極楽とんぼ倶楽部

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小代の地名(小代庄)

2009年06月27日 | 私のふるさとの情報
小代庄(おしろのしょう)

古代の七美郡小代郷(和名抄)の郷域に成立したと思われる庄園。庄域は矢田川の上流域、ほぼ現在の香美町小代区にあたると考えられる。皇室領(京都長講堂領)。建久2年(1191)10月の長講堂領目録(島田文書)に「莵東(束)・小代庄」とあり、莵束(うつか)庄と併記され、両庄で正月元旦に使用する御簫二間、御座2枚、殿上紫畳2枚、侍所垂布1反、砂6両、3月御八講砂5両、次雑仕装束1具(9月9日料)、月宛仕丁1人(7月料)、彼岸御布施布5反(8月料)御更衣畳1枚(小文、4月料)、門兵士3人(揚梅面門、6月30ヵ日)などが課役とされていた。弘安8年(1285)の但馬国太田文によると、領家は近衛殿(鷹司家の粗、近衛兼平)、下司は御家人の八木七郎入道見阿で、庄田は38町大、この内訳は仏神田2町小、人給6町、定田30町小であった。領家職は正応(1293)4月、鷹司兼平から子の基忠へ譲られている(「鷹司兼平譲状案」鷹司家文書)。応安4年(1371)3月6日の勘解由小路兼綱譲状土代(広橋家文書)に「鷹司家殿御恩地」の一つとして「小代庄内輔遠名」とみえ、「数台家礼跡」と記される。勘解由小路家は鷹司家の家司を勤めており、御恩として輔遠名(預所職か)を賜ったものと思われる。応永14年(1407)3月の宜陽門院領目録写(八代恒治氏旧蔵文書)に「莵束・小代庄」とあり、年貢は莵束庄と合わせて長講堂修二会の壇供を負担し、当庄の領家は鷹司殿(冬家)であった。なお年月日不詳の六条殿修理料支配状案(同文書)によれば、当庄は長講堂の穎倒した公卿座の西端一間の修理を負担している。
天正5年(1577)の羽柴長秀(秀長)の但馬侵攻の折、当地の在地領主たちは一揆を結んでこれに抵抗、藤堂高虎は長秀から小代一揆の平定を命じられている。(「七美郡誌稿」「藤堂記」など)ところで慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)では大谷村、城山村など庄域諸村の高付はすべて10石単位でなされている(他の諸村は斗升合の位まで記されている。ただし射添村は1石単位の村が多い)。これは小代一揆と称された在地領主層の抵抗いよって検地(太閤検地)を実行することができなかったことが、その理由として考えられよう。

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