の三明神が合祀された三国権現が祀られていて、それ故の「三国」であるのだと納得した覚えがある。考えてみれば、旧国境も律令制に基づいて設置された人為的なものであるのだし、「大体ここらが境ね」程度のアバウトさであったのかも知れない。

変わった三国境でいえば、5新潟・福島・山形「三国岳」(1644m)が挙げられる。この山は飯豊連峰主脈の一峰で、正しく三国境のピンポイントであり、実際はここから先の稜線は新潟・山形県境となるにもかかわらず、飯豊本山とこれをご神体とする飯豊山神社が福島県所属とされたため(麓宮が福島県喜多方市山都町一ノ木)、数メートル幅の「福島県」が延々と稜線上に続き、御西小屋でもう一つのイレギュラーな三県境ポイントを発生させることになった。明治維新の廃藩置県による国境変更と、神仏分離の宗教政策も影響してのことだ。

(2019年3月『やまびこ』No.263)