その日、商店街は、どことなく、ひっそりとしていました。外では、冬の初めの風が、少し葉の残った欅の枝を揺らしていました。商店街を歩く人々は、なんとなく、何かが足りないような気がして、一体ここはこんなにさびしいところだったかしら?と、不思議な顔で商店街を見まわしました。そして、なんだかとてもつらい気持がして、それぞれに、商店街でそそくさと買い物を済ませては、急いで家に帰ってゆきました。
ムッシュ・ポルのお店は、今日は、シャッターを閉めていました。明るい照明の灯る商店街の中で、そこだけ、なんだか何もない洞窟のように暗い感じがしました。冬の風がさみしく、時々、シャッターをかたりと揺らしました。
ポル氏は、店の奥で、黒い服を着て、静かに、レジの前の椅子に座っていました。座ったまま、ぼんやりと、灯りを消した店の中の、薄暗い書棚を見つめていました。時々、悲しげな吐息が、口からもれました。
ポル氏は今日、ひとつの小さなお葬式に、行ってきたのです。ひとりの大切な友達が、昨日、死んでしまったのです。ほんとうにかわいい、やさしかった友達、オリヴィエ・ダンジェリク。彼はほんとうに、正直で、まじめで、一生懸命に、きれいな詩ばかり書く人でした。ある日彼は、詩を書くのに夢中になって、三日も眠らなかったことがあり、そのために風邪をひいてしまって、その風邪が原因で肺炎を起こしてしまい、病院に行った時には、もう手遅れだったのでした。オリヴィエは、まるで巣から落ちた小さな小鳥の雛のように、あっという間に、いってしまいました。オリヴィエ・ダンジェリクは、死んでしまったのです。
胸の中に、たまらないさみしさを抱いて、ポル氏は、店の奥でしばらく、動けないほどでした。体が氷のように固まって、悲しさに沈んでそのまま自分も死んでしまうかと、思うほどでした。棺の中で、ほんの少し笑っていた、オリヴィエの顔が、頭の中をよぎりました。オリヴィエは幸せそうに、笑っていました。ああ、もう苦しむことはないんだね、オリヴィエ。ポル氏は心の中で、そう、オリヴィエに呼びかけたのでした。
ポル氏は、いつもレジのすぐ横においてある、オリヴィエの小さな青い詩集に手をやりました。そして、何度も読んだその詩集をまた開きました。オリヴィエの残した言葉が、まだその中で生きていました。
つらいことや悲しいことが
あったときは
小さな白い薔薇を
胸に抱こう
神様が 空に虹をかけてくれるよ
すると薔薇は ほんの少し虹に染まって
真珠色になる
それは神さまの薬だから
少し痛い 少し苦い
でもそれだから いいんだ
だって どうやったら人にやさしくできるか
それでわかるようになるからさ
「オリヴィエ、オリヴィエ・ダンジェリク。君の胸には、いっぱい薔薇が咲いていたんだろうね」ポル氏は、詩集に向かって、呼びかけました。するとどこからか、声が聞こえたような気がしました。
うん。それはいっぱい咲いていたよ。真珠色もあったけど。赤やピンクや黄色のも、あったよ。
「ほう、そうだろうねえ。君はやさしかった。つらいこともあったけれど、嬉しいことも、あったかい?」
うん、あったよ。ポルさんと出会えたときは、うれしかった。ぼくの中に、赤い薔薇が咲いたようだった。
「そうかい。それはよかった。そうだ。君の薔薇の部屋には、緑色の薔薇は、咲いていたかい?」
緑色? うん、それも咲いていたよ。でもそれはね、秘密だから言えないんだよ。緑色の薔薇は見えないんだ。見えてはいけないからさ。でも、香りだけは、隠せない。みんなね、不思議に思うのさ。薔薇なんてどこにも咲いてないのに、なぜ薔薇の香りがするんだろうって。ふふ、いつか、教えてあげたいね、みんなに。ぼくは、知ってるよ。ほんとの薔薇が、どうして、どこに、咲いてるのか。
ポル氏は、笑いました。笑いながら、泣きました。そして青い詩集を閉じると、それを抱きしめ、しばらく、じっと動きませんでした。ポル氏の肩が震えていました。ああ、笑わなくては。王は、笑っていなくてはいけない。いつも優しい心で、温かく笑っていなければいけない。悲しみに、沈んでいてはいけないんだよ。でも、どうしても、今だけは、君のために泣いていたい。どうか許しておくれ、オリヴィエ。
ひとりぼっちじゃないよ、ウジェーヌ。
また、誰かの声が聞こえたような気がして、ポル氏は顔をあげました。それは、なつかしいノエル・ミカールの声のような気がしました。ノエル・ミカールも、死んでゆく前、ポル氏にやさしく言ってくれたのでした。
「王様は、ひとりで、ずっと楽器を弾いていかなくちゃいけない。さみしい時も悲しい時もあるけれど、いつも、みんなのために笑っていなくちゃいけない。でも、ひとりぼっちじゃないよ、ウジェーヌ。ぼくはいつも君のそばにいるから」
するとポル氏の胸に、ほんのりと薄紅の小さな薔薇が咲いたような、うれしい気持が現れました。ノエル・ミカール、優しかったあの人。いっしょに、大切な本を探してくれた…。
ウジェーヌ・ポル氏は、詩集の青い表紙を見ながら、また、やさしい声で、オリヴィエに語りかけました。
「オリヴィエ、君に初めて会ったとき、わたしは一目でわかったんだよ。ああ、やっと、出会えたって。やっと、神様が、わたしの次の王様に会わせて下さったって。君は知ってたろうか。君の声は、小鳥の吹くフルートのようにかわいくて、きれいだった。君の心、そのままだった。君が、わたしの次の、誰も知らない王様なんだと…」
ああ、ウジェーヌ。ごめんね。
オリヴィエの声が、かすかに聞こえたような気がしました。
小さな青い詩集ひとつを残して、オリヴィエ・ダンジェリクはいってしまった。ああ、誰に、次の王様をやってもらえばいいんだろう。わたしも、だいぶ年をとってしまった。早く見つけなければ。次の王様を。王様を、探さなくては。声と言葉と心のやさしい、誰も知らない王様を…。
ウジェーヌ・ポルは、詩集を胸に抱いたまま、椅子からそっと立ち上がり、ポケットから金の鍵を取り出して、地下室に向かいました。地下室の中では相変わらず、鳩時計かかちかちと動き、時々、思い出したようにこばとが顔を出しては、ぽう、と鳴いていました。窓の向こうからは、不思議なお月さまの光がふりそそいでいます。こりすの人形が、もの言いたげに、ポル氏の顔を見上げていました。
ポル氏は、詩集を窓辺のこりすのそばに置くと、窓の下に立てかけてある、ガラスのバイオリンを手に取りました。その重いバイオリンを肩の上に持ちあげるのには、もうかなり苦労がいりました。若いころは、それは軽々と、バイオリンを持ちあげて、柔らかくやさしく弾けたものですが、知らないうちに、時は経ってしまいました。ポル氏も、相当、年をとってしまいました。長いことバイオリンを肩にかけていると、腕も肩も重くしびれてくるように、なってきました。それでも、バイオリンを弾かねばなりません。弾かねば、国の時計が止まってしまうからです。
ああ、神様、とポル氏はため息といっしょに言いました。バイオリンを抱え、弓を構えて、弾く前の姿勢をとりながら、ポル氏は心の中で祈りました。
(神様、どうか今夜だけ、許して下さい。大切な友達のためにだけ、このバイオリンを弾くことを)
ポル氏は、かわいい金の巻き毛をしたオリヴィエの笑顔を思い出しながら、心をこめて、バイオリンを弾きました。
そのやさしい音は、不思議な月の窓から出ていって、風に導かれ、国中に流れていきました。その音を聞くことができる人は、はっと顔をあげて耳を澄ましました。そして思いました。…ああ、今夜は、なんて悲しいのかしら。どうしてこんなに、さみしいのかしら。みな、何かとても大切なものを、なくしてしまったような気がして、たまらなくなりました。目から涙を流す人もいました。見上げる空さえもが、泣いているような気がしました。
そして、そのバイオリンの音を、聞くことができる人も、できない人も、眠ったときに、みなが、同じ夢をみました。
金色の髪をした少年が、夜空を飛ぶ白い月の船に乗り、青いフルートを吹いている夢を。少年が、フルートを吹くと、夜空に一斉に、真珠色の薔薇が咲いて、それはそれはきれいな星の花園が、空にゆっくりと流れていく夢を。
人々は、目を覚ましたとき、ほとんどみな、その夢のことは忘れていましたが、ある、ひとりの画家だけは、なぜかそれを覚えていて、胸にしみとおるような透き通った悲しみを感じました。そして、何かをしなければいけないような気がして、筆をとり、一枚の不思議な絵を描きました。
夜空に浮かんだ白い月の船に乗って、青いフルートを吹く、金色の髪の少年の絵を。少年の周りには、真珠色の薔薇が、夢のようにたくさん踊っていました。
画家は、その絵を、ある展覧会に出品しました。ポル氏は、そんな絵があることは、ちっとも知りませんでしたが、展覧会を訪れた人は、その絵を見ると、なぜか心を引かれて立ち止まり、しばし息をとめて、見つめてしまいました。あら? どうしてでしょう。どこかで会ったことがあるような気がする、このかわいい少年。なぜかしら、とてもなつかしいような気がして、人々はふと、国に伝わる古い歌を思い出してしまうのでした。
国には不思議な王様、住んでいる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
こりすが踊って、歌ってる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
しろかねのお月さん、聴いている。
黙ってそれを、聴いている。
王様、ひとりで笛を吹いている。
カチカチ鳴るは、金時計。
こばとがきょとんと顔を出し、笛の調べに耳澄ます。
王様、笛を吹いている。
ひとりで笛を、吹いている。
その絵は、ひとりの、品の良い上等なスーツを着た紳士に気に入られ、買われていきました。紳士はその絵を、自分が持っている、しゃれたカフェの白い壁に飾りました。カフェを訪れる客は、その絵を見ると、なんだか胸が澄んで安らいでくる気がして、とてもきれいな気持ちになりました。そのせいか、少し、そのカフェにくる客が増えたそうです。
小さな絵の中で、オリヴィエは今も、夢見るように、青いフルートを吹いています。声と言葉と心のやさしかった、オリヴィエ・ダンジェリクは今も、笛を吹いています。そうやって、真珠の薔薇の種を、人々の心にそっとまき続けているのです。
誰も知らない、誰も知らない、話です。
(おわり)
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