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水色の上下の服を着た少年が、地上をきょろきょろと見まわしながら、風に乗って月の世の空を飛んでいました。空は薄墨色で、月はまるまったひよこのようでした。少年の髪も金色で、どこかその月の色に似ていました。
「さて、困ったぞ、どこまで迷い込んでしまったんだろう。いったんここに来ると、探すのはたいへんだからなあ」少年は風の中に立ち止まって、腕を組んで少し考えました。「とにかく、あてもなく探し回ってもしょうがない。お役所に行って相談して来よう」そう言うと少年は、月を目指して飛び始めました。
お役所に行くと、月の役人はもう少年の相談事を知っていました。日照界のお役所から連絡があったからです。たまにあることなのですが、日照界にいくはずの人間が、なぜかしら月の世に魅かれて、勝手に月の世に来て迷い込んでしまうのです。水色の服を着た日照界の少年は、その迷い込んでしまった人間を探しに、月の世に来たのでした。
「吟遊詩人だったそうだね。その人は」と、黄色い服を着た月の役人が言いました。「ええ、琴を弾きながら各地を旅して、歌を歌って、働いている人からものをもらって生きてました。彼はとてもうまい歌い手だったんで、若いころはなんとかなってたんですけど、年取ってからはもう誰も相手にしなくなって、馬鹿にされて、いじめられて、結局は飢えて野垂れ死にしたんです。でも、心根は良い人で、人を恨んで意地悪なことはしなかったものですから、日照界にきたんですけど…」
少年は本当に困ったような顔をして、頭をかきました。月の役人は書類を読みながら首を傾け、少し考えたあと、言いました。
「月の世は広いからね、探すのは大変だ。吟遊詩人と言えば、それに詳しそうな人がいるから、彼に助けてもらおう」
そこで早速、ひとりの竪琴弾きが、お役所に呼ばれてきました。彼は日照界の少年を連れて、月の世の空を飛びながら、言いました。
「まあ、吟遊詩人といえば、ぼくも似たようなことをしているので、そんな人が行きそうなところは、いくつか知っていますよ。歌がうまい人には、胸の中の愛の泉がかなり深くなっている人が多いもので。だから、月の世のやさしい、美しいものに魅かれて、そこにひきこまれてしまうものです」
「へえ、そうなんですか」
「月は美しいですからね。地獄があっても、いやあるからこそ、その美しいものは本当に美しい。人が心ひかれるような美しいところはたくさんあります。たとえば、石の砂丘など」
「あ、そこならもう探しましたよ。あそこは日照界でも知らない人はいませんから。でもそこにはいなかった。…どこにいるのかなあ。ほんとうに、困ったな」
眼下に、珠玉のような小さな青い池が見えてきたので、竪琴弾きは、いったん休もうと、少年を連れて、その池のほとりに降り立ちました。そして少年と並んでそこに座ると、竪琴の弦をびんと鳴らして、書類を手の中に呼び出しました。竪琴弾きはしばし、それを読み込んで、ため息をつき、悲しげに笑って隣の少年を見て、言いました。
「やあ、これはいい人だな。彼は一度、小さな島の族長だったことがあるんですね」
「ええ、そうです。北の方の小さな島で。みんな鹿を狩って暮らしてた。彼はいい長でしてね、先祖の知恵を守って、みんなのためにそれはいいことをしてくれた。部族の人をそれは愛していて、立派に部族をまとめてくれてた。おかげで、部族は平和で、豊かとはいかなくても、それほど飢えもせず、みんな幸せに暮らしてた。ほんとにいい人なんです。人間には、こんないい人もたくさんいるんだ。だけど、次の人生で、彼は族長じゃなくて、貧しいお百姓の家に生まれたものですから、今度は、昔彼が愛して導いていた島の人みんなに、かえって馬鹿にされたんです。働いても、不器用なものですから、役立たずと言われて家を追い出されて、仕方なく琴を弾きながら歌って、門づけなどしながら生きていたんです…」
すると手元から書類を消しながら、竪琴弾きが言いました。
「ルサンチマンというやつですかね。もしかすると」
「難しいことば、知ってますね。使い方があってるかどうか知らないけど」
「おもしろいことばは使ってみたくなるものなんですよ。意味はとにかく、響きはいいじゃないですか。なにか歌になりそうだ」
「吟遊詩人と言う人には、変わった人が多いな」
少年は少しため息をつき、ひざにひじをついて、ひよこ色の月を見上げました。
竪琴弾きは、竪琴を膝にかかえ、一息不思議な旋律を奏でました。少年は竪琴弾きの傍らに座り、しばし竪琴弾きの魔法を見ていました。竪琴弾きの奏でる音楽に、ひよこ色の月に染まった風が糸のようにひきこまれてきて、そっと何かをささやいていきました。すると、竪琴弾きは、ああ、と言って、竪琴を弾くのをやめました。
「どうやらわかりましたよ。彼の行ったところ」「え、ほんとですか?そんなに早く?」「ええ、竪琴というのは、けっこう便利な魔法の道具でしてね、時々、ちょっと普通の魔法ではわからない不思議なものと響き合うことができるんです。さあ行きましょう、彼はある小さな島にいますよ」
そう言うとふたりは、ふわりと空に飛び上がりました。竪琴弾きは、静かな海の上に浮かぶ小さな森の島に、少年を連れていきました。森の真ん中ほどに、穴があいたような小さな緑の庭があり、そこには、ガラスのように透き通った野薔薇が、ところどころに咲いていました。少年が探していた人は、その庭の隅に膝を抱えて座り込み、じっと一輪の野薔薇を見つめていました。
「ああ、やっと見つけた!」少年が大喜びで庭に降りてきて、その人に声をかけました。でもその人は返事もせず、ただ野薔薇ばかりを見つめ続けていました。竪琴弾きが続いて降りてきました。そして、竪琴で一つ音を鳴らしました。すると野薔薇がそれに響いて、しゃらんと音を鳴らして歌いました。すると、吟遊詩人は一瞬目を見開いて顔をあげ、ぼんやりと竪琴弾きと少年の顔を見つめました。その目は、悲哀に静かに凍って、二人を見ても何をいうでもなく、まるで死んでいるように固まっていました。すぐに彼は、野薔薇の方に目を落として、ただ何も言わずにじっと野薔薇ばかり見つめました。
「吟遊詩人さん、あなたは日照界の人なんです。帰りましょう。あっちで、勉強しなければいけないことがたくさんあるんです」少年は、吟遊詩人に語りかけましたが、彼は返事もせず、野薔薇ばかり見ていました。竪琴弾きが、ふと何かを感じて、少し訴えるような顔をして、月を見上げました。薄墨色の空の、ひよこ色の月が、静かなため息をついたような気がしました。竪琴弾きは、何かさみしげな予感が胸をよぎって、言いました。
「…ここはね、昔、ひどい地獄だったんですよ。いつのころだったか、みんなで、自分たちの王様を殺してしまった国の人が、その罪を償うために、長いこと、この島で重い鉛の石を背負いながら、石や岩や臭い泥だらけの畑を耕していたんです。別に王様が、悪いことをしたわけではなかったからなんです。国の人々は、大方は貧乏だったけれど、食後のお茶も飲めないほどじゃなかった。でもやっぱり暮らしの中の不満と言うものは出てくるもので、ある日みんながそれを一斉に王様にぶつけて、悪いことはみんな王様ひとりのせいにして、殺してしまったんです。そして国はどうなったかというと、王様が死んでから、だあれも後の責任はとらなくて、みんな国を見捨てて逃げていった。国は滅んでしまって、そして今も、その国の人々は、定住する土地を与えられず、地球上をあちこちとさまよっているそうです。…あの頃のここの月は、暗い鉛色をしていたな。罪びとたちは今は、深く反省して、悔い改めたものですから、次の段階にいっているんですけれど…、やはり彼らの残した汚れは残るものですから、こうして森ができて、花が咲いて、ずっとそれを清めているんです」
「…ああ、なるほど、彼がここにきてしまったのは、そういうわけなんですね」
「まあ、何かに、不思議に導かれて、来てしまったんでしょうね」
竪琴弾きと少年は、しばらく黙って、悲しそうに、吟遊詩人を見ていました。やがて、竪琴弾きは少し呪文をとなえ、指で月光をひとひら捕まえて、それで琴の弦をなでると、びん、と清らかな音を鳴らしました。吟遊詩人は何も言わず、ただ野薔薇を見ていました。竪琴弾きは吟遊詩人に近づくと、そっとその耳に口を近づけ、琴を鳴らしながら、小さな声で歌を歌いました。
「秘密を、教えて、あげましょう。
それはね、野薔薇にみえるけれど、
ほんとうは、百合の花なんですよ。
なぜなら薔薇は、嘘つきが大嫌いだから、
嘘がしみついた、この土には咲けないのです。
ですから、百合が、薔薇に変身して、
薔薇のかわりに、薔薇の歌を歌っている。
百合はやさしく、嘘を許してくれるから。
けれども、気をつけなさい。
百合はあまりにも、やさしくて、
君の胸の願いを、ほんとうにかなえてしまう。
決して願ってはいけない願いでも、かなえてしまう…」
その歌は、吟遊詩人の胸の中にも流れていって、彼の胸の痛い孤独の傷に響いたようでした。人々を愛しても、報われなかったさみしさを抱いて、不思議に昔の故郷に似ているこの島に、彼は何かに引き込まれるように、来てしまったのでしょう。一筋、吟遊詩人のほおに涙が流れました。
少年が、あっと声を飲んで、目を見開きました。月の光が一筋、吟遊詩人を照らしたかと思うと、百合が化けた野薔薇の花が、しゃらんと揺れて、とうとう、魔法を起こしてしまいました。
気がついた時には、そこにはもう吟遊詩人の姿はなく、一羽の白いオウムがぼんやりと野薔薇の下に座っていました。オウムは白い絹のような翼をしていて、小さな目とくちばしは黒瑪瑙のように澄んでつやめいていました。
「ああ、とうとう、願いがかなってしまった」竪琴弾きが、天を見上げました。そして悲しそうに目を細め、深いため息をつくと、オウムを見つめて言いました。「あなたはもう、人間ではいたくなかったんですね…」
それを聞いた少年が、たまらないと言うようにうっと喉をつまらせ、ぽろぽろと涙を流し始めました。白いオウムのために、何かやさしいことを言おうとしたけれど、何を言ったらいいのかわからず、結局は何も言うことができなくて、ただ口を噛んで泣いていました。
少年は、やがて、白いオウムのことを竪琴弾きにまかせて、日照界に帰っていきました。オウムが、このまま月の世にいたいと言ったからです。一羽のオウムは、月のお役所につれていかれ、しばし色々と検討されたのち、ある魔法学者のもとにひきとられ、その家でともに暮らし、ともに旅をすることになりました。
オウムは今も時々、自分が人間だったときのことを、思い出すことがあります。愛しても、心が届かなかった。それだけで、人間でいることをやめてしまったことを、今は少し、悔いています。あのまま、人間でいて、もっとみんなのために働いていたら、もっといいことになったかもしれない。けれども。
椅子に座って、難しい文字の書いてある書物に読みふける老人の傍らで、オウムは時々、昔人間だったころに、よく歌っていた愛の歌を歌うことがあります。
老人はそれを聞くと、オウムを振りかえり、ただ、静かにも温かなまなざしで、ひととき、彼の愛に答えてくれるのでした。
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