2020年11月8日(日)
熊本城から歩く3回目はルフィ像が建っている「熊本県庁」へ行こう。
お城は江戸時代の「県庁」。スタートはお城の二の丸広場。

二の丸広場の秋。

城彩苑の銀杏も色づいてきた。

お城からすぐ。旧交通センターの「サクラマチクマモト」へ。
「県庁」は、昭和25(1945)年から昭和42(1967)年までこの地に建っていて、現在地に移転したのち交通センターになった。
交通センターは、令和元(2019)年に桜町バスターミナルに変わって、建物も近代的になり「サクラマチクマモト」と呼ぶ。


「サクラマチクマモト」の4階テラスへ。


眼下に見える「花畑公園」は工事中。
花畑公園から長塀にかけては藩主の邸宅「花畑屋敷」があった。

「サクラマチクマモト」を出て、工事中の花畑公園を横目に長塀へと行く。
清正公さんも秋に包まれて。

4年前の熊本地震で損傷した長塀の復旧は近そうだ。

この日は「まち・はなパビリオン」という催しがあっていて、熊本市の街中は花でいっぱい。
長塀の通りも花の展示で華やかだ。長塀の復旧を祝うかのように飾ってある。


熊本市役所に出る。

上通を歩いて、肥後銀行のところで右折。白川公園へ。
「県庁」は白川公園に建っていた時期があると聞いている。


白川公園の紅葉を眺めながら、上通りの蜂楽饅頭をいただく。「黒一つ白一つ」と言って買った。

白川沿いを歩いて。

白川に架かる「明午橋」を渡る。

新屋敷を流れる大井出川を渡る。

中央消防署の信号を渡って、すぐに右へ。またすぐに左へ行くと、「徳富記念園」がある。
徳富蘇峰、蘆花兄弟が幼少時代を過ごした徳富旧邸は、熊本地震で損傷を受け、修復工事中。

信号のところに戻って右折。堂免公園へ。

公園の紅葉を眺めながら行徳パンで買ったパンでお昼。

公園から東へ。熊本学園大学の正門入り口へ。大学の銀杏並木は紅葉が始まったころ。
コロナ対策のため校内は関係者以外は立ち入り禁止になっている。

熊本学園大学産業資料館。明治27(1894)年に建てられた熊本紡績の赤レンガ工場の一部を熊本駅近くから移転してある。

学園大学14号館の海老原喜之助の壁画「蝶」。

学園大学から南へ歩く。隣は、熊本県立劇場。現在、改修工事中。

豊肥線の踏切を渡る。左に水前寺駅。

右に新水前寺駅。両駅間は踏切から目視で見えるが、両駅とも特急の停車駅。線路の上を歩けば1kmは無いのではないか?

さらに、まっすぐ歩いていくと、電車通りに出る。出たところにバス停がある。停留所の名は「国府」。

少し離れた電停の名も「国府」。

電車通りの横断歩道を渡ったところの住居表示も「国府」。

この辺りは、律令制が始まったころ、今でいえば「県庁」にあたる「国府」が置かれていた。
熊本大学、熊本学園大学の構内を通って国府までほぼ一直線に太宰府からの官道が通っていたようだ。
肥後国の国府は2回移転している。
最初は、ここ熊本市中央区国府、次に熊本市南区城南町陣内、3番目が熊本市西区二本木に置かれていた、という説。
城南町陣内が最初で、国府に移り、二本木に移ったという説があるようだ。
水前寺公園前の電停があるところの信号を右折。熊野座神社がある。

境内に大きな石が置いてある。七重の塔の心礎。
国府の東には、国分寺と国分尼寺が建てられた。この礎石は国分寺の七重の塔の心柱のもの。元位置より移動したとみられている。

最初の信号を左折して歩く。江津湖へと清流が流れている川を渡る。

そこには、「熊本県立図書館 くまもと文学・歴史館」がある。
くまもと文学・歴史館の企画展「絵図が語るくまもと」は見学済みなので今日は入らない。

熊本県立図書館3階の郷土コーナーへ。

図書館の係の方に「熊本県庁の移り変わりを知りたい」と伝え、資料を探してもらう。
資料を調べて分かったこと。少し長くなる。
[明治2(1869)年6月]
版籍奉還
肥後藩は熊本藩となり、藩庁は花畑邸に。花畑邸とは花畑屋敷のことであろう。
[明治4(1871)年7月]
廃藩置県
旧熊本藩は熊本県となる。花畑邸の藩庁は熊本県庁に。
旧人吉藩は人吉県。
天草郡は長崎県に。
[明治4(1871)年10月]
県庁は花畑邸から二の丸へ移転。
[明治4(1871)年11月]
熊本県は熊本県と八代県に分けられる。
人吉と天草は八代県に併合。
[明治5(1872)年6月]
県庁は二の丸から飽田郡二本木村に移転。
熊本県は白川県と名称変更。県庁が白川沿いに移ったためと思われる。
[明治6(1873)年1月]
八代県が白川県に併合。
この時に、ほぼ現在の熊本県の同じ領域になる。
[明治8(1875)年11月]
白川県庁が熊本城内古城の古城病院跡に移転。
[明治9(1876)年2月]
白川県が熊本県に再び呼称変更。
[明治20(1887)年1月]
熊本県庁が南千反畑町に移転(現在の白川公園の地)。
[昭和20(1945)年7月]
戦災で焼失
熊本市公会堂を仮庁舎
[昭和25(1950)年4月]
桜町に新庁舎完成。
[昭和42(1967)年3月]
水前寺に移転する。
桜町の跡地は交通センター(現桜町バスセンター)となる。
だいたい、このような変遷があったようだ。
参考にした資料は主に
『熊本県史 近代編第一』昭和36年3月31日発行
『新熊本市史 通史編第5巻近代Ⅰ』平成13年3月30日発行
その他数冊がある。
(メモしましたが間違いがあればすみません)
係の方には大変親切にしてもらった。
調べたいことがあったら、図書館へ行って聞いてみよう。
最初の「県庁」は、「サクラマチクマモト」の4階から見た「花畑屋敷」にあった。
「県庁」は白川公園にあったのではなく、「県庁」の跡地が白川公園になっている。
「白川県」となったのは二本木に移転した時で、白川沿いにあったことなどかららしい。
二本木から引っ越した時には「熊本県」に戻っている。
今の白川公園の地も白川沿いだが、そこに「県庁」を建てた時は「熊本県」という呼称が定着していたのだろう。
などなど調べながら思った。
県立図書館を後にする。
県立図書館の隣は「熊本市体育館・青年会館」。ここの前庭は大きな木でおおわれている。
秋は紅葉、春は新緑が楽しめる。好きな場所だ。
円形に8つのベンチが置かれていて、季節や時間で日当たりのいいベンチ、日差しを和らげるベンチを選んで坐る。


砂津小学校の信号を渡り、県庁へ。
銀杏並木は色づき始め。

熊本県は、漫画『ONE PIECE』と連携し『ONE PIECE 熊本復興プロジェクト』を立ち上げている。

尾田栄一郎氏には熊本県民栄誉賞が贈られ、受賞を記念して県庁プロムナードに平成30(2018)年11月に「ルフィ像」が設置された。
プロジェクトとして、この後、熊本地震で被害が大きかった8市町村に、麦わらの一味の仲間の像を設置が進められている。
ウォーキングで行った場所では、阿蘇駅前に「ウソップ像」が設置されていた。

ルフィ像のまわりには若者たちが大勢来ている。年寄は早々に退散しよう。
今日の「歩く」はここまで。
熊本城から歩く3回目はルフィ像が建っている「熊本県庁」へ行こう。
お城は江戸時代の「県庁」。スタートはお城の二の丸広場。

二の丸広場の秋。

城彩苑の銀杏も色づいてきた。

お城からすぐ。旧交通センターの「サクラマチクマモト」へ。
「県庁」は、昭和25(1945)年から昭和42(1967)年までこの地に建っていて、現在地に移転したのち交通センターになった。
交通センターは、令和元(2019)年に桜町バスターミナルに変わって、建物も近代的になり「サクラマチクマモト」と呼ぶ。


「サクラマチクマモト」の4階テラスへ。


眼下に見える「花畑公園」は工事中。
花畑公園から長塀にかけては藩主の邸宅「花畑屋敷」があった。

「サクラマチクマモト」を出て、工事中の花畑公園を横目に長塀へと行く。
清正公さんも秋に包まれて。

4年前の熊本地震で損傷した長塀の復旧は近そうだ。

この日は「まち・はなパビリオン」という催しがあっていて、熊本市の街中は花でいっぱい。
長塀の通りも花の展示で華やかだ。長塀の復旧を祝うかのように飾ってある。


熊本市役所に出る。

上通を歩いて、肥後銀行のところで右折。白川公園へ。
「県庁」は白川公園に建っていた時期があると聞いている。


白川公園の紅葉を眺めながら、上通りの蜂楽饅頭をいただく。「黒一つ白一つ」と言って買った。

白川沿いを歩いて。

白川に架かる「明午橋」を渡る。

新屋敷を流れる大井出川を渡る。

中央消防署の信号を渡って、すぐに右へ。またすぐに左へ行くと、「徳富記念園」がある。
徳富蘇峰、蘆花兄弟が幼少時代を過ごした徳富旧邸は、熊本地震で損傷を受け、修復工事中。

信号のところに戻って右折。堂免公園へ。

公園の紅葉を眺めながら行徳パンで買ったパンでお昼。

公園から東へ。熊本学園大学の正門入り口へ。大学の銀杏並木は紅葉が始まったころ。
コロナ対策のため校内は関係者以外は立ち入り禁止になっている。

熊本学園大学産業資料館。明治27(1894)年に建てられた熊本紡績の赤レンガ工場の一部を熊本駅近くから移転してある。

学園大学14号館の海老原喜之助の壁画「蝶」。

学園大学から南へ歩く。隣は、熊本県立劇場。現在、改修工事中。

豊肥線の踏切を渡る。左に水前寺駅。

右に新水前寺駅。両駅間は踏切から目視で見えるが、両駅とも特急の停車駅。線路の上を歩けば1kmは無いのではないか?

さらに、まっすぐ歩いていくと、電車通りに出る。出たところにバス停がある。停留所の名は「国府」。

少し離れた電停の名も「国府」。

電車通りの横断歩道を渡ったところの住居表示も「国府」。

この辺りは、律令制が始まったころ、今でいえば「県庁」にあたる「国府」が置かれていた。
熊本大学、熊本学園大学の構内を通って国府までほぼ一直線に太宰府からの官道が通っていたようだ。
肥後国の国府は2回移転している。
最初は、ここ熊本市中央区国府、次に熊本市南区城南町陣内、3番目が熊本市西区二本木に置かれていた、という説。
城南町陣内が最初で、国府に移り、二本木に移ったという説があるようだ。
水前寺公園前の電停があるところの信号を右折。熊野座神社がある。

境内に大きな石が置いてある。七重の塔の心礎。
国府の東には、国分寺と国分尼寺が建てられた。この礎石は国分寺の七重の塔の心柱のもの。元位置より移動したとみられている。

最初の信号を左折して歩く。江津湖へと清流が流れている川を渡る。

そこには、「熊本県立図書館 くまもと文学・歴史館」がある。
くまもと文学・歴史館の企画展「絵図が語るくまもと」は見学済みなので今日は入らない。

熊本県立図書館3階の郷土コーナーへ。

図書館の係の方に「熊本県庁の移り変わりを知りたい」と伝え、資料を探してもらう。
資料を調べて分かったこと。少し長くなる。
[明治2(1869)年6月]
版籍奉還
肥後藩は熊本藩となり、藩庁は花畑邸に。花畑邸とは花畑屋敷のことであろう。
[明治4(1871)年7月]
廃藩置県
旧熊本藩は熊本県となる。花畑邸の藩庁は熊本県庁に。
旧人吉藩は人吉県。
天草郡は長崎県に。
[明治4(1871)年10月]
県庁は花畑邸から二の丸へ移転。
[明治4(1871)年11月]
熊本県は熊本県と八代県に分けられる。
人吉と天草は八代県に併合。
[明治5(1872)年6月]
県庁は二の丸から飽田郡二本木村に移転。
熊本県は白川県と名称変更。県庁が白川沿いに移ったためと思われる。
[明治6(1873)年1月]
八代県が白川県に併合。
この時に、ほぼ現在の熊本県の同じ領域になる。
[明治8(1875)年11月]
白川県庁が熊本城内古城の古城病院跡に移転。
[明治9(1876)年2月]
白川県が熊本県に再び呼称変更。
[明治20(1887)年1月]
熊本県庁が南千反畑町に移転(現在の白川公園の地)。
[昭和20(1945)年7月]
戦災で焼失
熊本市公会堂を仮庁舎
[昭和25(1950)年4月]
桜町に新庁舎完成。
[昭和42(1967)年3月]
水前寺に移転する。
桜町の跡地は交通センター(現桜町バスセンター)となる。
だいたい、このような変遷があったようだ。
参考にした資料は主に
『熊本県史 近代編第一』昭和36年3月31日発行
『新熊本市史 通史編第5巻近代Ⅰ』平成13年3月30日発行
その他数冊がある。
(メモしましたが間違いがあればすみません)
係の方には大変親切にしてもらった。
調べたいことがあったら、図書館へ行って聞いてみよう。
最初の「県庁」は、「サクラマチクマモト」の4階から見た「花畑屋敷」にあった。
「県庁」は白川公園にあったのではなく、「県庁」の跡地が白川公園になっている。
「白川県」となったのは二本木に移転した時で、白川沿いにあったことなどかららしい。
二本木から引っ越した時には「熊本県」に戻っている。
今の白川公園の地も白川沿いだが、そこに「県庁」を建てた時は「熊本県」という呼称が定着していたのだろう。
などなど調べながら思った。
県立図書館を後にする。
県立図書館の隣は「熊本市体育館・青年会館」。ここの前庭は大きな木でおおわれている。
秋は紅葉、春は新緑が楽しめる。好きな場所だ。
円形に8つのベンチが置かれていて、季節や時間で日当たりのいいベンチ、日差しを和らげるベンチを選んで坐る。


砂津小学校の信号を渡り、県庁へ。
銀杏並木は色づき始め。

熊本県は、漫画『ONE PIECE』と連携し『ONE PIECE 熊本復興プロジェクト』を立ち上げている。

尾田栄一郎氏には熊本県民栄誉賞が贈られ、受賞を記念して県庁プロムナードに平成30(2018)年11月に「ルフィ像」が設置された。
プロジェクトとして、この後、熊本地震で被害が大きかった8市町村に、麦わらの一味の仲間の像を設置が進められている。
ウォーキングで行った場所では、阿蘇駅前に「ウソップ像」が設置されていた。

ルフィ像のまわりには若者たちが大勢来ている。年寄は早々に退散しよう。
今日の「歩く」はここまで。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます