昨日の蛙化現象の話関連ですが、
あまり人間を嫌いになるということは無い。
まあそれに嫌いな人を無理に好きにならなくて良いと思ってるし、
人間の好き嫌いも自分の視点、価値観の基準でも良いと思ってはいる
最終的には理解しあえるかし合えないかなんだろうと。
ただ、心根と表面性に違和感を感じると戸惑うぐらいで。
その心根が表面に出てきてやり方に出てくると嫌いだとか、その言葉が分からないとか煮え切らないとか、表面的に分かり合えない事でもやもやしたりするぐらいで。
それでも性善説を信じる年代なんで、きっと良くなるやろうとか、どうにか変わってくれるやろうとか、いつか、いつか、と、いつまでも信じてしまう。
これも人を信じたいと思いながら自分を信じていないからかなとか考えたり、
ちょっとした事で疑ったり。
きっと理想が高いのか強すぎるんでしょうね。
自己肯定感が低いと、自分をも低く設定しているので人ももっと高く信じて当たり前だと思っていたりして。
もちろん病気の人でも痛みを抱えている人でも、もっとこうすればこう変わるのに出来ないのは何故なんだろうと思ったり、自分も頑張ったりする分、違和感を感じたり。
それも理想が高いんでしょうね。
人の魂と繋がるようになっても、その人の魂の理想を感じると余計に思いが募ってしまう。
そしてそれが出来ないと落胆を感じる。
人ってそんなに強くないよとか、人ってそんなにすぐ変われる訳ないよとか、分かってからでも自分を信じたいから人を信じようとする。
疑う事もしたらアカンよと。
それは夫婦関係でもありました。
それでもどんどん価値観や成長幅が大きく離れて、ある時、プチっと何かが切れる瞬間って在るんですね、
それは自分のどんな時やろうと考えたりした事もあります。
今までは人に裏切られた時だったりして、それでも自分のやって来た事は信じようと心を立て直したりして。
信頼も絆も信用も……。
もちろん好きや嫌いも、良い人とか憧れも。
それでも生理的に自分が嫌いじゃ無かったら人を嫌いになる事はない。
そんな感じです。
でも蛙化現象って、その生理的悪現象だったんだと (ー_ー)!!
堪忍袋の緒が切れる
魂的にもその緒が切れるまでは繋がりを信じる。
そんな事があったんだろうか。
それも自分の魂を信じていない事だったんだろうか。
自分を尊敬できていない事なのか。
自分の魂を痛めつけているという事なのか。
昨日の成れの果ての話の事でもだけど、蛙化現象を感じるという事もそれぞれの自分の感覚という事で、それをどう見えることが悪いとかアカンのかというより、
そう観えてしまうというより、その感覚が自分自身に教えてくれているという事を信じたら良いのかと。
それも自分を守る感覚なんだと !(^^)!
人を信じるのも大切だけど、自分の感覚を信じて離れることも大切。
目の前の信頼とか絆とか信用とか、好きとか憧れとか、そっちの方を感じる感覚の方が自分に合っていなかったんだと!
私自身の結婚の事でも最初から頑張るという一生懸命の気持ちで、ある意味それで自身の成長はその賜物で、感謝だったけど、それ以上に頑張り過ぎたように思う。
それでも信じようと努めたけど、成れの果てに成り下がって人格が最低になって行ったもんで、これ以上はホント子供達にまで大きな傷を作ってしまうと思い、これ以上行くとホント気持ち悪くなってしまう瞬間までになった
それも私は神様の強制終了だと思って感謝だったんだけど、
人間関係でも行くところまで行って切っても良いんだと。
性善説や、理想は自分にとって自分がそうで自分に正直ならきっと成立するという事を信じたいと思った (*^^*)
心理学や精神学を学んでいる人なんかはこういった事を理屈や学問的に知識で知っているんだろうけど、
長年の体験や経験で実際にリンクしながら自分の事と繋げて納得できないと手離せない事なんでしょうね (*^^*)
仏教であっても神道であってもキリスト教であっても色んな宗教がこういった事を教えてはくれているんでしょうけど、
自分に置き替えて学んで活用して納得していない魂が多く地球上に残っているのかなって
そんな気もします !(^^)!
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