新屋村(にいやむら) 現香美町小代区新屋
秋岡の南東に位置し、南西の山奥には枝郷の熱田がある。本村から熱田を経て赤倉山(1332メートル)西方の鞍部を越え、因幡国八東郡春(つき)米(よね)村(現鳥取県若狭町)に至る山道が通じていた。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「にいや」とみえ、当地には林殿・石田殿・田淵殿などが澄んでいた。
慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)では高150石。寛永16年(1639)の知高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図でも同高。天保郷帳では高209石余。「七味郡叢誌」や口碑などによれば、尾州熱田大宮司藤原秀範の次男宮次郎範秀は建久年中(1190-99)鎌倉の落人となり、熱田明神を奉じて信州田野に潜居、田野入道と改めさらに逃れた当地に来着したと伝える。範秀は従者の小子藤内と今の熱田に居を構えて開拓、移り住んだ地を熱田とよび、後年田野入道が東の谷に移ると、その居所を田野、同じく別家を建てて東の谷に移った小子氏の居所を小子とよんだという。「田公退場記」によると応永年中(1394-1428)には金・銀・銅・鉄の採掘が盛んで、田野千軒、小子百軒といわれるほどの繁栄振りであった。しかし天文9年(1540)大洪水による山崩れで荒廃、今の中心集落に移って新屋名付けたという(七美郡誌稿)。また山名氏の一族で美作から朝来郡佐中(現朝来市)に転じて田淵庄五郎清理は、天文年中には城山城主田公綱典に仕えて小代庄に移ったという。天正5年(1577)羽柴勢の侵攻で綱典が因幡に敗走すると、清理は太田垣氏らとともに小代一揆の帳本となり、羽柴勢に抗した。しかしのちに一揆は平定され、清理は当地に流寓、子の清貞は寛永19年領主山名矩豊に謁見を許され遇されたという(七美郡誌稿)。前掲にしかた日記にみえる田淵殿は一族と思われる。
地内の熱田神社はかって熱田に祀られていたが、天文9年お山崩れで荒廃、弘治年間現在地に社殿を移した「七味叢誌」。延宝9年(1681)・延享2年(1745)・文化2年(1805)に本殿を再建している(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。なお、昭和44年(1969)熱田地区の住民9戸は野間谷の集団住宅に移り、夏季は耕地に通って農業を営んでいる。
秋岡の南東に位置し、南西の山奥には枝郷の熱田がある。本村から熱田を経て赤倉山(1332メートル)西方の鞍部を越え、因幡国八東郡春(つき)米(よね)村(現鳥取県若狭町)に至る山道が通じていた。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「にいや」とみえ、当地には林殿・石田殿・田淵殿などが澄んでいた。
慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)では高150石。寛永16年(1639)の知高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図でも同高。天保郷帳では高209石余。「七味郡叢誌」や口碑などによれば、尾州熱田大宮司藤原秀範の次男宮次郎範秀は建久年中(1190-99)鎌倉の落人となり、熱田明神を奉じて信州田野に潜居、田野入道と改めさらに逃れた当地に来着したと伝える。範秀は従者の小子藤内と今の熱田に居を構えて開拓、移り住んだ地を熱田とよび、後年田野入道が東の谷に移ると、その居所を田野、同じく別家を建てて東の谷に移った小子氏の居所を小子とよんだという。「田公退場記」によると応永年中(1394-1428)には金・銀・銅・鉄の採掘が盛んで、田野千軒、小子百軒といわれるほどの繁栄振りであった。しかし天文9年(1540)大洪水による山崩れで荒廃、今の中心集落に移って新屋名付けたという(七美郡誌稿)。また山名氏の一族で美作から朝来郡佐中(現朝来市)に転じて田淵庄五郎清理は、天文年中には城山城主田公綱典に仕えて小代庄に移ったという。天正5年(1577)羽柴勢の侵攻で綱典が因幡に敗走すると、清理は太田垣氏らとともに小代一揆の帳本となり、羽柴勢に抗した。しかしのちに一揆は平定され、清理は当地に流寓、子の清貞は寛永19年領主山名矩豊に謁見を許され遇されたという(七美郡誌稿)。前掲にしかた日記にみえる田淵殿は一族と思われる。
地内の熱田神社はかって熱田に祀られていたが、天文9年お山崩れで荒廃、弘治年間現在地に社殿を移した「七味叢誌」。延宝9年(1681)・延享2年(1745)・文化2年(1805)に本殿を再建している(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。なお、昭和44年(1969)熱田地区の住民9戸は野間谷の集団住宅に移り、夏季は耕地に通って農業を営んでいる。
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