東垣村(ひがしがきむら) 現香美町小代区東垣
佐坊村の南東に位置する。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「ひかしかき」とみえ、当地には宗衛門殿などが住していた。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)に「貫田、東垣村」とあり、北方の貫田村と合わせて高100石。寛永16年(1639)の知高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図では貫田村に含まれて高付けされていた。天保郷帳では高97石余。「七美郡誌稿」によれば当地は永正年中(1504-21)城山城主田公氏の一族山本主計信胤の知行所であったという。天正五年(1577)羽柴長秀(秀長)勢の但馬侵攻で田公綱典が城山城から退くと、当地の山本右兵衛慰房胤らは小代一揆を結んで羽柴勢と戦った。しかし同10年に甲州武田氏の遺臣今井外記兼則と水間掃部助の両人が小代谷に流れ来たり、今井氏は当村に、水間氏は鍛冶屋村に帰農したとの伝承がある。
佐坊村の南東に位置する。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「ひかしかき」とみえ、当地には宗衛門殿などが住していた。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)に「貫田、東垣村」とあり、北方の貫田村と合わせて高100石。寛永16年(1639)の知高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図では貫田村に含まれて高付けされていた。天保郷帳では高97石余。「七美郡誌稿」によれば当地は永正年中(1504-21)城山城主田公氏の一族山本主計信胤の知行所であったという。天正五年(1577)羽柴長秀(秀長)勢の但馬侵攻で田公綱典が城山城から退くと、当地の山本右兵衛慰房胤らは小代一揆を結んで羽柴勢と戦った。しかし同10年に甲州武田氏の遺臣今井外記兼則と水間掃部助の両人が小代谷に流れ来たり、今井氏は当村に、水間氏は鍛冶屋村に帰農したとの伝承がある。
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