普段の言葉使いの記事でも話していたのですが、
普段の言葉は何気なく使っているものですが、
自分の内にある価値観や意識、概念がそれを作っているし、使っている。
魂と心と肉体のバランスで、先に意識を変えるか、先に肉体の行動や言葉を変えるか、そうしながら自分の人生を作っていくという話しでもありました。
普段から使っている言葉でも魂や心や肉体のバランスが取れていないとどこかに負荷がかかるという事で、
その負荷が痛みや病気という表現となる場合もあるという。
心に嘘をついていてもバランス崩れるし、
人の嘘に翻弄されても傷つきバランス歪みます。
常にそんな事を考えすぎても脳の思考バランスも崩れます。
なので先ず普段の言葉使いを見つめてみるのも良いですねという事ですが、
ついてる楽しい嬉しい愛してます、幸せありがとう許します。
その「許す」部分がみそで、
表面だけ許していても駄目ですよという話しをしていました。
色んな人を許しているのは自分が悪いからですか?
そうではないです。
人を許していると言いますが、それは真実に正しいと言えるのかも定かではありません。
人を許せる自分を認め、何故許せたか、それまでの自責の念に対して自分を許します。
ここまで許せないでいると自分の奥で蓋したままになります。
本当の意味で許せていない。
全ては自分が主役。
自分をどう許すかがキーワードとなる。
その中で、「受け取らない」事も許す。
遠慮とは違います。
物を受け取るという単純な事だけではない。
ついでではないですが、
物を受け取るという事も解釈は色々です。
人からモノを受け取る時に、遠慮などで断る人もいますが、
遠慮と言う概念もその奥にはいろんな心理が働きます。
先ずは人の気持ちは一旦受け取れると良いですよね。
受け取った後にどう精査して処理するかは自由です。
しかし…この物のやり取りもですが、
意識や心もです。考えもです。
はっきりと断るという事もしていい事です。
そのはっきり断るという事を許すのです。
そういう自分を許す。
受け取らない自由。
それは自分を縛り付けない自由でもあります。
自分に合わない意識を受け入れない自由も必要だという事です。
この地球空間は意識が混在している空間でもある。
人が発した言葉には意識を持ちます。
その意識は形や音が見えるわけではないけど、
浮遊しているし充満している。
何でもいいんだとか、自分に関係ないんだと肉体や肉体の心は思っているかもしれないけど、
勝手に融合している場合だってある。
SNSの繋がりでも嫌なことを受け取ってしまう場合もある。
そんな時にでも、受け取らなくても良いんだよという事を先に自分に許しておくのです。
先にと言う感覚が分からないかも知れないけど、
何でも受け取ってしまう自分にも気づいてない場合もあるのです。
いじめられる人が世の中にもいますが、
嫌だと言えないのも…それを自分に許していない事が多いのです。
自分がされるのは仕方がないんだとか、
言われて当たり前だとか、
そう思ってしまう前にそうじゃないよと許すことを教えてくれる環境にいれば受け取るとことしなかっただろうに。
そう思うと周りの環境によって意識の根底や土台が決まってしまうのは残念な事かもしれませんが。
なんでも気づいた時がその時です。
だから人生にいろんな体験があるのだと思います。
受け取るなら自分にとっても良いことや楽しい事、有難い事を受け取りたいですよね。
そのために、自分の嫌な事も知らないと始まりませんよね。
天はそれを教えてくれている…体験を通して。
横の嫌なつながりは自分の意思で受け取りませんと切る覚悟も必要です (^.^)
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