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佐坊村(さぼうむら) 現香美町小代区佐坊
鍛冶屋村の南西に位置し、南東は東垣村。集落は標高460メートル前後の緩傾斜地に発達。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「さぼう」とみえ、当地には上田若狭殿ほか上田氏の一族が住している。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)に「さほう かち屋」とみえ、鍛冶屋村と合わせて高150石。寛永16年(1639)の知高帳では150石、さらに別筆で鍛冶屋村50石がみえる。天保郷帳では高110石余。荒霊神社は大永年間(1521-28)に京都祇園社から分霊を勧請したと伝え(兵庫県神社誌)、天正10年(1582)・延宝7年(1679)・明治39年(1906)の社殿再建棟札を有する。口碑によると元和元年(1615)に大阪浪士の上田新右衛門政英が来住、帰農して当村を開拓したとされる(七美叢誌)。しかし前述のように上田氏は弘治年中にすでに当地に居を構えている。
鍛冶屋村の南西に位置し、南東は東垣村。集落は標高460メートル前後の緩傾斜地に発達。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「さぼう」とみえ、当地には上田若狭殿ほか上田氏の一族が住している。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)に「さほう かち屋」とみえ、鍛冶屋村と合わせて高150石。寛永16年(1639)の知高帳では150石、さらに別筆で鍛冶屋村50石がみえる。天保郷帳では高110石余。荒霊神社は大永年間(1521-28)に京都祇園社から分霊を勧請したと伝え(兵庫県神社誌)、天正10年(1582)・延宝7年(1679)・明治39年(1906)の社殿再建棟札を有する。口碑によると元和元年(1615)に大阪浪士の上田新右衛門政英が来住、帰農して当村を開拓したとされる(七美叢誌)。しかし前述のように上田氏は弘治年中にすでに当地に居を構えている。
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