広井村(ひろいむら) 現香美町小代区広井
矢田川を挟んで石寺村の対岸南方にあり、集落は同川の右岸に発達。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」には「ひろ井村」とみえ、当地には広井将監殿やその一族とみられる者たちが住していた。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)では、高120石。寛永16年(1639)知高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図でも同高。天保郷帳では高140石余。「七美郡誌稿」によれば、鎌倉時代当村は城山城主田公四郎左衛門尉景典が領有し、嘉禄年中(1225-27)頃に景典の舎弟広井次郎景親が当村下司となったという。以後天正5年(1557)まで広井氏が代々当村の地頭を勤め、将監典胤の代に山名氏の給人になったとされる。前掲にしかた日記にみえる広井将監および一族は景親の裔とみなされる。地内の荒霊神社は弘安年中(1278-88)広井氏による勧請と伝え、同氏の鎮守として祀られていたが、元禄年間(1688-1704)村持となったという。天保13年(1842)に焼亡、翌14年社殿を再建している(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。
矢田川を挟んで石寺村の対岸南方にあり、集落は同川の右岸に発達。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」には「ひろ井村」とみえ、当地には広井将監殿やその一族とみられる者たちが住していた。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)では、高120石。寛永16年(1639)知高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図でも同高。天保郷帳では高140石余。「七美郡誌稿」によれば、鎌倉時代当村は城山城主田公四郎左衛門尉景典が領有し、嘉禄年中(1225-27)頃に景典の舎弟広井次郎景親が当村下司となったという。以後天正5年(1557)まで広井氏が代々当村の地頭を勤め、将監典胤の代に山名氏の給人になったとされる。前掲にしかた日記にみえる広井将監および一族は景親の裔とみなされる。地内の荒霊神社は弘安年中(1278-88)広井氏による勧請と伝え、同氏の鎮守として祀られていたが、元禄年間(1688-1704)村持となったという。天保13年(1842)に焼亡、翌14年社殿を再建している(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。
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