極楽とんぼ倶楽部

わたしの大好きなごはん(お米)、日本酒、美方郡香美町小代のことを語ります。

我輩の生まれたむら

2005年07月18日 | 私のふるさとの情報
 我輩の生まれた村は、今年4月に町村合併で美方町から香美町に変わってしまった。この機会に我輩のルーツを調べてみると、歴史に出てくるような所でもない兵庫県の山村であるが、「日本の地名」辞典によると、結構古く歴史があるのである。

新屋村(にいやむら)  現在の地名は兵庫県香美町小代区新屋

 秋岡村の南東に位置し、南西の山奥に枝郷の熱田がある。本村から熱田を経て赤倉山(1332メートル)西方の鞍部を越え、因幡国八東郡春米村(現鳥取県若桜町)に至る山道が通じていた。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「にいや」とみえ、当地に林殿、石田殿、田淵殿などが住んでいた。
 慶長6年(1601)の山名豊国知行目録では高150石。寛永16年(1639)の智高張、天保(1644-48)頃成立の国絵図でも同高。天保郷張では高209石余。「七味叢誌」や口碑などによれば、尾州熱田大宮藤原季範の次男宮次郎範秀は建久年中(1190-99)鎌倉の落人となり、熱田明神を奉じて信州田野に潜居、田野入道と改めさらに逃れて当地に来着したと伝える。範秀は従者の小子藤内と今の熱田に居を構えて開拓、移り住んだ地を熱田と呼び、後年田野入道が東の谷に移ると、その居所を田野(たの)、同じく別家を建てて東の谷に移った小子氏の居所を小子とよんだという。「田公退城記」によると応永年中(1394-1428)には金・銀・銅・鉄の採掘が盛んで、田野千軒、小子百軒といわれるほどの繁盛振りであった。しかし天文9年(1540)大洪水による山崩れ荒廃、今の中心集落に移って新屋と名付けたという(七味郡誌稿)。また山名氏の一族で美作から朝来郡佐中に転じた田淵正五郎清理は、天文年中には城山(じょうやま)城主田公綱典に仕えて小代(こしろ)庄に移ったという。天正5年(1577)羽柴勢進攻で綱典が因幡に敗走すると、清理は太田垣氏らとともに小代一揆の張本となり、羽柴勢に抗した。しかしのちに一揆は平定され、清理は当地に流寓、子の清貞は寛永19年領主山名矩豊に謁見を許され遇されたという(七味郡誌稿)。前掲にしかた日記にみえる田淵殿は一族と思われる。
 地内の熱田神社はかって熱田に祀られていたが、天文9年の山崩れで荒廃、弘治年間現在地に社殿を移した(七味叢誌)。