『霊性の震災学』2016年出版
新曜社 金菱清(ゼミナール)編
読書の秋。先日図書館から借りて再読了。今回読み終わった感想を少し。
これからなにも今夜(9/17)の中秋の名月が熱帯夜だからといって少しでも涼しさを感じたいがために無理やり幽霊話をするわけではない。この本は東北学院大学のゼミナールの学生達が2011年東日本大震災発生後しばらく経った被災地の実地調査の結果をまとめたレポート集である。
構成は第1章から第8章までだけど、題名にもある"霊性"を真に感じさせるのは第1章の『死者たちが通う街-タクシードライバーの幽霊現象』のみである。この章だけがぼんやりと浮いている。私はこの第1章だけでも読んで考えてみる価値があると思う。なぜならここには私たちが普段あくせくした日常生活の中で省みることもない特異な現象を"死者=実在"として向き合ってみる非常に重要でいい機会になるのではないかと思うことが書かれているからである。
内容として始め1.1では震災以後の被災地での膨大な怪奇現象の体験談や噂の状況を記し、どの現象も結局は「かもしれない」「可能性がある」というレベルに留まっていると述べている。次にP4の1.2から、タクシードライバーたちのいくつかの体験談を紹介している。
ここで予想がつくけれども、ドライバーたちが客として幽霊を後部座席に乗せたエピソードが語られている。詳細は省くけど他の体験談や噂話と決定的に違うことが2つある。
まずタクシードライバーたちが実際に行き先の確認とか幽霊と直接会話していること。もうひとつは空車から実車に切り替わるメーターの履歴や燃料の消費量、GPSや乗務日誌などの客観性がある記録が残されているということだ。指定された目的地に着くと幽霊たちはすでに消えているので無賃乗車として処理するほかないそうだ。
しかも驚くのはドライバーの体験談の中には幽霊の客が座っていたところに小さなリボンがついた箱が残されていたことである。忘れたのか、意図的に置いて消えたのか知る由もないがそのドライバーは小箱を開けることなくタクシーの中で保管したままだというのである。
さてここから私の感想である。章の執筆者はこのあとタクシードライバーの幽霊現象を支えるものと題して、震災で亡くなった人たちの無念や未練などの心情を持ち出し、幽霊=死者とこの世で生きている人間との間の媒体役としてタクシードライバーが死者からのメッセージを伝達しているという結論に導いている。これはタクシードライバーたちの体験の中でいずれも幽霊に怖がることなく達観した姿勢が共通していたからだ。
私はこの結びとは少々別の思いを巡らせている。幽霊たちは決して無念や未練などなく、現在生きている私たちと同じように待っている場所から歩けない道のりだから単にタクシーを利用しただけではないのか?死者は自分が死者として自覚がほんとうにあったのかどうか?執筆者はまずそこに疑問を持たねばいけなかったのではなかったか?
私は先述したドライバーの体験談の中にリボンの小箱を座席に残して消えた幽霊の談話が非常に重要だと思う。つまり幽霊が物的証拠を残しているのである。これはどういうことなのか?
この世で生きている人間があの世の死者が持っていたものを忘れもの(届け物)としてタクシードライバーが車内に保管している事実。幽霊は消えても物質は残ってしまった事実。諄いようで申し訳ない。なぜ諄く言うかと言うと、ここでひとつの可能性を導きたいからだ。
実は今もあの世の死者が、生きているこの世の人間と同じように道端でタクシーを拾い、目的地を告げて到着したら普段どおり代金を払って降りている日常があるのではないかということなのだ。
飛躍してしまうがこれは被災地に限ったことではないかもしれない。幽霊たちが支払ったお金はタクシーの売上金として残っていく。今乗った客が死者なのか生きている人間かなのかはわからない。
何を馬鹿なことを言っているのと思われるかもしれない。でもつじつまは合っていないか?生きている私たちが気づかないだけで、死者はいつでもどこでも身近に存在することもあるのではないだろうか。
毎朝の通勤電車の整列乗車で私の前の位置で今まさに車両に乗った人はほんとうに生きている人なのかどうか?そうなると、私はほんとうに今この世に生きているのかどうか?