昨日の記事で雑音の話をしていました。
セミの鳴き声も風情かなと思っている間は良いけど耳の傍でミーミーとジンジン響くほど鳴かれると凄い邪魔な雑音。
高齢になって耳が聞こえ辛くなったり、耳鳴りの様に雑音がずっと聞こえているのも辛く大変な事。
もちろん肉体レベルの故障の場合もあるけど、何かその奥に聞こえてくるものを聴きなさいという暗示の時もあるし、天のメッセージの時もある。
虫の知らせという事もよく言いますよね。
そんな風に……。
すぐに病院へ行って医学や薬学に頼るのも必要かもしれないけど、
その頼るのもだけど、自分の声に従ってみるという事もあるかと。
心の耳を使う、心の眼を使うのを近年の人間界では忘れ去られ、直ぐに何かに頼るという方へ行ってしまっている。
直ぐに何かに頼るというのも、見える世界の観えるものしか信頼しないという心の表れなのでしょう。
人の声を聴くにも人の心の声を聴いてみるのも大切だし、
人を観るのも偏見や先入観や色眼鏡をかけては見えないものもある、心の眼を使いましょうという事なのでしょう。
見える世界に浸り過ぎている現代人、
見える事に頼り執着しすぎて自分を信じる事すら忘れてしまっている。
今目の前に起こっている事は全て、その見える世界の執着から解放されるために起こっている事ばかりなんだと思う。
それは心を観る、心を感じる、心を知る事から始まるんだと (^.^)
耳も目もそれに必要なツールです。
五感全てそうだと思う。
自分を知ることをせず、社会への繋がりに疲れて閉ざしてしまうと自分の中に籠ってしまう。
外との繋がりを遮断していては開放感も味わえません。
肉体もですが、心も開放感が必要です。
それが魂の解放感へと通じます。
魂は解放されるためにこの世を生きている。
それをせずに魂を閉じ込めておくと、魂も暴走してしまう事になります。
その一つが認知症だったり、憑依だったり、霊障だったり、せん妄だったりする。
そうならいために起こっている目の前の出来事、他人事ではない。
全て自分自身のために起こっている。
自身の解放のために必要な事。
目の前に起こっている奥に心に刺さる事がある、きっと。
自身を助けてくれている事ばかり、
自分を味方が与える。自分の見方が与える。自分の観方が与えてくれている。
それは心を活用しないと中々気づけないもんです。
自分の眼の前に起こっているこのことは、自身のどんな事を解放してくれようとしているのか、自分はどんな事を解放したいと望んでいるのか。
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