311震災に伴う原発事故。その結果として不安院と呼ばれていた原子力保安院に代わり、ほとんど当時の野田佳彦が独断で委員長を決めた原子力規制委員会というものができた。
科学的論理的知見よりも政治的思惑を明らかに優先させた関西電力大飯原発再稼動を決めた後である。ウンコを洩らした後でトイレに入りトイレットペーパーを探すという、世にも稀なアホ手順を全国民ならぬ全世界に晒して「偉いだろう」と踏ん反り返り、選挙に臨んだ結果、政権党だった民主党は大惨敗を喫する。
代わりになる政党が無かったからか、勝手に転んだ民主党を尻目に、自民党が大勝し、加えて暴走老人とヤンキー弁護士がタッグを組んだ「失言・放言大放出確定」の日本維新の会という、この党首二人以外はほとんど旧来の政党内部では役に立たなかった「地元では大物扱いされる政治家」などが加わる。
こうした人たちは、例えば原発政策については専門家任せである。専門家ならばどうにかなる、とでも思っているのか。工学ならばいざ知らず、例えば原子力の根源である量子力学には、我々が通常認識している因果律とは違う世界も存在しているわけだ。工学はその理学の結果を実生活に生かすということになる。量子力学とは、結局観察を目では出来ない世界だ。測定器による値から、姿を類推する。論理として「こうなるはず」だという結果を測定器で確認することで、その論の可否が問われるという、二酸化マンガンに過酸化水素を加えて酸素を発生させるというような、簡単な実験で済む話ではないのである。
工学はこうした理学系の結果を前提に、モノを組み立てるためのの技術である。だから、工学系の科学者やら技術者という専門家は、その前提を深く研究しているわけではない。でも専門家なのである。専門家という言葉が成立するためには、その専門領域に特化した学識や研究は必須ではあるが、それが世界とどう繋がっていくかについては通常認識しない。専門家であるが故に、その専門領域外のことには関心そのものが無い。専門的に知見が深まれば深まるほど、知見はせいぜい専門の周辺領域に限られる。
地震だったらプレートテクトニクス理論の人や、変動地形学の人、地震学の人、地質学の人などが関与するわけだが、それぞれ視点が違う。同じものを見ても上に滑る地滑りなど、重力を無視した発言をする人も出てくる。下から上に「地滑り」が起きるというのは、直近では岩手・宮城内陸地震がある。山間地を縫うように走っていた道路が、見事なまでに山が崩れたことにより被害が起きた。311以前の内陸性の地震であり、被害が東北の山間地域に限られたためニュースにはならなかったが、あれが直下型地震の怖さである。山が簡単に崩れる。当然、その上に構築されていた人造物などはひとたまりも無い。
こうした地震のメカニズムは、昨年だか地震学者が一同に介して「予知できない」という結論を得るに至った。いや、前々から地震予知などは不可能であると思っていた研究者は多かったという。ところが「地震予知のため」と称すると、ほとんど言い値の研究費が出てくるというのである。「無理だなぁ」と思う研究者だって「無理」だとは言わない元凶がここにある。結果、地震があるという前提で町を防災化したり、避難経路を細部にわたって決める、などという防災への費用は縮小され、311直後の東京都での帰宅困難者の増加が起きる。
専門家が専門家である由縁は、「分からない」ということが素人よりもハッキリと理由を持って「分からない」ことである。つまり、「どれほど分からないのかが分かっている」「人間の持つ知見の現時点での限界を知っている」ということなのだ。だから専門家には「どこまでわかっているのか」を聞くのが正しいのだが、マスコミは「結論」を求めたがるため、「わからない」という結論には我慢できず、結果として結論を持っているかのように振舞う「トンでも学説」に飛びつく。たとえ学術的にも技術的にも「わからない」が正解だとしても、その回答を忌避するわけだ。
でもねぇ、分からないことは分からないんです。どこまで分からないことを突き詰めるのが専門家という人達です。結論が出ていれば研究なんか続けるわけ無いんですよ。アインシュタインはニュートン力学を相対性理論で打ち壊した後、量子力学の不可解さに挑み、その統計学的手法に対し「神はサイコロは振らない」と言ったといいます。ところがアインシュタインの思いに反し、どうやらこの宇宙全体が神のサイコロの出た目によって生まれたというのが、標準の認識となっています。所詮、我々の存在なんぞは、その程度のものという言い方だって可能なんです。つまり我々の存在自体が「わからない」のです。だから、存在への意味を求める宗教が世界に広まるわけで、その宗教を基盤とした社会だって作られます。その基盤同士の争いが文明の衝突と呼ばれるもので、今やオスマントルコ帝国とビザンチン帝国の争いのように、キリスト教とイスラムが争う世界となっています。こんな地域に、しかもトルコなんて地中海の地震の巣なのに、日本は福島原発事故の原因特定もされず収束もされていないのに、原発を売り込むわけです。自宅の蔵で火事が起きているのに、我が家の蔵は大丈夫ですから蔵を買いなさい、と言い続けて売りまわっているということです。商人の倫理としても「最低」だろうと思うわけです。しかも専門家が何も結論を出していないのに、専門家でもない政治化が大丈夫だという。この安倍晋三の神経って、大飯再稼動を命じた野田佳彦と同じ構造だと思いますね。
科学的論理的知見よりも政治的思惑を明らかに優先させた関西電力大飯原発再稼動を決めた後である。ウンコを洩らした後でトイレに入りトイレットペーパーを探すという、世にも稀なアホ手順を全国民ならぬ全世界に晒して「偉いだろう」と踏ん反り返り、選挙に臨んだ結果、政権党だった民主党は大惨敗を喫する。
代わりになる政党が無かったからか、勝手に転んだ民主党を尻目に、自民党が大勝し、加えて暴走老人とヤンキー弁護士がタッグを組んだ「失言・放言大放出確定」の日本維新の会という、この党首二人以外はほとんど旧来の政党内部では役に立たなかった「地元では大物扱いされる政治家」などが加わる。
こうした人たちは、例えば原発政策については専門家任せである。専門家ならばどうにかなる、とでも思っているのか。工学ならばいざ知らず、例えば原子力の根源である量子力学には、我々が通常認識している因果律とは違う世界も存在しているわけだ。工学はその理学の結果を実生活に生かすということになる。量子力学とは、結局観察を目では出来ない世界だ。測定器による値から、姿を類推する。論理として「こうなるはず」だという結果を測定器で確認することで、その論の可否が問われるという、二酸化マンガンに過酸化水素を加えて酸素を発生させるというような、簡単な実験で済む話ではないのである。
工学はこうした理学系の結果を前提に、モノを組み立てるためのの技術である。だから、工学系の科学者やら技術者という専門家は、その前提を深く研究しているわけではない。でも専門家なのである。専門家という言葉が成立するためには、その専門領域に特化した学識や研究は必須ではあるが、それが世界とどう繋がっていくかについては通常認識しない。専門家であるが故に、その専門領域外のことには関心そのものが無い。専門的に知見が深まれば深まるほど、知見はせいぜい専門の周辺領域に限られる。
地震だったらプレートテクトニクス理論の人や、変動地形学の人、地震学の人、地質学の人などが関与するわけだが、それぞれ視点が違う。同じものを見ても上に滑る地滑りなど、重力を無視した発言をする人も出てくる。下から上に「地滑り」が起きるというのは、直近では岩手・宮城内陸地震がある。山間地を縫うように走っていた道路が、見事なまでに山が崩れたことにより被害が起きた。311以前の内陸性の地震であり、被害が東北の山間地域に限られたためニュースにはならなかったが、あれが直下型地震の怖さである。山が簡単に崩れる。当然、その上に構築されていた人造物などはひとたまりも無い。
こうした地震のメカニズムは、昨年だか地震学者が一同に介して「予知できない」という結論を得るに至った。いや、前々から地震予知などは不可能であると思っていた研究者は多かったという。ところが「地震予知のため」と称すると、ほとんど言い値の研究費が出てくるというのである。「無理だなぁ」と思う研究者だって「無理」だとは言わない元凶がここにある。結果、地震があるという前提で町を防災化したり、避難経路を細部にわたって決める、などという防災への費用は縮小され、311直後の東京都での帰宅困難者の増加が起きる。
専門家が専門家である由縁は、「分からない」ということが素人よりもハッキリと理由を持って「分からない」ことである。つまり、「どれほど分からないのかが分かっている」「人間の持つ知見の現時点での限界を知っている」ということなのだ。だから専門家には「どこまでわかっているのか」を聞くのが正しいのだが、マスコミは「結論」を求めたがるため、「わからない」という結論には我慢できず、結果として結論を持っているかのように振舞う「トンでも学説」に飛びつく。たとえ学術的にも技術的にも「わからない」が正解だとしても、その回答を忌避するわけだ。
でもねぇ、分からないことは分からないんです。どこまで分からないことを突き詰めるのが専門家という人達です。結論が出ていれば研究なんか続けるわけ無いんですよ。アインシュタインはニュートン力学を相対性理論で打ち壊した後、量子力学の不可解さに挑み、その統計学的手法に対し「神はサイコロは振らない」と言ったといいます。ところがアインシュタインの思いに反し、どうやらこの宇宙全体が神のサイコロの出た目によって生まれたというのが、標準の認識となっています。所詮、我々の存在なんぞは、その程度のものという言い方だって可能なんです。つまり我々の存在自体が「わからない」のです。だから、存在への意味を求める宗教が世界に広まるわけで、その宗教を基盤とした社会だって作られます。その基盤同士の争いが文明の衝突と呼ばれるもので、今やオスマントルコ帝国とビザンチン帝国の争いのように、キリスト教とイスラムが争う世界となっています。こんな地域に、しかもトルコなんて地中海の地震の巣なのに、日本は福島原発事故の原因特定もされず収束もされていないのに、原発を売り込むわけです。自宅の蔵で火事が起きているのに、我が家の蔵は大丈夫ですから蔵を買いなさい、と言い続けて売りまわっているということです。商人の倫理としても「最低」だろうと思うわけです。しかも専門家が何も結論を出していないのに、専門家でもない政治化が大丈夫だという。この安倍晋三の神経って、大飯再稼動を命じた野田佳彦と同じ構造だと思いますね。