そこは周りを切り立った崖に囲まれた小さな高地でした。頂の平らなところはそう広くはなく、まるで百姓家の小さな庭のようでした。高地というよりは、大地に立った高い柱の上といったほうがよいかもしれません。頂の庭には一本の木と、小さな池と、瑪瑙の岩が一つずつあり、わたしは随分と長い間、一匹の猫となってここに棲んでいました。
わたしの毛皮は灰色と黒の渦が巻くような文様をしており、首にはアベンチュリンの青いメダルをつけた細い首輪をしていました。ときどき池をのぞき見て、わたしは自分の瞳が煙水晶のように、暗い灰色であるのを確かめました。磨かれた煙水晶はつやつやと丸く、星をみれば星を宿し、月を見れば月を宿し、それはとてもきれいに光りました。
猫は美しいので、人間だったときより、わたしはわたしが好きです。人間だったころのわたしは、猫というよりはネズミでした。いろいろな大切なものを人様からネズミのようにかすめとって生きておりました。ばかなことはたいそうたくさんやりました。その結果、わたしはこの煙のようにうす暗い世界に一人で棲まなくてはならなくなり、永遠に、待っていなくてはならなくなりました。
わたしのしなければならないのは、一匹のネズミを殺すことでした。灰色の毛と黒い眼の泥のような血をした苦いネズミを、食べることでした。しかし、ここはあまりに高い崖に囲まれているため、訪れるものといえば、月星の光や、どこからか吹いてくるほこりっぽい風くらいのものでした。お日さまはおいでませんでした。いつもいつも、ここは夜でした。月は太ることも細ることもなく、まん丸のままずっと南中しておりました。しんねりとした月の光はときどき、やわらかい布のようにわたしに触れ、煙色のわたしの目を磨いていきました。
わたしは瑪瑙の岩のそばできちんと香箱を組み首を立て、前をまっすぐに見ながら来る時を待ちました。瑪瑙の岩には、何か仕掛けがしてあるようでした。そっと耳を岩に近づけると、さらさらと砂の流れるような音が聞こえ、その音の奥では、オルゴールの奏でる微かな旋律が砂に混ぜられた銀の音のように聞こえました。全く閉じた岩の中に、こんな魔法をだれがしかけたのでしょう。ふと風が吹いてきました。すると砂の音はそれに反応するように、きん、と耳に痛い音を叫びました。それは猫の小さな頭骨を貫くような音でした。わたしは頭を前足でさすりながら、痛みの収まるのをしばし待ちました。そして月を見ながら、ふと、思いがよぎりました。わたしは、なぜこんなところにいなければならないのか。来るはずのないネズミを待って。
疑問を持ってはいけないと、ある人が言っていたのを思い出しました。その人はわたしに、おまえはあまりにも厳しい試練を受けなければならないと言いました。神がお前に何をなさるのかはわからない。しかし、すべては受け入れなくてはならない。その人は悲しそうに言っていました。
ほんとうは、わたしは死なねばならなかったのです。命のすべてを、神の裁きに没収されねばならなかったのです。それはわたしのしたことが、子供のしたことといって許されるものではないほどのことだったからです。その人は、わたしがまだ若いからと、神に必死に罪の軽減を願っていました。わたしはそのそばで、言われたとおりに、反省したふりをして、うつむいていました。
猫になったのは、そのすぐあとでした。誰もいない、小さな孤独の庭で、わたしは永遠にネズミを待って暮さねばなりませんでした。神に許しを願ってくれたあの人にも、永遠に会えないのです。わたしは泣きたくなりました。そして初めて、猫の目には容易に涙は流れないことを知りました。それが一層悲しく、たまらずにわたしは立ち上がり、瑪瑙の岩の上に登って月をにらみました。
わたしは月に向かって鳴き続けました。初めて、永遠の意味がわかりました。それは、わたしが最も愛し、愛してくれた人と、二度と会えないということだったのです。わたしは受け入れなければなりませんでした。でも、それが何よりも受け入れがたいことだったと気づくのに、なぜこんなにも時間がかかったのか。
わたしは、叫びたくなりました。永遠の向こうに去ってしまった人に、「愛している」とどうしても伝えたかったのです。けして届かないとわかっていても、叫びたかったのです。でもわたしののどからほとばしるのは、まるで赤ん坊の泣き声のような、猫の声ばかりなのでした。
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