考える事やしなくてはいけない事が多い時、
忙しいと言います。
忙しという感じは心を亡くすと書きます。
というように、頭の中も考える事が多いと
ごちゃごちゃしていると昨日の記事で書いていましたが、
脳の自律神経にも影響があると。
情報もいろいろ吸収したり、吐き出したりしながら
優先順位や精査しながら…
必要なのか、必要でないのか…
自分の事なのか、人の事なのか、
片付けして順番にこなして行けることが一番で、
その時も感情を一つずつ切り離して行けると(^.^)
心もスッキリしていけるという事です (^.^)
高齢者になって、自分にやる事が無くなっても、
情報は入って来ます、
社会情勢の事、自然界や季節や気候
自分の身体の内側と外側との関わりは続きます。
そんな話もしていました。
よく、想定外とか予想以上とか言われますが、
今までの体験にはその想定外な事にも対応できる
土台の意識がきっと自分の中に在ります。
昔の体験や経験をどうにか活かしていけるだけの
情報も自分の中にきっとある。
無意識の間に自分の外側に頼り過ぎている、
又は、依存し過ぎているだけで無責任に言葉を吐いたり、
考えもしないで愚痴や文句のように言って
最初に脳に聞かせていると、今までの体験も活かせまん。
私は60歳なので、何となくいつも世代の真ん中意識があります。
昔も知ってるし、今の時代にも意外とついて行ってる。
活用できているか出来ていないかは分からないけど、
それを活用できる時の為に準備しておきたいなと思っている。
例えば、病気に関しても、食べ物に関しても
昔の事も、今の情報も大切にしていて、
最終的に自分の考えを持つようにしています。
病気に関していえば、直ぐに数値には頼らないし、惑わされません。
直ぐに医者にも頼りません。
事実、西洋医学も有れば東洋医学も中医学もある様にです。
食べ物で言えば、消費賞味期限の数値もです。
豆腐でも牛乳でも、ちょっと口につけてみて確かめてみます。
今世話になっている生活クラブの食品にも一応それらの期限は書いていますが、牛乳でも豆腐でも一週間なんて全然問題なく食べれます。
赤ちゃん育てる時もそうです、
最近のママは自分の母親の経験よりネットの情報を信じます。
母親は自分を育ててくれているんですよ。
それも無視してしまう。
昔の知恵が正しいとか間違いだと言っているわけでは無くて、
母親の考えが押し付けだったり、
普段からブレていているから
聞いてもらえないのかも知れないだけです。
その時の自分が健康なら親にも感謝で、
親の責任だけじゃなく、
自分がその事に関してどう取り組んでいるかでも変わって来ます
親の育て方も活用できると信じられるし、
反面教師であったり、意見を取り入れてみたりして
自分流に進化させるのです。
昔の知恵や考えをしっかりと理解しながら現代に合わせて活用していくと良いんじゃないかと思うのです。
そんな事が高齢者になると、
自分の中にたくさんの人生分の情報を持っているのです。
たまたま無駄に脳を使っていて、
無駄に脳を活用していない。
想定外の気象にも、想定外の災害にも
きっと知恵がたくさん。
現に戦争を生きたおじいさん程、生きる力が凄いと思います。
私もたまに思いますが、仕事したり、遊んだりはするけど、
生きる力ってあるかなって、
もちろん我慢強かったって事もありますけど(^^;)
昨日の話の中に、
旅行や遠足や行事に向けて常にずっと頭がごちゃごちゃリプレイし働かせていた子供の頃や若い頃だったという話をしていました。
なんでも体験には感情が付きもので、
その感情も精査し切り離して行きましょうという話でもありました。
体験や経験の時に必ず感情がクローズアップされてきます。
それに気づかずアップアップしている場合もありますが、
必ずある。
私のこの頃の場合ももちろん気づきませんでした。
真逆のオットにより緩和されて行ったと言いましたが、
そんな時に、
なぜオットに疑問を感じたか、
なぜ真逆だと分かったか、
オットに伝えたところでオットが変わるわけではなく、
自分が自分をどうにかしないといけないと自分をみつめる。
そうすると、昔のその行動に対しても
自分が如何に心配性だったか、
如何に不安性だったか、
如何に恐れが強かったかがクローズアップされてきました。
忘れ物は無いか、
もしこんな事があったらどうしよう、
もしもの為にこれもあれも準備しておこう、
みんなの為にこれもあれも用意しておいてあげよう、
怪我したらどうしよう、
トイレが無かったらどうしよう、
みんなの行動も気になる、
自分に向いてくるみんなの気も感じる、
体育とか動物が苦手なのも、恐れの想像が膨らむ、
挙げればキリがないぐらい色んな事が巡ります。
それは決して悪い訳ではない事ばかり。
人の為であっても結局は自分の事。
その頃には気付かなかったけど、
今ならその頃の自分に声を掛けてあげたい事や
理解してあげれたら良かったなと思う事や
心寄せてあげて思いやりで包んであげたい事
それも挙げればキリがない。
不安とか心配とか怖れって当たり前の様で当たり前ではない。
自分の中に在るよって簡単に言う人もあるけど、
人の基準は分からない。
だから自分が解かってあげれたら良いのかなって思います。
人間にはもっと色んな感情があります。
それは仏教の中でも煩悩の内です。
経典や勉強では認識するけど、
自分の中の体験と共に在った感情だけは
自分で解消し、切り離していく方が良いと思います (^.^)
この夏からごちゃごちゃしていた私の脳も
一つずつ熟そうと落ち着てはいますが (^^;)
自分の事ならどうにかなるよと思いつつ、
人やグループなどで役割があるとちょっと責任感がクローズアップされるのでしょうね。
そこには心配性や不安性も残っているかも知れないけど、
見栄や羞恥、等もしっかり客観視しています。
頭が忙しい時に…出かけた途端「玄関の鍵かけたかな」とか、「ガス栓締めたかな」とか何か忘れていないか不安や心配になるのと同じようにです。
何でも過ぎるとよくないです。
程々にバランスよくです。
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